ピース オブ ドリーム
清水らくは
1
「はーい、それでは今から注意事項を説明しますねー」
目の前には百人をこえる子供たちがいるが、僕の話をまじめに聴いているのかはよくわからない。僕自身この大会に出たときには、早く対局が始まらないか、そればかり気にしていた気がする。
本来なら今頃家でゴロゴロしながら、テレビを見ているはずだった。それが突然、仕事の依頼だ。担当するはずだった塚原さんが急に高熱を出してしまい、本人は這ってでも行くと言ったらしいのだが、さすがに無理そうだということで社長が病院に運搬した。今は点滴を打っているという。電話で「久慈君さ、将棋に詳しいって言ってたじゃない。お願いするよ」と言われて、あわてて会場に駆け付けた、というわけだ。
「まずは、対局前にはちゃんとあいさつしましょーねー」
まばらに「はーい」と返事が。中には携帯ゲームをしている子もいるが、知ったこっちゃない。
一通り説明を終えたら、あとは地元支部の方にマイクを渡す。反則やら持将棋やらの説明が始まるが、おそらく子供たちはわかっていない。僕もほとんど聞いてなかった。
そう、何年も前、僕は向こう側にいた。まだこの大会が始まって間もない頃だったと思う。すでに道場で有段者だった僕は、楽々と勝ち上がり、決勝の舞台に立った。けれども、ぼろ負けした。多くの人が観ている前で、本当に泣きたくなるほど惨敗だった。僕に勝った相手はプロになり、僕は今こうして地方タレントだ。
急遽決まったので慌てていたけれど、じっくり台本を読むとそれほど忙しくはない。プロ棋士が保護者に行うトークショーの告知をしたり、次の対局の開始時間を知らせたり。これならなんとかこなせそうだ。
大会は年々参加者が増えているらしく、特に保護者が熱心になっているそうだ。うちの親は無関心だったので、不思議な感じだ。
最近は将棋のことはほとんど忘れていた。大学生の頃は、僕はトップになることに必死だった。プロはあきらめた、その代わりにアマの頂点へ。それを目指し続けて、結局それもかなわなかった。
一番純粋に楽しめていたのは、小学生の頃だったかもしれない。そんなことを思いながら、淡々と仕事をこなしていく。
午後になり、決勝戦進出の子供が決まった。子供たちはステージ裏で袴に着替える。僕は彼らを紹介するため、資料を渡され、わからないところは保護者に質問をしておかなければならない。
低学年の部一人目を確認し終え、二人目へ。
「ええと、野矢君の保護者の方は……ああ、お母さん……」
そこに立っていたのは、小学生の母親とは思えない若々しい女性だった。細身の上にそれを強調するような細くてオレンジのワンピース。髪は鮮やかな茶色で、肩のあたりまで伸びている。顔は相当の美人だが、ほりが深くて好き嫌いが分かれそうだ。ちなみに僕は好きな方である。というか、僕はこの人が好きだった。
「お久しぶり」
「
樫田成子。大学時代付き合っていた女性だ。そして今は野矢成子で、そして小学生の子供がいるということなのか。
「久慈君、アナウンサーしてたんだね」
「あ、ああ。他にもいろいろと」
「びっくりした? 将棋してるんだ」
「強いんだね」
「うん。熱中しちゃって」
明らかに動揺している。僕らが別れたのは十年前。そして彼女の子供は九歳。いまさら未練があるわけでもないのに、色々と考えてしまう。
成子とは同じ歳だけれど、当時彼女はすでに働いていた。行きつけの店の看板娘を、必死になって口説いたのだ。彼女は僕のことを子ども扱いしていたけれど、交際はそれなりに順調だった。それが突然ある日、別れを切り出された。詳細なことは思い出したくない。
「久慈君はまだしてるの」
「いや、全然」
「そうなんだ。意外」
あの頃と変わらない、たっぷりと余裕のある話し方。十年の歳月を重ねて、大人の女性として完成しきった印象だ。
「ええっと、敬太君か。ちょっといろいろ確認させてもらっていいかな」
「うん」
本当は彼女自身のことを聞きたかったけれど、今は仕事の最中。子供のことについて質問をする。父親から将棋を教わったこと。学校ではほとんど負けないこと。テレビゲームはしないこと。
「なるほど」
「変な子でしょ」
「将棋の強い子は、だいたい変だよ」
成子が母親……それは不思議な事実だった。彼女はどこか浮世離れしていて、自由だった。子供のためにあれやこれやする姿は想像できない。
「ありがとう。敬太君、勝てるといいね」
「ふふ。だといいな」
袴姿の二人が出てきた。対局の準備が整ったようだ。敬太君は慣れない状況にも一切慌てることなく、堂々としたまま時間が来るのを待っていた。
僕は一足先に舞台に出る。決勝戦の持ち時間や読み上げ、記録係の方を紹介し、対局する二人を呼び込む。ちょこちょこと真ん中までやってくる姿は、とてもかわいらしかった。自分もこんな感じだっただろうか。もうちょっと生意気だった気がする。
対局が始まると光速で進んでいく。小学生はほとんど時間を使わずに指す。途中一気に有利にできる局面もあるのだが、そんなことはお構いなし、直感と直感で二人の手が交差していく。時折考えている時間もあるが、敬太君は駒台の駒をずっと叩いていた。
あっという間に終盤だ。敬太君が優勢だったけど、まぎれ始めている。ばんばん両取りがかかって、収束が全く予想できない。そして。
「ああ、投了しましたね」
最後に王手飛車が綺麗に決まった。敬太君は負けた。ここからはまた僕の出番だ。二人に感想を聞き、表彰式を行う。
敬太君は負けても淡々としていた。ただ、左の拳が強く握られていた。悔しさはあるのだな、と思った。
続けて高学年の部も執り行われ、僕の仕事はひとまず終わった。突然の仕事で疲れたが、臨時収入が入ったと思えば気分もいい。それに、子供たちが将棋をする姿には元気を貰えた。
ただ、胸の奥で何かがざわめいてもいた。原因は、明白だ。
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