第2話『残業だ』


 浮遊大陸ヴァルハラ日本支部は昼下がりだった。

 古参のエインフェリアたちは来たるべきラグナロクに向け、お互いに真剣勝負で殺し合い、その腕を競い合っている。こりゃあ強くなるはずだと太郎は感心した。とても自分にはできそうもないが、事務職となれば話は別だ。ある意味、命の奪い合い削り合いはお手の物だったが、どうやらここでは五時になれば皆、あっと言う間に息を吹き返すらしい。


「そのあたりの伝承はご存じなんですね。説明する手間が省けます」

「まあゲームや創作物に囲まれてますから。ああ、もちろんスケベな方もかなりやってましたし」

「今は余りメジャーなジャンルではないでしょう?」

「女騎士もオークも、変化球が多くなりましたねえ」


 なんてことを話していると、厩舎が見えてくる。

 馬の数はことさらに多い。

 エインフェリアひとりに、ヴァルキリーがひとりずつ。そんな戦乙女たちに、このように一騎ずつの天馬ときている。多いわけだ。世話だけでもたいへんだろう。


「仕事の内容が経営コンサルだったらお手上げですが、まあ事務仕事だったらお手の物です」

「さっそく上司に引き合わせますわ。主神オーディンさまの姪御さんの孫という遠縁の神様で、日本担当ですの」

「ラグナロクもワールドワイドに展開してるんですねえ」

「滅びのラッパがプーですよ、ほんとに。ふふふ」


 厩舎に着地すると、死屍累々の平野からの喧噪が遠い。

 なるほど、ここは事務の戦場なのだなと気が引き締まる太郎であった。


「時計もありますが、首の傷が塞がったら仕事の終わる時間と思ってください。来るときは死んでないと無理ですが、帰るときはそんなに厳しくないんです。まあ北欧ルールですね」

「後ろを振り返ると地獄に落ちるとか?」

「ああ、あれは廃止になりました。あまりにも受けが悪くて組合に訴えられました。なんとなくギリシャっぽいし、あっちのがメジャーな感じでしたし。こっちの世界も色々あるんですよねえ」

「世知辛いんだなあ」


 そんなこんなで馬を繋いだヴァルキリーが案内してくれたのは、立派なお城……いや、砦の一室だった。日本の建築とは違うので四階くらいの高さと思うが、その一室が彼女の上司であるフレイヤの執務室らしい。


「フレイヤと言ったらビッグネームじゃないですか」

「超絶遠縁で同じ名前なだけです。花子とかそんくらいに思ってください」

「軽いなあ」

「失礼します、ヴァルキリーです」


 ノックをして声を掛けると、中から「おー」という少女の声が聞こえてきた。

 どうやらフレイヤの声らしいが、その声音はやや幼さを感じる。

 一声掛けて入ると、果たして中は魔窟だった。


「冴えない男を迎えてきたもんだ」


 開口一番、金髪幼女が不似合いなゲーミングチェアの上であぐらを組んだまま――あろうことかスカートではなくくすんだ臙脂色のジャージの上下で――コーラを煽りながらゲップとともに太郎を見上げる。


「ゴミ部屋じゃないですか」

「掃除が苦手なんですフレイヤさまは」

「職場でしょう?」


 そんな太郎の絶句に、フレイヤはつまらなさそうにため息をつく。


「こんな極東で何のラグナロクがあると言うんだ。世界の代謝など、ここに至っては日本の神々が担っておる。大使館として、こう、でーんと構えてりゃ良いんだよ、私たちは」


 といってガハハと笑う幼女。

 太郎はあきれかえった。


「ここがあなたの職場となります」

「嘘ぉん!」


 言われて周囲をもう一回見回す。見返す。目をこする。


「東京都指定のゴミ袋が、ゴミの山に埋まってるんですが」

「ああ、片付けようとしてそのままだった。コンビニの袋があるだろ? いんだよこまけえこたぁ」


 偉そうにデスクトップパソコンでネットブラウジングに興ずるフレイヤに、太郎はゴミ部屋の原因を見た気がした。


「あのいっそう盛り上がった山の中に机が埋まっています。フレイヤさまが使ってた昔のノートパソコンも一緒に埋まってるでしょう。掘り出して使って貰います」

「まじかー」


 後悔した。


「あのぅ、ちなみにどんなパソコンで?」

「日本政府というか、日本神妖怪支部のヌエがくれた、入札で購入が決まった日本メーカーのノートパソコンらしい。おっそろしくくっだらないスペックでゼニの無駄も甚だしかったから、新しく経費でパソコン買ってしまったわ。ぬはは、これだこれ。やっぱりネトゲくらいは快適に動かんといかんな」

