八年目

櫻井雪

八年目

 あの人と上手くいかなくなったのはいつからだろうか。

 結婚してからもう結構経つけれど、随分前からすれ違っていた気がする。今振り返ればあの人が仲直りしようとした時に拒んでいたのは私だったけれど、でも、しょうがない。もう子供だっているのにフリーターだなんて信じられないでしょう。この家の大黒柱は私で、あの人が稼いでくるのは小銭だけなのだから。

 いつまで夢を追いかけているの、と何度問いかけたか分からない。シンガーソングライターを目指す若者は山ほどいるけれど、その中で成功する人なんて一握りだけだ。ルックスも必要だし、勿論運も才能も必要になる。あの人にそんなものがあるとは思えなかった。

「成功するまで帰らないから子供たちを頼む」

 そう言われたのは大喧嘩した次の日の朝だった。

 出て行けと言ったのは私だったけれど、本気で言ったわけじゃない。ずっとフリーターで夢ばかり追いかけているあの人に、家を出て行く根性なんてないと思っていた。住む家も暮らすお金もないのに出て行くなんて、そんなの馬鹿のすること。あの人は確かに馬鹿だけれど、そこまで馬鹿だとは思っていなかった。

 あの人は私だけでなく子供たちも捨てたのだ。離婚調停は負ける気がしない。

 今日はあの人と離婚するために家を出た。事前に聞いていた住所に電車を乗り継いで向かう。

 なるほど、あの人は今も昔と変わりなく収入はほとんどないらしい。着いたアパートは、風が吹いたら倒れそう、と言うと大袈裟かもしれないが、それほどにボロボロだった。築六十年はあると見える。ただでさえ田舎の駅からも遠かったし、都内でも最低辺の家賃に違いない。

 チャイムを鳴らすと、何か物音がした後に覇気のない声が聞こえて扉が開いた。久しぶりに見る顔だ。

「こんにちは」

 私がそう告げると、あの人はとても驚いた顔をした。当然だ。ここに来ることは伝えていなかったのだから。

「入らせてもらうわよ」

 あの人が何か言う前に、私は部屋の中に入った。安っぽいギターが一つとラジカセ。後はテーブルくらいしかない簡素な部屋だった。床には紙が沢山散らばっている。

 やっぱり片付けさえも出来ないようなだらしない人なのね。元々低かった好感度がぐんぐん下がっていった。

「優子、突然どうしたんだよ」

 私が脱ぎ捨てた靴を直しながら、あの人はそう問いかけてきた。

 今まで我慢してきたけれどやっと言える。やっとあの人とおさらばできる。

「今日はね、貴方と離婚するために来たの」

「は?」

 その時の間抜け面は傑作だった。

 私はそれに追い打ちをかけるように言葉を紡ぐ。

「はい、これ離婚届」

 鞄に入れていたそれを出してみせると、あの人はそれを受け取らず、ただ呆然と見つめていた。まあ、突然のことだし理解に時間がかかるのは分かる。

「私喉が渇いちゃった。コンビニでお茶買ってきてよ」

 コンビニへ行く途中で頭を冷やしてもらえれば良いと思ってそう言うと、あの人は何も言わずに離婚届を近くのテーブルに置いて出ていってしまった。その態度に若干苛立ちを感じたが、それもこれが最後だと思えば許せる。

 あの人が出ていってから、部屋を見回した。......汚い部屋だ。

 私はどうしてもその散らかり具合に我慢できず、片付けようと床の紙を手に取った。すると、その下にCDがあるのに気がつく。あの人は自称シンガーソングライター志望だ。音楽事務所に曲を送っているとも言っていたし、このCDにはあの人の曲が入っているのだろう。

 特に意味はなかった。なんとなく、置いてあったラジカセの電源を点け、そのCDを再生する。

『東京都在住、佐藤文則』

 ブツブツ、というノイズに混じってあの人の声が聞こえてきた。先ほど聞いたように覇気がない声だ。これじゃ受かるものも受からないだろう。

『題名、遊園地』

 その後すぐにギターの前奏が入り、あの人の歌声が聞こえてきた。

 詩はよくありがちなものだ。恋人と遊園地に行って、それで観覧車に乗って「ずっと一緒にいたい」と言う。メロディもどこかで聴いたことのあるようなもので、この程度のレベルなら素人でもゴロゴロいるだろう。

 呆れてラジカセの電源を切ろうと思ったその時、私は流れてきたフレーズに手を止めた。

『――やっと良い雰囲気になったと思ったら 君はアイスを服に零してしまった――大丈夫? と訊いたら少し泣きそうで 僕は不謹慎にも愛しく思う――』

 あの人との初デートで、私はお気に入りの服にアイスを零してしまった。久しぶりの遊園地で、しかも好きな人と一緒ではしゃいでいたのだ。そんなあの人との楽しい時間を自分で壊してしまったと思った私は思わず泣きそうになって――

