*


「三分前です。そろそろスタート地点に集まってください」と集合がかかったため、先ほど朱夏と朱里がやる気満々で駆けていったほうへ向かいながら、香魚は優紀に気づかれないよう、ひっそりとため息をついた。

 変な言い方だが、無事に嘘をつきとおせたことに対する安堵のものと、そうはいってもまだ複雑な心境に対するものと、両方だ。

 朱夏や朱里の前では明るく振る舞い、優紀の前でも前向きなことを言ったけれど、心の中はまだ、ぐちゃぐちゃで、けちょんけちょんで、ボロボロのボロ雑巾である。本当は今日だって休みたかった。応援してくれたふたりに事実を半分だけ報告するのも、申し訳ないし気が重くて仕方がなかった。

 でも、どんなに傷ついても時間は止まってはくれない。自分だけ歩みを止めるわけにはいかないのだ。スタートに向かって足を進める周りの子たちのように、これから一日がかりでゴールの南和を目指して歩くように、時間も足も、もう止まれない。

「……ねえ、香魚。無理だったら帰ってもいいんだよ? こんな状況でスタートなんて、やっぱりどう考えてもこくすぎるよ……」

 わらわらと集まっていく生徒たちの波に乗りながら、優紀が声を潜めて言った。

「朱夏ちゃんと朱里ちゃんには、半分だけ報告することに決めたけど、それで本当によかったのかなって、ちょっと思ってて」

「うん、後ろめたいよね」

「ううん、そうじゃない。香魚の心のほうだよ。後ろめたい気持ちもそうだけど、そう簡単には切り替えられないでしょ? ずっと好きだったんだし、あんなことをされて笑ってられる心境じゃないよなって思うと、もっとほかに上手い報告のし方があったんじゃないかって、どうしても考えちゃうよ……」

「……」

 そう言って力なく笑う優紀に、香魚はどんな顔で、どんな言葉を返したらいいか、すぐにはわからなかった。優ちゃんにはバレてしまっていたのかもしれないなと思う。……さっきまでは、ただの空元気だったことが。

 実際は、少しでも気を抜けば金曜日のことがよみがえる。家に帰ってひとりになると、心が泣き叫んでどうしても涙がこぼれる。昨日の夜だって散々泣いて、今日はふたりに会うというのに、まぶたがこの有り様だ。

 きゅっと唇を噛みしめて優紀を向く。

「……ごめん優ちゃん、私、本当は……」

 本当のことを知っているのは優紀だけだと思うと、もうダメだった。みるみるうちに瞳に涙が溜まり、噛みしめた唇の隙間から熱く湿った息が漏れて、どうにもならない。

「……うん、わかってるよ。ここまでよく我慢したよ、香魚は。さっき私に言ってくれたことも本当だったんだろうけど、もう強がんなくていいからね。泣いて泣いて、めちゃくちゃ泣きまくっていいんだからね」

「うん、うん……っ」

 優紀の目にも涙の膜が張っているのを見ると、香魚の目からは堰を切ったように涙が流れていった。本当は泣きたかった。ひとりでではなく、優紀の前で。ボロボロになった自分の心の中から、涙も痛みも全部全部、ずっとずっと吐き出してしまいたかった。

 でも優紀には朝倉くんのことがあった。こっぴどく失恋した自分に遠慮して言えないでいることがあるんじゃないかと思うと、泣きたい気持ちの反面、それを聞くまではどうしても泣くわけにはいかなかったのだ。

 だけど、もういい。

 だって、優紀相手に格好をつけたところで今さらだと笑われる。聞きたかった報告も聞けたし、朱夏と朱里には心苦しいながらも嘘をつきとおせたし、もう気持ちを押し込めておく必要なんて、どもにもないのだから。

「なんであんな、ひどいこと……っ」

「そうだよ! 人の気持ちをなんだと思ってんだって話だよ。あんなクソ野郎だとは思わなかった! 地獄に落ちればいいのに!」

「四年だよ……? こんな失恋のし方ってある⁉ ひどい! さすがにひどすぎる!」

「そうそう、もっと言ってやれ、香魚!」

「本気で好きになった子に遊ばれて、こっぴどくフラれちゃえっ。私よりひどいフラれ方して、こっちの気持ちを味わえばいいっ」

「そうだ、そうだ!」

「ああもうっ。あんなのが好きだったなんてバカみたい! 貴重な時間を無駄にした!」

「そのとおり! あんなクソ男のことを考える時間さえ無駄無駄。全然っっ意味ない!」

「涙だってもったいないよ!」

「そうだよ、涙も貴重な水分なのに!」

 優紀が絶妙な合いの手を入れてくれるおかげで、心の中に溜め込んでいたものが、どんどん言葉になって吐き出されていく。

 空元気だったけれど、さっき優紀に言ったことは本当だ。でもそれ以上に、あんな男だったとは知らずに四年もの時間を無駄にしてきた自分が、ひどくバカらしかった。

 ひどい男ではあるものの好きだったから悪く思いたくない気持ちと、好きだったからこそ、けちょんけちょんに、けなしてやりたい気持ちと。ひとりでいるときは前者が勝っていたが、優紀の前では、それも後者に傾く。

