*


 スタート前にトイレに行った杏奈待ちのため、こっそりジャージの上着のポケットに忍ばせていたスマホを手持ちぶさたでいじっていると、くるりの耳にふと話し声が聞こえてきた。そのまま耳をそば立てていると、声の主たちは、どうやら一昨日、悠馬に本命お守りを渡していた隣の隣のクラスの彼女と、その友達――前に駅前商店街を男子と歩いていた、片割れの子のようだった。

「……ねえ、私、不自然じゃなかった?」

「大丈夫だよ。朱夏ちゃんも朱里ちゃんも、頑張ったねって言ってくれたじゃん」

「でも、昨日の夜、泣きすぎちゃって、まぶたがすごいことになってるし、笑顔も引きつってたんじゃないかって心配で……」

 そう不安を口にした彼女に、くるりは、やっぱりたった二日じゃ引きずっちゃうのも無理はないよな、と胸が痛んだ。特に知り合いでもないので助言は避けたけれど、やっぱり悠馬はやめたほうがいいと言っておくべきだったんじゃないだろうか、と今さらながら申し訳ない思いに駆られてしまうのだ。

 はっきりと「ダメだった」とは言わないまでも、彼女たちの口振りから、悠馬にフラれたことは明白だった。朱夏と朱里とは、彼女たちの友達だろう。そのふたりに少しの嘘をついている点からも察するに、下衆い仕打ちを受けたことも、なんとなく想像できる。

 ことくるりに関しては、勇気を出したおかげで本当の意味でいい仲間になれ、みんなで一致団結して完歩を目指すことになったけれど、くるりのように上手くいった子ばかりではないこともまた、夜行遠足の現実である。

 グラウンドに集まった、総勢二百名近い女子生徒のうち、どれだけの子が想いを散らしたのだろうと思うと、たまらない。

 たかが夜行遠足。されど夜行遠足。

 ひどいやり方で恋愛を楽しむ癖があるクズ悠馬の性格を考えると、心のどこかで、やっぱりな、とは思っていたけれど、こうして結果を聞くと、とても居たたまれない。

「だけど、嬉し涙は流しても、そのあとは絶対に泣かなかったじゃん。あのときの香魚はめちゃくちゃ強かった。私、そんな香魚に引っ張られて泣かずに済んだんだよ」

 切ない気持ちになっていると、しかし友達のほうがそう言い、香魚と呼ばれた彼女を励ました。思わず振り向きそうになる。クズを相手に流す涙なんて一滴たりともあってはいけない、と勝手に励ましたりもしていたけれど、本当に泣かなかったなんて、なんて強い子なんだろう。くるりは、スマホに落としていた目を皿のようにみはるばかりである。

「うん……あの直後は、私より優ちゃんのほうが泣きそうに見えたから。こんなとこで泣いちゃいけないって気持ちが奮い立ったんだよね。冷静になって考えたら、きっとこういう人だろうって幻想でばっかり見てたんだって気づいたの。今は、そのことに気づけて本当によかったと思ってる。四年も時間を無駄にしたとは思ってないけど、まあ、四年で気づけてラッキーだったなーって思うよ」

「……そっか」

「うん。それに、不思議とトラウマになりそうな気もしないんだよね。今はもう、四年の片想いにやっとケリがつけられて満足感しかないよ。自分のために頑張ってよかったなっていうか、これで新しい一歩が踏み出せるんだなーって、やっと肩の荷が下りた感じ」

「うん」

 そうしてふたりは、今度は〝優ちゃん〟のほうへと、話題を移していった。

 近くにいるので聞こえてしまったのだけれど、なんでも優ちゃんには、この一週間、本命お守りを打診されていた男子がいたとかで――きっと商店街で見かけたあの男子だ、とうとう折れた優ちゃんは、その彼にお守りを作って渡してあげたんだそうだ。

「で、付き合っちゃうの?」とニヤニヤした声で尋ねる香魚に、優ちゃんが言う。

「……香魚が失恋したばっかなのに私だけっていうのも気が引けるんだけど……うん」

「ほんと!?」

「なんか、だんだん朝倉もアリかなーとか思っちゃってさぁ……。惚れられた弱みってやつかな。いつの間にか、なんか好きかも、とか思っちゃって。バカみたいに一途で一生懸命で可愛いし、なんか憎めないし……」