「無線ですか?」

「馬鹿言えアホ言え寝言は寝て言え、有線だ。専用線をヴァルハラから真下に国会議事堂経由で繋いでる。爆速! 爆ピン! 北海道くらいまでなら格ゲー対戦も快適ときている。いくら使ってると思ってるんだ」

「そこは素直に賞賛します。いいですよね、快適な回線」


 見れば恐ろしく気を遣った終端装置とルーターだった。


「それでもこっちにきたての頃はフレイヤさまったら、『ルーター』と『ローター』を間違えて覚えていて、池袋で『無線ローターはイヤだ、ぜひ有線で爆速なのを頼む』とこのナリで言うものですから、店員さんも幼女がローターを? などと目を白黒。……まあそれはいいとして」


 フレイヤが真っ赤になって涙目である。

 まあ確かに、こんな幼女が……金髪ロリが無線じゃ物足りないとローターをせがむ場面は金を払ってみられるならぜひ見てみたいものだと思うが、まあ恥ずかしいことは恥ずかしいに違いない。聞き流すことにした。


「事務ソフトのインストールと、設定と、このヴァルハラ運営システムの構築をお願いいたします。日本神政府からせっつかれてまして」

「仕方がないなあ」


 太郎は気持ちを切り替えた。

 まずはこの腐臭がしかけている部屋の掃除から始めるのが第一歩だろう。


「で、その要請はいつまでに?」

「今週いっぱいですね」

「阿呆か貴様ら」


 太郎は思わず呻いた。今日は木曜日である。土日は休みの事務職、つまり今と明日しかないではないか。


「仕様書は?」

「そこらへんかなあ」


 フレイヤが頭を掻きながら指し示すのはゴミの山である。もはやどんなゴミか認識すらしたくないゴミの山である。カサカサ音がするが、フレイヤの神気に当てられてGとやらも近づく様子はないが、太郎には容赦なくまとわりつくだろう。恐ろしい。


「裏があると思ったんだ」

「もー、いいじゃん来週で。待たせとけばいんだよ~」

「企業の傷でしょうが。そんなんで会社やってけると思ってるんですか」


 半分社畜の憤りが漏れる。


「俺の新しい職場になるんですから! それに大使館? 大出世ですよ、逃したくないなあ」


 なので、まずはえいやとばかりにゴミの山を切り崩す。着替えは家に山ほどある。営業職の見返りであった。


「あ、これか」

「ああ、それですね」


 と、ヴァルキリーも嫌々手伝ってくれているなか、それは見つかった。

 仕様書である。

 恐ろしい染みが表紙にくっついているが、ページを跨いで染みてはいなかったのが不幸中の幸いだった。

 素早く中に目を通す。


「げげ、なんつう予算! これホントに来週までに仕上げないと年間予算凍結になりますよ」


 太郎は呻く。


「え、それはマズいなあ。日本支部たたむしかなくなるなあ」


 どことなくそうしたいような振りのフレイヤだが、その予感は当たりだろう。ヴァルキリーも肩をすくめるところを見ると、このフレイヤという管理職、

 日本には『閉店店長』とか、『死神』と呼ばれる役職が存在する。

 腰掛け程度にその場をうまく閉じるために用意される生け贄みたいな社員、管理職だが、違法風俗の生け贄店長などとは違い、このフレイヤ、おそらく本国北欧にしかるべきポストがあるのだろう。『ヴァルハラの威光遙かなる極東で働いた』という箔が欲しいだけなのだ。


「だとしたら……どうなる?」

「エインフェリアは路頭に迷い、ラグナロクはたぶんヴァルハラ同様分割統合併合身売りなんかしたりして、我ら戦乙女も十把一絡げの身売り同然に本国に帰還。まあ本国の資金が途絶するわけですから、当然といえば当然ですか」

