崩壊を恐れて

タチヅキ シホ

第1話

 電車を降りると、構内が人でごった返して歩きにくいことに苛立つ。それでも、人の流れに沿いながら化粧室へと進む。

 彼を失ってからの私の頭の中は、同じ思考を繰り返してばかりだ。

 例えば、平気で道に缶を投げ捨てるような奴を見たとき。例えば、店員に怒鳴っている客を見たとき。

 そんなとき、私は大抵、「どうしてこんな奴が」と人目もはばからずに、泣き叫んでしまいたいくらい悔しくなる。喉をこじ開けながら上ってくる声を吐き出してしまいたくなる。

 「どうしてこんな奴が生きてて、彼が生きてないの」と。

 ゴミはゴミ箱に捨てる、そんな当たり前の常識を持った彼は死んでしまったのに。店員が注文を取り間違えた時でさえ、笑顔で「大丈夫です」と言っていた彼は、死んでしまったのに。

 ――どうして、こんな奴が平気で生きているんだよ。

 そうやって、取り乱すことを想像する。

 その時、彼はきっと望まないと分かっていても思ってしまうのだ。あの時、誰かが死ななければならなかったのなら、彼ではない他の誰かが死ぬべきだった。歩いていてもいるじゃない、彼よりそれに適した人間が。ニュースを見ても、毎日コロコロと入れ替わって現れたじゃないか。そうだったら、今も私は彼の隣で笑っていられたのに。

 そこまで思ってから、私の方が他の誰よりも、よっぽど死ぬべきだったことを思い出す。私は、他人を責める権利を持っていないんだった。

 それからはただ、後悔と懺悔が続く。

 

 殺風景な化粧室に入ると、目の前の鏡に自分の姿が映る。彼が生きていた頃よりは、少し痩せた。それでも、別人というには程遠いし、そこに映る姿は紛れもなく私だ。彼は、私の顔も服装も好きだと言って、特に胸下まであるこの黒髪が好きだと言って、愛してくれた。彼は優しいから、きっと髪色やメイクを大きく変えても愛し続けてくれたのだろう。

 そんな想像が容易いくらい、私は、私には十分すぎるほどに愛されていた。幸せにしてくれていたのに。ごめんなさい。いくら謝ったって、償いきれない。


 あの日、私達は婚姻届を提出するために役所に向かっていた。緊張する、とか、楽しみだ、とか言って浮かれながら歩いていた。そんな中、無免許の未成年が運転する車が、車道側にいた彼だけを撥ね飛ばした。その直前、どこからか「危ない」という甲高い女性の声が聞こえたことは覚えている。

 

彼の死は、死に方は、センセーショナルなニュースとして扱われた。そしてまた、無免許運転や未成年が犯した罪としても、しばらくの間、繰り返し扱われた。同情や、犯人に対する怒りの声がテレビで流れていた。 

 ――可哀想。

 私もこれまで、この類いのニュースを見て

はそう思ってきた。何か別のことに取り掛かると、すぐに忘れてしまう感情を抱いてきた。毎回同情して、悲しんで、涙を流しているわけにはいかないし、そこまで心が動かされることもなかった。ただ、可哀想、と少しの間胸を痛めるだけだった。

 彼の死は連絡せずとも、すぐに私の周りにも広まった。友人や同僚たちが、私にメッセージを送り、気にかけてくれた。

「大丈夫?大丈夫なわけないよね」「私にできることがあれば何でも言ってね」

 みんなに心配をかけていると思うと落ち着かなかった。相手が目に見えてひどく傷ついている時、何と声を掛ければ良いのかわからない。だから、ありきたりでステレオタイプな言葉になってしまう。そう思うと、よりいたたまれなかった。彼を失った悲しみで心が溢れかえりそうなのに、見えない何かがどんどん迫ってきているかのように落ち着かない。

 それまでは、自分に向けられているものでは無いような気がして、コメンテーターや見知らぬ人の同情は届いてこなかった。けれど、身近な人の存在を意識した時、それらが別の意味を伴って、どっと押し寄せてきていたことに気づいた。みんな、私が哀れまれていることを知っている。私が可哀想な女だと思われていることを知っている。そう気づいたらもう、ダメだった。