「わあぁぁ! おめでとう!!」

「しーっ。香魚、声大きいってばっ」

 あらあら。どうやらここには、粘られ負けして実った恋があるようだ。優ちゃん本人より香魚のほうが喜んでいる声を聞くと、くるりも自然と頬が持ち上がってくる。

 昨日泣いたのなんてノーカンだ。そんなのは泣いた内に入らない。大丈夫、その強さがあれば、きっとどんなことでも頑張れる。

 くるりは、優ちゃんに窘められながらも興奮を隠しきれない香魚に向かって、心でそっとエールを送った。自分がどんなに傷ついていても友達のことを一番に思いやれる香魚には、悠馬なんて超絶もったいない。

 ちょっと転んで膝とか擦り剥いちゃえ。

 ついでに悠馬に軽めの呪いをかける。

「ごめーん、意外と混んでて遅くなったー」

 すると、ちょうどいいタイミングで杏奈が校舎のほうから駆けてきた。「ううん、大丈夫ー」と手を振って彼女を迎えると、スマホをポケットにしまい、代わりに五人で持っているお揃いのお守りを取り出した。

「あ。えへへ、ありがとね~、くるり」

 それに気づいた杏奈も、ちょっと恥ずかしそうにポケットからお守りを取り出し、顔の横に掲げて可愛らしくひらりと振る。

「私さ、熱くなるのって面倒だし、ぶっちゃけダサいと思ってたの。でも、一生懸命にお守りを作ってる、くるりの姿を想像したら、私バカだなぁって自分が恥ずかしくなったんだよね。……なにも頑張ろうとしてないのに生地なんて買えるわけがない、って言ったじゃない? あれ、グサッときたんだよね」

「え、そうなの?」

「そうだよー。私は今は別に好きな人もいないんだけど、普通に憧れなの。赤のギンガムチェックは蓮高女子の伝統でしょ? だから三年間のうち、一度くらいは……って」

 そう言ってお守りを愛おしそうに撫でた杏奈は、しかしすぐに「でも」と言う。

「こういう本命も、すごくいいね! みんなで本命を持って完歩を目指すとか、私には考えつかないもん。てか、こっちのほうが、ずっとずっと青春って感じじゃない? いつできるかわからない好きな人のために憧れを出し惜しみする必要なんてないんだしさ!」

 ぐっとお守りを握って力説する杏奈に、くるりは思わず「ぷっ」と吹き出す。意外に、なんて言い方をしたら失礼だけれど、こう見えて杏奈もけっこうだいぶ熱い子らしい。

 一生懸命って、やっぱり最高にいいな。

 杏奈の新たな一面を知り、くるりはその思いを、よりいっそう強固なものにする。

「ちょっ、なんで笑うのー?」

「いや、杏奈、超可愛いなーって思って」

「えー?」

 不満げに唇を尖らせる杏奈にあははと笑って、くるりはぐっと空に顔を向けた。

 ゴールの場所は違うけれど、きっと統吾も瑞季も雄平も、このお守りを持って完歩を目指しているに違いない。そう思うと、体の奥のほうから底知れない力が湧いてくる。

 そういえば昨日、男子のスタート前に三人で連名のLINEをもらったんだっけ。そのあともちょくちょく報告が入って、今は何キロ付近だとか、炊き出しの豚汁がめちゃウマだとか、105キロの道のりを存分に楽しんでいる様子がとてもよくうかがえた。

 そうだ、これから女子も出発だよって、ちょっと送ってみようかな。そう思いスマホを再び取り出そうとすると、それより早く杏奈が目の前に自身のスマホを差し出してきた。

「統ちゃんたち、今ちょっと心折れそうなんだって。なんか送ってあげようよ」

 見ると、たった今送られてきたばかりの文面には、三人ともヘロヘロで足が上がらないことが書かれていて、ふんだんに盛り込まれているスタンプも、泣き顔ばかりだった。

 きっとくるりのスマホにもこれと同じものが送られてきているはずだ。統吾が代表して送っているらしいけれど、女子チームは女子チームで、せっかくだから杏奈のスマホで代表して送ってあげることにしようと思う。

「……もう。男らしくないなぁ」

 そう言いながらも、くるりは緩む頬を隠しきれなかった。統吾たちが一生懸命頑張ってくれていることが、たまらなく嬉しい。

 泣き言ばかりが綴られた画面を覗き込み、杏奈と顔を見合わせ、くぷぷと笑う。

 さあ、大好きな仲間たちになんて送ろう。

 そう考えただけで、くるりの胸は躍る。

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