「他の管理職は?」

「おりません」

「それでヴァルキリーにはノルマだけ課されてたり?」

「左様です。他のものは無理を言って本国から首をはねて連れてきた顔見知りを。私はこちらでなんとか日本に精通した事務屋をと」


 ヴァルキリーはため息交じりに頷くと、ちらりとフレイヤを見る。

 ナルホドそう言うことかと、太郎も腕をまくる。


「つまり、この職場の数十人の生活は、この数日にかかっていると言うことか」

「あんま頑張るなって。どーせたいしたことできはしな…………………い……ん…………」


 フレイヤの言葉が、か細く消えていく。

 彼女は見てしまった。

 太郎の顔を。

 見よ、そして聞け。

 悪鬼羅刹の気迫を漲らせた社鬼畜の形相を。眉間を縦横無尽に奔る図太い血管が立てる血液の慟哭を。


「社員の生活をなんだと思っているんです?」


 天空のヴァルハラに、地獄の奥底から響くような呟きが太郎の口から発せられる。嗚呼、知るがいい女神フレイヤよ。魂の戦士となった一士太郎の気迫は神々の住まうこの日本において数千万の慟哭と怨念を一身に受け、いままさに鬼神と化しているではないか。その力はいかに全能のオーディンの遠縁神の子孫である幼い幼女とはいえ、太刀打ちできるものではなかった。


「いいですか? まずは掃除です」

「ひっ」


 一歩踏込まれただけで、フレイヤの身がすくみ上がる。ゲーミングチェアの上で体育座りになり、己を抱えるように震える彼女を机越しに睨み付けると、太郎はパソコンの電源を物理的に引っこ抜く。

 フィーン……という音と共に、パソコンは駆動を停止。「あ……」と声を上げるも、フレイヤはモニターの明るさまでもが消えた机越しに、爛々と目を地獄色に燃やす太郎の表情が伺えなくなり、それ以上なにも言えなくなる。


「いいですね?」


 あまりの恐怖に頷きそうになるフレイヤだったが、そのとき五時の鐘が鳴り響く。


「……ご、五時だ! き、き、き貴様も働くなら、ほ、ほれみろ! 首の傷が塞がった! 帰る時間だ! 就業規則を守らねばどのみちお、おまえは………………おまえ……わ、わわ……」


 太郎の手に、ペーパーナイフが握られている。


「聞こえませんなァ」

「ぁ~――――」


 息を引くようなフレイヤのか細い悲鳴。

 太郎はついに机を乗り越えるようにフレイヤの真上から間近に彼女の顔を見下ろすと、そのペーパーナイフを自分の首にえぐり混ませ、動脈を存分に斬り裂く。

 おびただしい出血!

 ヴァルハラにおける傷は実に現実の物となる。だがしかし見るがいい北欧の幼女神よ。日本の社鬼畜は痛みを感じつつも微塵の揺るぎもない怨念の視線を落としているではないか。

 ガチガチとなる歯の間から、フレイヤの口中に太郎の熱く冷たいどす黒い血潮が流れ込む。

 引くような呼吸の度にその鼻からも太郎の怨念の臭いが籠もった血潮を吸い込む。

 もはや咳き込むことすら許されず、日暮れ夕闇落ちる部屋の中でドス赤く顔を返り血でしとどにしたフレイヤは、そのとき盛大におしっこを漏らした。湯気が漂う。


「まだ傷は塞がっていない。残業だ」


 太郎の目が細められる。


「返事は?」

「――はぃ」


 悪魔が、もう一度閉じることすら許されなかったフレイヤの目を大きくのぞき込むと、満足げにゆっくりと離れていく。


「では、お掃除です。俺の……私の、、頑張りましょう」


 離れた悪魔は、いつのまにか太郎の顔に戻っていた。

 ああ、ビジネスマン。

 フレイヤは日本の恐ろしさを垣間見た気がした。


「ある程度片付けたら、今日は帰宅します。私がいない間も、片付けは続けるように。ヴァルキリー、掃除の手伝い、いない時間も頼んでいいかな?」

「さすが私が見込んだお方。どうぞ秘書のようにお使いください。夕食はいかがいたしますか?」

「今日はいい。お試しだから。――無論」


 ちらりと、尿まみれのままガタガタ震える幼女を一瞥し、太郎は微笑む。


「採用ですよね?」

「……はィ」


 フレイヤは生唾ごと太郎の血潮を飲み込んでしまった。

 とんでもないコトダマを紡いでしまった。

 血の契約ではないか。


「机回りだけ片付けたら送ってくれ。ああ、首の傷はなんとかなるかな?」

「大丈夫でしょう」


 ヴァルキリーはにっこり。

 フレイヤはガタガタ震えたままだ。

 使い物にならなさそうな幼女をよそに、しばらく掃除をし、大袋実に二十数袋を運びきると、太郎は一息ついて頷く。

 傷は塞がりきっていた。


「じゃあ、


 フレイヤは知ることになる。

 ファンタジーは日帰りであることを。

 そのありがたさを。

 今日も。

 明日も。

 おそらく、明後日も――。



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