6
「おじいちゃんの元気の秘訣はなんですか?」
「そうだなあ……」
照りつける太陽をいっぱいに吸い込んだ、ビニールハウスの中。だらだらと汗が流れ落ちるが、目の前のおじいちゃんは平気な顔だ。
「将棋だな!」
「将棋されるんですか」
「へぼだけどねえ。将棋した後はぐっすり寝られるんだよ」
僕も好きなんですよ、と言いかけてやめた。話が長くなると、干上がってしまうかもしれない。
レポートの仕事は楽しいけど、時に過酷な環境が待ち受けている。今日は牛蒡を引っこ抜くこともつり橋を渡ることもないとは聞いていたけれど、まさか蒸し焼きになるとは思わなかった。
何とか仕事を終え一息つく。あとは帰るだけだ。
「久慈君、来週だけどね」
「はい」
「牛蒡抜くから」
「……はい」
来週も、頑張ろう。
あの日より、二倍は時間を使っている。それでも充分早いのだけれど、成長が見られるのは嬉しい。
地元の小学生の大会。成子に頼まれて、僕は敬太君の引率者でやってきた。保護者の代理というよりは、指導者としてここに来たと思っている。敬太君は僕の一番弟子だ。
順調に勝ち上がって、今は決勝戦。序盤から有利に立ち、勝勢だった。僕が教えるようになって、敬太君は序盤の勉強をするようになった。そのことが大きい。どうしてもそれまで局面ごとに考えていたのだけれど、持っていきたい局面というものを考えることにより、随分と勝ちやすくなったと思う。
終盤の入り口、駒得に目もくれず、相手玉にまっすぐに攻め込む敬太君。左の拳が力強く握られている。
そして、あっという間に勝負は決まった。実力差はそれほどないと思ったけれど、勝負の仕方が全く違った。敬太君は、僕の教えたことをちゃんと守って、ちゃんと結果を出した。
表彰式で賞状と、一番大きなトロフィーを貰う。そういえば、僕はあれを貰ったことがない。
「よかったな」
「うん」
二人で会場を出て、玄関先で話す。子供に好かれることの少ない僕だが、敬太君は完全に気を許している。彼にとって僕は、将棋を通して関われる数少ない人間だ。子供同士なら沸き起こるような敵意やライバル心も、大人にたいしてなら尊敬の念に変わるということか。
「お兄ちゃんは、どうなの」
「え?」
「最近何かもらった?」
「……お兄ちゃんは、もう貰えないんだよ」
敬太君が不思議そうな顔で僕のことを見上げている。そして、僕らの前に一台の車が止まった。ドアが開き、スーツ姿の成子が出てくる。
「ごめんごめん、遅くなっちゃった」
「ちょうど良かったよ。決勝まで残っていたから」
「あら、敬太、優勝したの?」
「うん。大丈夫だった」
成子が敬太君の頭をなでる。敬太君は真顔で受け流している。
「じゃあ、帰りましょう」
敬太君はさっさと後部座席に乗り込み、左の席にトロフィーを立てた。彼の座高よりも高いので、お兄さんのようである。
「倒れるよ」
「平気だって」
僕は助手席に乗り込む。行きも送ってもらったのだが、成子の運転はかなり乗り心地がいい。付き合っていたころはもっと乱暴だったのだけれど。
しばらくすると、ごとん、ごろごろとトロフィーの転がる音がした。やっぱりと思って後ろを見ると、敬太君は寝息を立てていた。
「やっぱり疲れてたんだな」
「体はあんまり丈夫じゃないの。運動まるで駄目」
「……そうか」
成子の唇が、開きかけて、閉じた。なんとなく、飲み込まれたものは予想できた。
「似てるだろ」
「えっ」
「なぜ黙っていたんだ」
車内の温度が、急激に冷えるようだった。けれども僕は、お茶を濁すつもりはなかった。このままずるずると関係を続けていくのは、絶対によくない。
「何のこと……」
「一緒なんだ。指すときのくせが」
「……」
「十年前、何で……」
「本当にどっちの子かわからなかった、って言ったら軽蔑するよね」
「……」
軽蔑はする。けれど、理解もしてしまう。あの頃の若い僕らにとって、正しいことだけを選ぶなんて馬鹿げたことだった。僕は夢ばかり見ていたし、成子は現実を夢にしようとしていた。きっと、僕の知らない男の方が、「父親としてふさわしく見えた」ことだろう。
「相入玉、持将棋かな」
「え?」
「二人とも逃げて、知らない間に終わっていたんだ。今、新しく指し直してる」
「新しく……」
「成子は……もう一つ対局中だけど」
成子の肩が震えている。薄く唇を噛んでいる。そして、ちょっと笑った。
「それを……終わらせなきゃ、だよね」
「終わらせたいのなら」
「……始まっていたのかも、今から思うと疑問だもん」
ごつん、という音がした。敬太君がどこかに頭をぶつけたようだ。目を覚まし、何事が起きたのかときょろきょろしている。
「敬太、大丈夫?」
「……うん」
完全に母親の顔に戻っていた。それは、僕の知らない戦いを経て手に入れたものだ。
僕は、あらゆる対局から逃げてきた。そして知らぬ間に、僕の分身が新しい対局を始めていた。僕に手の届かなかったものを求めて。
「あ」
敬太君はトロフィーを拾い上げ、胸に抱いた。その眼は、前を見据えている。僕も、こんな顔をしていただろうか。今からでも、できるだろうか。
「お母さん、プロになったらもっと大きなトロフィー貰えるかな」
「そうね、きっとね。……そうだよね、久慈君?」
「ああ」
僕らの子供は、どこまで進めるのだろうね。その言葉は、みぞおちのあたりに留めておいた。敬太君にとって、僕は他人なのだ。それは二人の大人が大人になりきれずに選んだ道の末の、歪んだ現実。僕らのわがままで、ネジを巻き直してはいけない。
不思議な三人を乗せた車が、国道を走る。外からは、幸せな家族に見えることだろう。確実なことは、不幸せでは、ない。
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