『――好きだよと言う瞬間 《私も》と聞く瞬間――どんな瞬間よりもずっと 幸せな瞬間だったよ――』

 どうしたら良いか分からなかったのだろう。あの人は私の手を力強く握って「好きだよ」と言った。どうしてこんな時にこんなことを言うんだろう、そう思ったらなんだかおかしくて涙は一瞬で引っ込んでしまった。何故私が笑ったのか分からずオロオロとするあの人に、握られた手を握り返して「私も」と言った。

『――今は離れてしまったけれど 忘れたことは一度もない――月並みだけど何度でも言う 君を誰より愛してるから――』

 そんなの嘘だ。愛してるなんて言われたことはほとんどない。いつだってなんとなくはぐらかして、まともに返してくれたことなんてほとんどなかったでしょう。

 床に散らばった紙をよく見ると、それは全て歌詞カードだった。相変わらず雑で汚い字だ。昔にそう指摘したら「男はこれくらい豪快な方がいいんだ」と少し恥ずかしそうにしていたから、可愛いな、なんて思ったことがある。

 あの人の歌声を聴きながら散らばった歌詞カードを読んでいると、昔を思い出す。若い頃の私はあの人が大好きで、あの人のためならなんでもしたいと思っていた。だからプロポーズも私から。定職に就いていないから、まだ夢を追いかけたいから、と私のプロポーズを断ったのはあの人だったけれど、それを強引に結婚に持っていったのは私だった。

 お金がなかったからきちんとした結婚式は挙げられず、一緒のアパートで二人きりの結婚式を挙げた。結婚指輪がないのは覚悟していたけれど、あの人は用意してくれていた。少ないアルバイト代で買ってくれたという結婚指輪を貰った時は泣いて喜んだ。

「幸せに出来るかどうかは分からないけど、俺は君を幸せにしたい」

 プロポーズのやり直しといって言われた言葉はまだ覚えている。

 昔は本当に幸せだった。お金では決して買えない幸せがそこにはあった。

 あの人と上手くいかなくなったのはいつからだろうか。

 きっとあの人が優しすぎるから、私はそれに甘えてしまっていたのだ。なんて馬鹿なのだろう。つい先程まであの人を酷く罵っていたというのに、今ではそんなことも忘れて思い出に浸っている。本当に自分が馬鹿で、どうしようもなくて、泣けてくる。

 ラジカセから聴こえるギターの後奏が終わって、またあの人の声が聞こえてきた。

『この曲は私の妻に送る曲です。私がきちんと働かずにこうして音楽ばかりしているのに、それを支えてくれた妻には感謝しかありません。その妻に、少しでも喜んでもらいたい。その一心でこの曲を作りました。よろしくお願いします』

 いつの間にか頬には涙が流れていた。流れる涙で歌詞カードを濡らさないように拭うけれど、それでも零れ落ちてしまいそうになる。

「優子?」

 玄関で声が聞こえた。顔を向けることは出来ない。おかえり、ごめんなさい、と言おうとしても声が出てこない。

「体調でも悪いのか?」

 テーブルに袋を置いて、あの人は私の背中をさすった。こんなにも優しい人を、私は傷つけてしまったのだ。

「あ、もしかしてこのCD聴いた? 悪い、こんなの気持ち悪いよな」

 はは、と渇いた笑いをするあの人に、そんなことはないと言いたくても言えなかった。

「......慰謝料なんてほとんど払えないけど、出来るかぎりのことはするから。本当に今まで迷惑かけて悪かった。謝って済むことじゃないだろうけど、本当に悪かった」

 そう言ってあの人は立ち上がった。紙の擦れる音から、離婚届を手に取ったのだろうと分かる。もういい、離婚届なんて書かなくていい。遅すぎたけれど、私はやっぱりこの人と生きていきたい。

 私は立ち上がり、文則さんの持っていた離婚届をくしゃくしゃに丸めて床に投げ捨てた。

「優子、どうし――」

「ごめんなさい」

 そう言ってもうどこにも行かないように、思い切り抱きしめた。

「ごめんなさい。私、間違ってた。文則さんを支えていくって決心したのに、頑張る貴方を見て自分は見ているだけで、これで良いのか分からなくなって――ただの八つ当たり。本当にごめんなさい」

「優子......」

 文則さんはゆっくりと私の背中に手を回した。

 久しぶりに触れる彼の体は前よりも細くなっている。大変な生活をしてきたのだろう。そう思うと、また目の奥から涙が溢れてきそうになる。

「優子」

 その声に私が上を向くと、文則さんは私の目尻に手を当てて、少し困ったように「好きだよ」と言った。すぐにあのことだと気がついて「私も」と返すと、また強く抱きしめられて愛しさが溢れる。

「......愛してる」

 恥ずかしさを押し殺すように力が込められた手のひらに、私は手を添えた。

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八年目 櫻井雪 @sakuraiyuki

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