■10月1日(日)

 十月といっても九月の余韻をまだ存分に引きずっているような気持ちのいい秋晴れの空のもと、前日の男子の出発に続き、今朝は女子の出発時刻が刻々と差し迫っていた。

 早朝五時の空気は、言うまでもなくひんやりと冷たい。しかし日が昇りはじめ、朝靄あさもやもしっとりと土に沁み込んだ今は、天気予報のとおり空は晴れ渡り、薄い鱗雲うろこぐもがゆったりと上空を流れる下をスズメが駆けている。

 まさに夜行遠足日和である。

今頃、男子たちもこの空の下を歩いているだろう。一晩歩き詰めで極限まで削られた体力も、朝のまっさらな空気を肺いっぱいに吸い込めば、いくらか回復するかもしれない。


     *


「あ、いたいた、香魚ちゃん、金曜日はどうだった? お守り、もらってもらえた?」

 三学年、総勢二百名近い女子生徒がひしめくスタート地点の学校のグラウンドの中から香魚の姿を探し出した朱夏は、おはようのあいさつもないまま、優紀と並んで集合の合図を待つ彼女のもとに駆け寄っていった。

「こら、勝手に行かないの」

 後ろから朱里の窘める声がするけれど、普通にデカいのが取り柄なだけあって、まあそう簡単に見失われはしないだろう。

 そんな朱夏に気づいた香魚と優紀が揃って「おはよー」と手を振る。朝が早いためか、まだ、まぶたが若干むくんでいる香魚は、朱里の到着を待って話しはじめる。

「うん。とりあえず受け取ってもらえた、って感じかな。ふたりとも、ありがとね。ふたりに応援してもらったから渡せたよ」

「そっか、それはなにより!」

「てか、香魚ちゃんが頑張ったんじゃん!」

 朱里と顔を見合わせ、ニシシと笑うと、香魚は満面の笑みで「うん、すっごく頑張った自分ってすごいなって思った!」と自画自賛する。でも、香魚がそうやって自分を褒めるということは、それだけ頑張ったという勲章だ。四年も想いを秘めていたのだから、その頑張りは、想像するにあまりにも容易い。

「次は朱夏ちゃんと朱里ちゃんの番だね!」

 そう言って笑う香魚の笑顔が清々しい。

 やりきった充足感に満ちていて、朱夏は自然と背筋を伸ばさずにはいられなくなる。

 次は私の番、かぁ……。

 朱夏は、今もゴールの碁石を目指して歩き続けているだろう湊の姿を思い浮かべた。

 今回は怖気づいてしまって渡せずじまいだったけれど、晴れ晴れとした香魚の顔を見ていると、私もちゃんと頑張らなきゃな、という気持ちが体の奥のほうから湧いてくる。

 結局、朱夏には、湊が本命お守りをもらったかどうかは、わからなかった。優紀にご執心の朝倉のように、本命を打診している相手がいたのかどうかも、わからない。でも、渡せないまま後悔するよりは、渡して後悔したほうがいいんじゃないかと今は思う。香魚の晴れやかな笑顔が、そうさせてくれるのだ。

「うん。そのときは応援してね!」

 にっこり笑って頷くと、香魚の表情がぱっと華やいだ。彼女の隣の優紀も、自分の隣に並んでいる朱里の顔も、みな一様だ。

 そのときふと、朱夏の頭に名案が閃いた。

 もし湊が完歩したらもらえるりんごを持て余していたら、譲ってもらうことって、できないかな? お菓子作りなんて似合わないだろうけど、夜行遠足お疲れ様ってことで一緒に食べたり……できないだろうか。と。

