3

「じゃあ、お願いね」

「おう」

 スーツ姿の成子が、玄関から出ていく。残されたのは、僕と敬太君。

 土曜日、月に二度は出勤しなければならないらしい。その時に将棋を教えてもらえたら、と言われた。半分ぐらいはベビーシッターみたいなものだろう。

 母親がいなくなっても、敬太君は不安な顔一つせず、僕の前に盤駒を差し出した。

「早くやろ」

 長いこと将棋教室に行けず、また先日決勝で負けたこともあり、敬太君は対局したくてしょうがないという感じだ。僕は久々の実戦ということもあり、自分の実力もわからない状況。将棋を指すのが少し怖い。

 が、そんなことはお構いなしに敬太君は駒箱を開け、どんどんと駒を並べている。飢えた獣のようだ。僕もつられてとりあえず並べる。駒の手触りはいい。案外いい駒を使っている、気がする。

「振る」

 駒が整列するや否や、敬太君は歩を五枚取り上げ、カシャカシャと振った。歩が四枚。敬太君の先手だ。

 頭を下げ、そしてあげたかと思ったらすでに初手が指されていた。一呼吸おいてこちらも指す。手が交差するようにして、次の手が指される。思わず注意したくなるが、自分も子供の時はそうだったことを思いだし、やめる。どんどん局面が進んでいくが、気が付くとこちらが有利になっていた。ただ流れに任せていただけだが、体に染みついたものはまだまだ錆び付いてはいなかったようだ。敬太君はがむしゃらに食いついてきたけれど、指せば指すほど差は開いていった。大人は、受けることを苦にしない。

「負けました」

「うーん、どこが悪かったと思う?」

 敬太君はしばらく首をかしげていた。そして絞り出すような声で「銀が……」とつぶやいた。

「銀が?」

「銀が悪かったかも。金を受けていれば」

「そこじゃあ、ないよ」

 彼が指摘したのは、終盤の話だ。確かに金を打った方が長持ちしただろうが、勝敗に影響はない。

「いいかい、この前負けた相手に勝つには、全国で通用するには序盤からリードしないときつい。もっと最初から気を遣わないと」

「……はい」

 左の拳が震えていた。ひょっとしたら、今まで彼が対局した相手の中で、僕は一番強かったのかもしれない。僕の見立てでは、小学生の間でなら、ほとんど負けることはないだろう。ただ、プロを目指す者の間ではほとんど勝てないだろう。

「確認していくよ。強くなりたいだろ」

「うん」

「リードして逃げ切ればいいんだ。終盤は強いんだから」

 その後、みっちりと序盤を教え、再び対局し、その対局を振り返り、また序盤を教え……と繰り返し、気が付くと夜になっていた。

「ただいまー」

 成子が帰ってきたときも、僕らは将棋を指していた。敬太君は没頭していて、振り返ろうともしない。

「あ、おかえり」

「ふふ、懐かしい感じ」

 成子は大きなスーパーの袋をテーブルの上にどん、と置く。その姿はまさしく母親といった感じで、少し笑ってしまった。

「本当に将棋好きなんだね。ずっとしてたよ」

「ねえ。あ、ご飯作るから待ってて」

「いや、帰るよ」

「食べていってよ。謝金の代わり」

 言っても成子は人妻だ。後ろめたさを感じてしまう。

「お兄ちゃん、ご飯できるまで続けようよ」

「え、あ、うん」

 が、敬太君が離してくれなかった。そして、僕自身が将棋を楽しみ始めている。こうなるとどうしようもない。

 キッチンから包丁の音、お湯の沸く音が聞こえてくる。昔もよく成子は料理を作ってくれた。彼女は何でもできた。僕にはもったいない人だとは今でも思うし、彼女を蔑ろにする旦那はどうかしているとも思う。ただ、苦労している姿が似合う、そういうところも彼女にはあった。困難を乗り越えようとしている姿が、とても美しいのだ。

「できたよー」

 さすがに敬太君もお腹はすいていたのだろう、ご飯を食べずに将棋を続けようとは言わなかった。テーブルまで走っていくと、僕を手招きする。

「さあ、食べよ」

「ああ」

 家庭を持つと、毎日がこんな感じなのだろうか。きれいな妻と、元気な息子。それが現実になるような選択肢は、十年前の僕に準備されていたのだろうか。

 いいや。あの頃の僕は、本当に愚かだった。成子がいるのが当たり前になって、将棋のことばかり考えていた。だから、現状の僕は、あるべき僕だ。

「はい、手を合わせて。いただきます」

「いただきまぁす」

「いただきます」

 つかの間の幸せは、見せかけの幸せだ。溺れてはいけない。夢は、ただ夢であればいい。

 成子の食事は相変わらず美味しくて、食べているときの敬太君はかわいらしかった。そして成子は、こんなことを言う。

「やっぱり三人だと、楽しいね」

 敬太君は大きく頷く。僕は、色々なものから視線をずらした。


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