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 帰宅して駒を探したけれど、見つからなかった。どこにしまったのかどころか、引っ越しの時ちゃんと詰めたのかどうかも覚えていない。あれほど情熱を傾けていたのに、将棋はすっかり僕の日常から消え失せていたようだ。

 ネット通販のページで、盤駒のセットを探した。安いものは本当にお手軽な価格で手に入るようだ。いろいろ探しているうちに、ガラスの駒やかわいいどうぶつ柄の駒まで見つかった。知らない間に将棋界もオシャレになったのだろうか。

 実は、学生の時もあまり将棋界のことは知らなかった。ただただ強くなることに没頭していた。プロのことも、道具のことも、下手をすればライバルたちのこともほとんど知らなかった。将棋に関わるもろもろを楽しむ余裕はまったくなかった。

 今なら。今なら、普通に楽しめるのかもしれない。趣味もなく日々を過ごすことに飽きている僕は、将棋と二度目の出会いがあってもいいかな、なんて思い始めている。



「こっちこっち」

 成子は、カウンター席の一番奥に座っていた。手招きされるままにそちらに行き、隣の席に座る。

「いいお店でしょ」

「そうだね」

 正直なところ店の良し悪しはわからないのだが、他にお客がいなくて静かでいいとは思った。

「そういえば、こういうところは来なかったよね」

「居酒屋ばっかだったっけ」

 思い出話をするのも初めてだ。成子は、僕から逃げたのだから。

 それでもあの日再会して、連絡があるような気がした。僕はアドレス帳に彼女の名前を残していた。十年間ずっと、どこかで心の準備をしていたのかもしれない。

 今日の成子は、前回よりも数段魅力的だ。ムートンのジャケット、太いボーダー柄のレギンスに、ボーイッシュなブーツ。おそらく彼女は、この格好が好きではない。僕が好きなことを見越して、コーディネートしてきたのだ。

 相手によく見られたい。成子は人一倍そう考える性格だった。それは多分、今でも変わっていない。

「番号変わってなくてよかった」

「変えるの面倒だから」

「昔からそうだったよね。引っ越そうともしないし、自転車もボロボロになるまで乗って」

「そうだったっけ」

 成子はマスターに、指を二本立てて頷いた。マスターも頷き返して、カクテルを作り始める。これは、いかにも常連っぽい。

 しばらくして出されたのは、成子の前には青いカクテル、そして僕の前には少し茶色がかったカクテルだった。

「これは……」

「ネグローニ」

 マスターの声は思っていたよりも高かった。なるほど、黙っている方が渋い。

 聞いたことがなかった。というか、普段はビールとワインしか飲まないのだ。

「苦いけど、おいしいよ。私は好き」

 成子はそう言いながら、グラスに口を付ける。どうせわからないので、そちらの名前は聞かなかった。

 僕も少し飲んでみる。確かに苦くて、甘くて、少しオレンジの香りがした。好きとも嫌いとも、何とも言い難い。

「それで、頼みたいことって?」

「……うん」

 僕は、単に再会を喜ぶために誘われたわけではない。僕にどうしても頼みたいことがあるから、と呼び出されたのだ。

「敬太のことなんだけどね」

「ああ」

「将棋教えてやってくれないかな」

「……え?」

 完全に予想外だった。仕事のこととか、もうちょっとややこしい話とか、そういうことを覚悟していたのだ。

「あのね……私今、別居してるの」

「そう……なんだ」

「敬太を連れて家を出て……将棋教室からも遠くなっちゃったし、お金も余裕なくてさ……。でも、敬太は将棋頑張りたいって、いずれプロになりたいって言って。何とかしてあげたくて……」

「そっか」

「本当に……できるだけのお礼はするから。こういう時に久慈君に再会できたの、本当に運命だと思って」

「うーん」

 運命。僕もそれを感じていたが、成子とは受け止め方が違ったようだ。彼女は完全に、母親として知り合いに頼みごとをしている。そして僕は、かつてあんなに痛い目に合ったのに、いまだに彼女に対して断ることができなかった。

「わかった。時間が合う時なら、いいよ」

「本当? よかった」

 口角をぐっとあげて笑う成子。右の頬だけに、えくぼができる。相変わらずそれは、かわいい。

「それにしても、成子の子供が将棋してるなんて、不思議な感じがするよ」

「……そうね。私もびっくり」

 その後は、これまでの話をした。ただ流されるまま今に至っている僕に比べて、成子の十年間は濃密だと思った。子供ができて、結婚。義母との不和。旦那との擦れ違い。育児疲れ。別居、転職。相槌をうってはいても、実感はできない。

「ふふ、久慈君に悪いことした、罰かな」

「だろうね」

 成子はもてる。それは仕方のないことだ。だから成子のことを恨みながらも、僕なんかが繋ぎ止められるはずもなかった、とも思う。そもそもなぜ僕が付き合えたのか、今から思えばそれも不思議だ。だから、幸せな時間を感謝だけして、できるだけ悪いことは思い出さないようにしてきた。

「意地悪」

「知らなかった?」

 平坦な日常だった。だから今、わくわくしてしまっている。それを、知られたくはなかった。

 いつもは飲まない酒が、いつもとは違うところを酔わせていく。とても心地よくて、僕は笑っていた。

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