 いや、虫がいい話か。うーん、でも……。

 そうしてひとり、名案ならぬ迷案に首を捻っていると、ふいに朱里にジャージの二の腕の部分を引かれて、はっと我に返った。

「ごめん、なにか言ってた?」

「上位を目指してる子は前のほうに並べ、って先生が。今、ちょうどスタート五分前なんだって。もちろん朱夏も目指すでしょ? 早く行かないと、いい場所取られちゃうよ」

「おお、それは急がないと」

 確かに、我に返ると同時に戻ってきた喧騒の中には拡声器で拡声された教師の声が響いている。運動部に所属している生徒、みんながみんな上位を目指しているわけではないけれど、朱夏と朱里の場合は、こういうイベントが好きなので、より楽しむために去年は一年生ながら一列目の先頭に陣取ってスタートした。無論、今年もそのつもりである。

「香魚ちゃん、優紀ちゃん。ごめん、そういうわけで、うちら行くね。こういうの、実はふたりとも大好きなんだよね!」

 言うが早いか、ひしめき合う生徒たちの間を縫って駆け出す朱夏の背中に、朱里の「もう~!」という苦笑交じりの声が追いかけてくる。でも、見失われることはないはずだ。

 だって私は普通にデカい。スカートはびっくりするくらい似合わないけど、ショートカットならけっこう自信があるただの女子だ。湊より一センチ背は高いけど、それでも恋しちゃったんだから、もう開き直るしかない。

「朱里! ここ、ここ!」

 一足先に最前列に出て場所を確保しつつ朱里を待っていると、周りの女子より頭ひとつぶん抜けている朱夏を目印にしてやってきた彼女は、迷うことなく隣に並んだ。

「香魚ちゃんも優紀ちゃんも、朱夏がいきなり駆け出すからびっくりしてたよ~。でも私も、そんな弾丸みたいな朱夏が好きだけど」

「はは。ごめん、ごめん。なんか、もうすぐスタートだって聞いたら血が騒いじゃって」

「まあね。私も騒ぐわ」

「だよね~」

 見かけによらず、と言ったら失礼だろうか、可愛らしいサイズの朱里も、こういう体力勝負のイベント事は昔から好きらしい。そういう点でも馬が合う朱夏と朱里は、高校からの付き合いではあるが、もう親友の域をとっくに超えて、お互いになくてはならない存在になっている。

 むしろ夫婦かもしれない。弾丸のように飛び出していく朱夏に笑顔で付き合ってくれる朱里。夫婦ならずとも、男女のカップルならやっぱり見た目にも映えるし、突っ走り気味な彼氏と、そんな彼氏が好きな彼女という構図は、見ていて微笑ましい。

 でもやっぱり朱夏は自分より背の低い男子に恋をしている。朱里に打ち明けようかどうか、まだ悩んでいるし、湊と一対一で話すときは、なんだか変に態度が変わってしまって、そんな自分にヘコむ。

「お。大垣と橋本は今年も最前列か。気合い入れて頑張れよー。バレー部でトップツーなんて、今後の試合にも弾みがつくだろ」

 笑い合っていると、去年もスタート係だった先生がふたりの姿を見つけ、そう声をかけてきた。手にはすでにスターターピストルを持ち、ご丁寧に引き金に指までかけている。

「そうですね! 頑張ります!」

 そう朱夏が返すと、先生も満足げに頷く。

 ちなみに去年はトップツーどころかトップテン入賞も惜しいところで逃してしまった。でも、もし本当に自分たちでトップツーが取れたら、部の士気も上がるだろう。一勝……いや、もっと何勝もできるかもしれない。

「頑張ろうね、朱里!」

「もちろん! 一位は私だからね」

「あははっ。負けないよ~」

 そうしてまた笑い合うと、朱夏と朱里は、上位を狙う運動部の強者たちに混じってスタートの号砲を待つことにした。

 今はまだ、片想いの途中。親友である朱里にさえ、自分より背の低い湊のことが好きだとは、なかなか打ち明けられないままだ。

 ――でも。と、朱夏は思う。

 ふたりでトップツーが取れたら、勇気を出して言ってみようかな。自分の見た目ばかりを気にしていたけど、朱里ならそんなの関係なく応援してくれるに違いない、と。

 朱夏は大きく息を吸い込んだ。

 肺いっぱいに満たされた朝の澄んだ空気が朱夏の百七十二センチの体に染みていく。

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