 どうせここに悠馬はいなんだから、と開き直れば、自分でもびっくりするほど思いっきり悪口が出てきて、でも言えば言うだけすっきりして、なんだかとても気分爽快だ。

 ――と。

「あ、ねえ、一松先輩のことはどうしたの? あの人、わざわざ一年の教室まで来て、もろ本命欲しいアピールしてたけど」

 香魚と優紀の耳に、なんともタイムリーな話題が飛び込んできた。ふたりでどこだと目を走らせると、緑色の子、ふたりを含む五人ほどのグループが、何人かの生徒を挟んで横一列で香魚たちの前を歩いていた。

 緑は一年生の学年カラーだ。しっかり悠馬の名字を口にしたということは、そう尋ねられた彼女は、間違いなく悠馬といい感じらしいと噂で聞いたマネージャーの子だ。

「ああ、そういえば昨日の男子の出発前にも【お守りまだ?】ってLINE来た来た。でも、あそこまでされると逆に気持ち悪くなっちゃって。そこまで顔がいいってわけでもない雰囲気イケメンのくせに、思ったよりしつこくて、もう嫌になっちゃったよ、私」

「じゃあ、どうするの?」

「適当に遊んで、それで終わりにする。同じ部だから変なことはできないもん。とりあえず、前向きに検討したけど先輩後輩の関係のままがいいってことにしようと思って。でも、なにか買ってもらったり、奢ってもらったりはするつもり。で、満足したらバイバイ」

「うわー……」

 しかし彼女は、先輩だろうとも、ひとつも言葉を選ばず辛辣なことをサラッと言って、友達を思いっきりドン引かせている。

 でも、はっきりしているからか、不思議と彼女の印象は悪くない。むしろ気持ちがいい子で可愛いなと思うくらいである。

 それに、一年の教室まで行って欲しいアピールをしたり、当日になってまでお守りを催促したりするのは、いくら四年想ってきた香魚とて、さすがにやりすぎ……いや、ぶっちゃけ気持ち悪いと思ってしまった。〝雰囲気イケメン〟と評したのも、香魚はさすがだと内心で舌を巻いた。確かに悠馬は人気は高いが、特別目鼻立ちが整っているというわけではない。言われてみれば、まさに雰囲気イケメンという言葉がかっちり当てはまる。

 それからすぐに彼女たちの話題は、同じグループの子――陸上部の先輩に本命を渡したという子の話に移ったので、悠馬のことはそれっきりだった。漏れ聞こえてきたところによると、廊下の窓にべったりと張り付き、この一週間、ニヤニヤと気味悪くグラウンドを眺めていた先輩たちの邪魔が入ったおかげで一時はどうなることかと思ったが、どうにかこうにか、りんごをもらう約束まで漕ぎつけられたそうだ。それはなにより。もうすでに甘いアップルパイの香りがしてきそうだ。

 それはさておき。

「……」

「……」

「……ぷっ。ふふっ、あははっ」

「あはははっ。もうダメ、面白すぎる!」

 香魚と優紀は、ふたりでしばらく思考が停止し、しかし顔を見合わせたとたん、こらえきれずに揃って笑い出してしまった。

 ひどい仕打ちには、ひどい仕打ちが返される、といったところだろうか。どうやら悠馬にも本命の子がいるようではあるが、その子は最初(ハナ)から悠馬をカモにしてポイ捨てするつもりらしい。……なんということだろう。

 しかし、それはそれとして、香魚はどうしようもなく、ざまあみろ、と思ってしまう。

「ざまあみろ! 地獄行き決定だ!」

 優紀は実際に声に出している。

 不謹慎だが、これからいいように遊ばれてフラれると思うとワクワクして仕方がない。復讐なんて考えもしなかったけれど、これはこれで、ちょっとした復讐劇になりそうだ。夜行遠足はまさにそのプロローグに相応しいのではないだろうか。今から見ものである。

 再び優紀と顔を見合わせた香魚は、やっぱり声を上げて笑いながら、胸のすく思いでスタート地点に並ぶ生徒たちの中盤あたりに位置づけた。前のほうには、頭ひとつぶん抜けて朱夏のショートカットが見える。朱里の姿は見えないが、きっと隣にいるはずだ。

 やがて全員が位置についたところで、拡声器越しの「よーい」の声に続き、

 ――パンッ。

 スターターピストルが高らかに鳴った。

 前のほうからゆっくりと、けれど確実に動きはじめた波は、間もなくして香魚と優紀のもとまでたどり着き、後ろへ流れていく。

 はじめの一歩を踏み出すと、あとはもう、足が勝手に自分のことを運んでくれているような気がした。涙はいつの間にか乾いて、おかげで視界は良好、気分も真新しい。

 私、きっともう大丈夫だ。

 香魚はぐっと顎を上げてはるか前方を臨む。

 今の私には、泣いている暇も、落ち込んでいる暇も、俯いている暇も、もうない。

 ただ前へ。

 次に向かって、ただただ前へ――。

「行こう、優ちゃん」

「うん!」

 43キロの道のりは、はじまったばかり。

 いつの間にか稲刈りが終わり、すっかり丸裸になった田んぼを前後左右に臨みながら歩く香魚の足取りは、すこぶる軽い。

 香魚は、たわわに実りすぎた四年もの初恋の田んぼをコンバインで綺麗さっぱり刈り取るイメージを頭に思い描いく。

 女の恋は上書き方式。もとから女は強い生き物なのだ。ゴールする頃には、悠馬のことなんて、すっかり忘れているに違いない。



【了】

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