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そうして、さっき悠馬も下りていった階段を優紀と並んで下りていくと、ふと踊り場の隅に設置されているごみ箱が香魚の目に留まった。高校生にもなって階段で鬼ごっこをするやんちゃ坊主がいたり、飲み物や食べ物のパックや袋をポイ捨てする生徒がごく少数ながらいるため、生徒会と美化委員会が知恵を絞った結果が〝踊り場にもごみ箱〟だった。
それが幸いし、階段を駆け下りてきた男子とぶつかりそうになってヒヤリとすることも減ったし、ポイ捨てされたパックジュースの空き箱やパンの袋をわざわざ自分の教室に持ち帰って代わりに捨てることもなくなって、けっこう久しい。階段掃除の際は面倒だなと思うこともあるにはあるけれど、校内の美化には一役も二役も買ってくれているので、香魚はごみ箱の存在がとても気に入っている。
「あ、香魚、ちょっと待って。そういや私、捨てたいものがあったんだった」
「うん」
すると、ごみ箱側を歩いていた優紀がふと足を止めた。香魚も足を止め、チャックを開けて中をごそごそしている優紀を待つ。
優紀の鞄の中からは、チョコの包み紙や飴の包装パッケージ、用済みのメモ紙なんかが出てきて、それをくしゃりとひとまとめにすると、彼女はポイとごみ箱に投げ入れた。
「あ」
「ん?」
「いや、捨てるんじゃないものまで捨てちゃって。まだ開けてない飴の袋なんだけど、プラ包装だし、イケる、イケる」
しかし優紀は、そう言いながら果敢にもすぐにごみ箱に腕を突っ込み、確かにカコンと硬い音がしたそれを拾おうと試みはじめた。
踊り場に設置されているごみ箱は、各教室にある蓋付きで中の様子が見えないものとは違い、例えば公園にあるような、口がぽっかりと空いたタイプのものだ。そこになんの躊躇もなく腕を突っ込む優紀は、勇ましいというか、肝が据わっているというか……。
けれど香魚は、そこでなんとなく察しがついてしまった自分が、ひどく悲しかった。そして、わざわざ優紀にそんなことをさせてしまったことも、とても心苦しい。
「……優ちゃん、もういいって」
下駄箱で靴を履き替えながら、意を決して話しかける。こういうのは優紀も気まずいし自分も気まずい。あとになればなるほど、話題にするのは難しくなることだ。
「いいって、なにが……?」
「……、……あったんだよね、お守り」
「……」
深く息を吐いて言うと、優紀の動きがぴたりと止まった。顔を見ると、みるみるうちに表情が強張っていって、けれど必死にどう嘘をつこうかと頭をフル回転させている様子が香魚の目にありありと見て取れた。
……ああ、やっぱりそうなんだ。
優紀に直接確かめるまでは、正直、半信半疑な部分もあることにはあった。けれど、この反応を見てしまうと、もう確定のほかない。
「優ちゃん、ごみ箱側を歩いてたもんね。捨てるふりをして拾ってくれたんでしょ、私のお守り。飴を落としたのも、わざとだよね。……へへ、わかっちゃったよ。だって優ちゃん、すごくわざとらしかったし」
「香魚……」
それきり言葉を失ってしまった優紀に、香魚は顔をくしゃっとさせ、なんとか笑顔を作った。踊り場のごみ箱は網目状なので、中のものが見える。さっき掃除が終わったばかりなのに、ちょこちょことまたごみが捨てられていた中に、優紀はきっと見たのだ。
現に「あった、あった」と言ってごみ箱から腕を抜いた優紀は、しかし香魚に拾った飴玉を見せてはくれなかった。それに、自然な動作になるように気をつけてはいたものの、明らかに香魚に背中を向けていた。まるで隠すようにして鞄のチャックを閉めたことも、香魚には確信を深めるには十分すぎた。
要は悠馬は、あの場ではとりあえず受け取っただけ。香魚のことは知っていても、お守りまではいらなかったということだ。
無下に突っぱねるよりは、建前上は受け取っておけば、お返しのりんごを渡さなかった場合でも、それまでだということで相手も納得する――あの場の悠馬は、そういう、ある意味スマートな対応をしたのだろう。
一度、悠馬の手に渡ったものを、その後彼がどうしようと、本人の自由だ。家に持ち帰るもよし、部活の仲間に面白おかしく話して聞かせるもよし……すぐに捨てるもよし。