 思い返せば、私はいつもそうだった。哀れまれることは避けていた。

 本当はもう、限界で助けてほしくても、それを求めることはできなかった。耐えきれず表情に表れて、「大丈夫?」と言われたとしても、なんのことか分からない風を装ってごまかす。その一言に救われるとともに、外に表れないようにと身を引き締めた。そうすることしか、できなかった。

 だから、自ら辛いと吐き出している人を見ると、私には決して出来ないと感じる。自分のその姿を想像すると不安を感じる。一度そうしてしまうと、私の中でガタガタと音を立てて、大きな塊が崩れていくことが予想できるから。

 だから今まで、もういつからかわからない頃から今まで、あまりにも膨大な量のものを積み重ねてきた。その一つ一つのものの名は、もうわからない。中には名がついていて、はっきり識別できるものもあるけれど、大抵のものは形もわからない。けれど、それらを積み重ねさせた原因はわかる。気付かぬうちに高くなってしまったプライドだ。プライドによって、処理される機会をなくし、ただ積み重ねられたそれらは、少し力を加えれば崩れそうな程、危うくバランスを取っている。だから外部からの力が加わること――例えば助けられ、抜き取られること――を避け、何か一つでも主張し、そこから崩れることを避ける。

 きっとこれは、死ぬまで崩れず、重なり続けるのだと思う。


 そんな私にとって、本来、彼の死はこれを崩す機会だったのだろう。精神的に参ってしまっても仕方のない状況にも思える。助けを求めて、崩してしまえばきっと楽だった。現に、「助けて」と声が出た。一人きりの暗い部屋で、抵抗して閉まる喉を細くこじ開けて、かすれた声が空気を震わせた。それは、鼻へ、目へ伝わり涙が流れた。枯れたと思うくらい流しきったはずの涙が残っていたことに驚いた。もう、今の私が何を求めているのかもわからない。自分がどうしたいのか、どうしてほしいのかわからない。悲しみに浸って痺れ、麻痺していた体は全身に穴を開けられ、質量を失ったかのようにふわふわと軽いのに、動作は鉛のように重たかった。そして、それほどまでにボロボロになっても、積み上がったものを崩すことは出来なかった。崩せるはずがなかった。彼の死は、私からその権利を奪っていった。いや違う、私が手放したのだ。


 鏡に近づき、バッグの中から化粧ポーチを取り出す。そういえば、この間、同僚から「雰囲気が変わった」と言われた。婚約者が死んだ人間に向かって、それを言うか?、と思ったがあまり気にとめなかった。確かに、メイクを変えていたからだ。しかし、よく考えるとこれまでにも何回か変えたことはあった。では、やはり痩せたからだろうか。しばらく考えて、どうでもいいことだと思った。

 正面の鏡に映った顔は、まだほとんど化粧が崩れていない。赤い口紅を取り出して、下唇を軽く噛みながら引き直す。


 あの日、彼を殺したのは私だった。正確には、彼が死ぬ原因を作ったのは、だけれど。でも、そんなことはほとんど一緒。

 私達はあの日、役所近くの駅で待ち合わせていた。けれど私は、乗るべき電車を逃したことで時間に遅れた。それさえなければ、私が時間通りに着いていれば、彼は死ななかったのに。あのときの私は、どうしようもなく愚かだった。

 一番クズで、死ぬべきだったのは私。誰にも、私のせいで彼は死んだと言えない私。本当は、今すぐにでも死んでしまいたい。でも今死ねば、婚約者の後を追って死んだと思われるだろう。それは出来ない。もっと、私が何故死んだのか、どんな助けを求めていたのかわからない時に死ななければ。婚約者の後を追って……なんて、わかったようにいわれるのは耐えられない。

 死なないことに加えてもう一つ、決めたことがある。私の隣にはもう彼のような人はいらない。

 ――あぁ、私にはもう資格自体がないか。

濃く赤い唇の端が、嘲るように引き上がる。私は彼の優しさに、彼に、依存しすぎていた。彼だけに、頼りすぎていた。もう、彼のような人は、こんな私の隣にいてはならない。


 この後私は、新たなの男のもとへ向かう。特に思い出の無い、関わりの無い男との時間は、私に安らぎを与える。その男の人生も、その後のことも、何も気にしなくていい。ただ、心の安らぎだけを求めて私は、ネオンが光る街へ向かう。

 今はまだ、崩れるわけにはいかない。



 

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