とりあえず受け取る、そのあとはどうしようと俺の自由、それが悠馬なりの本命お守りへの対応方法だったのだとしたら、香魚にはもうどうすることもできない。事実を事実として、ただ静かに受け入れるほかない。
「でも、さすがにショックっていうか、こんなことをする人だと思ってなかったから、百年の恋も冷めたって感じ。今は純粋に驚きのほうが強いよ。階段を下りたすぐのごみ箱に捨てちゃうなんて、私って、一松くんにとってよっぽどナイんだなぁ。玉砕だね」
「……」
きゅっと下唇を噛みしめ、こぼれ落ちそうな涙を必死に目の奥に押し込める。でもこんなのは、ただのやせ我慢だ。本当は今すぐ消えてなくなりたい。自分を抹消したい。
前に優紀は、朱夏や朱里との会話の中で、『想う期間が長ければ、それだけ勝算があるってわけでもない』と言っていた。『彼女だってなんだって、できちゃうときはできる』とも言って、厳しいながらも実は愛のこもった温かいエールを送ってくれていた。
香魚にとって、すぐに捨てられてしまったお守りは、まさにそれが具現化したものだった。四年も想いを募らせてきたけれど、どうやら、それだけだったようだ。
「……ごめん。気づいちゃってたんだ」
そう言って鞄の中からお守りを取り出した優紀は、どうしたらいいのかわからない、といった顔で、ただ香魚を見つめた。
「うん……」
優紀の手からするりとそれを抜き取った香魚は、指の腹でそっと本命の証であるギンガムチェックを撫でる。幸い汚れてはいないそれは、けれどいったんは捨てられたものとして香魚と優紀の間に鈍重な空気をもたらす。
「……」
「……」
ふたりとも、しばらく声が出なかった。
なにをどう言っても、無意味な気がした。
つい数分前までの夢のような出来事の余韻に少しでも浸っていたくて、でも現実は気持ちもお守りもあっさりごみ箱行きで。どこからどう、この事実を処理していったらいいのか、ふたりとも、すぐにはわからなかった。
「――さ。行こっか、優ちゃんっ」
「うん……」
やがて深く息を吐き出した香魚は、戻ってきたお守りを鞄に入れると、今にも泣きそうな顔をしている優紀に努めて明るく言った。履き替えの途中だったローファーに両足を差し込み、軽くつま先をトントンとすると、まだ内履きを脱ぎかけたまま俯いている優紀に「置いていっちゃうよー」と笑う。
ローファーに履き替えてきた優紀と並んで外に出ると、あのときと同じように南向きの校舎の右側から茜色の西日が差していた。白い壁に反射してキラキラと光の粒を撒きこぼす西日は、相変わらず綺麗で眩しい。
結局、朱夏と朱里には、無事にお守りをもらってもらえたことだけを報告することにした。ふたりには嘘をつくことになってしまうけれど、相談に乗ってもらったり応援してくれた彼女たちをわざわざ悲しませる必要もないよね、という結論にふたりで至ったのだ。
今日のことは、自分たちだけの秘密。墓場まで、というのは、さすがに大げさも過ぎるけれど、ちゃんと「あんなこともあったね」と笑って話せるようになる日までは、優紀とふたりで共有していたいと思う。遅かれ早かれ、どうせフラれる運命だったんだし。
私も一瞬だけでもキラキラできたかな。
今にも茎が折れてしまいそうなほど、たわわに実った黄金色の稲穂が首を垂れる田園の中を、とんぼが盛大な群れをなして飛んでいく様子を眺めながら、香魚は思う。優紀の周りを舞っていたキラキラの粒が、今日の私の周りにも少しは舞ってくれただろうか、と。
……もしそうだったら、嬉しい。
こっぴどいフラれ方はしたけれど、自分だけの青春は無駄にしなかったのだから。その感覚も自負もちゃんと自分の中に存在しているのだから。少しの見返りくらい欲しい。
でも、これからもっとキラキラできるかどうかは自分次第だとも香魚は思った。
もしこれからつらいことがあっても、今日のことを思い出したら、なんでも頑張れる気がする――さっき自分で言ったことだ。
よし、明後日は頑張ろう。
思いのほか冷たかった秋の空気に出てきた鼻をすんとすすり、香魚は大きく一歩、足を踏み出した。そのまま勢いをつけ、なだらかだけれどそこそこ長い坂道を下っていく。
鞄の中のお守りはひどく重かった。でも不思議と、トラウマになる気はしなかった。
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