「あ、あのっ」

「……っ!」

 悠馬が香魚の前を通り過ぎるタイミングで教室から飛び出す。いきなり声をかけられて驚いた顔をしたものの、それでもちゃんと足を止めてこちらを向いてくれた悠馬に、香魚は精いっぱい両腕を伸ばしてお守りを突き出した。お守りを持つ手が異様に震える。膝もガクガクと震えて、まるで立っている気がしない。けれど、あともうちょっとだ。ここまでできたのだから、やりきるしかない。

 香魚はぐっと顔を上げる。

「あの、私のことわからないと思うけど、同じ中学だった小松香魚です。中学時代、一松くんにペンを拾ってもらったことがあって、それで、それで……。――や、夜行遠足、頑張ってください。応援してます!」

 言いきるなりガバリと直角に腰を折った香魚は、どうか受け取ってください、と心で念じながら震える手を必死に悠馬に伸ばす。

 言いたいことの半分も言えなかったし、きっとなにを言っているんだと思われた。もしかしたら、ずっと見られていたなんて気持ち悪いと思われてしまったかもしれない。

 だって、中学のときのたったそれだけなのだ。悠馬から見れば、たったそれだけのことを勝手に思い出にされて、何年もひとりで盛り上がられていただなんて、一歩間違えれば恐い女子である。もし香魚が逆の立場だったら、引くどころの騒ぎじゃない。そんな自分に香魚は四年もドン引きし続けてきた。

 それに、この待ち伏せも、夜行遠足前だから成り立つけれど、普段だったら恐怖だ。

 でも、それでも香魚は、マイナスになってもいいから頑張ることに決めたのだ。悠馬を想ってきた四年、その時間はけっして無駄ではなかったけれど、なにも頑張ってこなかった自分の青春は、きっと無駄にした。

 だから――。

 すると、すーっと優しい手つきでお守りが手から抜き取られた。はっとして顔を上げると、悠馬が香魚を見て少し笑っている。

「っ!?」

 そのとたん、香魚は悠馬の目が初めて自分に注がれていることに急激に頬が火照りはじめた。でもそれも無理はない。この四年、こっそり後ろ姿や横顔を見つめてきただけなのだから、いざ真正面から顔を合わせると、なにをどうしたらいいのか頭の中が一瞬で吹き飛び、わけがわからなくなってしまう。

「これ、ありがとう。てか、知ってるよ、小松さんのこと。クラスは一緒になったことはなかったけど、同じ中学だったんだから、わかる、わからないの次元じゃないでしょ」

 そんな香魚に向かって、悠馬は当たり前のことを口にするような調子で言う。気持ち悪いとも、なに言ってんだこいつ、とも思っていないような、サラサラと心地いい声が香魚の鼓膜をそっと震わせ、脳に伝達する。

「う、えっ……そ、そうか……」

「そうでしょ」

「……」

 きっぱり言いきる悠馬に、香魚はじーんと胸を打たれる。そっか、一松くんは私のことを知ってくれていたんだなと思うと、嬉しいやら恥ずかしいやら泣きたいやら、ひと言ではとうてい言い表せない気持ちになって、口の端が勝手にヒクヒク動いてしまう。

「てか、なんで微妙に硬い感じの返事なの。そこは普通に喋ろうよ、普通に」

「いや、そう言われても、いきなりは……」

「俺と話すの、そんなに緊張する?」

「緊張するってもんじゃ……! 私とは次元の違う人すぎて、こうしてお守りを受け取ってもらえただけで、どうしたらいいのやらって感じで。……あ、あの、もらってくれて本当にありがとう。頑張ってよかったです」

「うん」

 改めてお礼を言うと、悠馬は笑って頷いてくれた。心持ち気恥ずかしそうに、彼の手の中に移ったお守りがひらりと振られる。

 実感というものはまだないけれど、丹精込めて作ったお守りが意中の人の手の中にあるというのは、とても感慨深いものだ。今日までにどれだけの女の子が自分と同じ気持ちを味わったのだろう、今日、これからどれくらいの女の子がこの気持ちを味わうのだろうと思うと、ふいに目頭が熱くなってくる。

「あ、じゃあ、俺はこれで。部活だから」

「うん、本当に本当にありがとう……!」

 そうして悠馬は去っていった。

 少し行ったところで肩越しに振り返り、手の中のお守りを振りながらぺこりと頭を下げる悠馬に香魚も頭を下げる。そのまま彼が廊下の角を曲がって階段を下りていく様子を、ぽぅ~っと頬を染めて見送る。

 すべてが夢の中で起こった出来事のような気分だ。けれど、そろりと自分の手に目を移してみると、確かにお守りが消えている。

 タン、タン、タ……と上履きが階段を踏む音が静かに消えると、一気に脱力してその場にへたり込んでしまうのと同時に、教室から飛び出してきた優紀に「香魚~っ‼」と勢いよく抱きつかれた。体に感じる彼女の体温や重み、首に回された腕の苦しさから、香魚はようやく、少しだけ現実のことだったのだと受け止められるような気がしてくる。

「ゆ、優ちゃん。私、私……」

「やったね香魚! よく頑張ったよ!」

「うん、うんっ……」

 ぎゅうぎゅう抱きしめてくる優紀を抱きしめ返しながら、香魚の目からは、無事にお守りを渡しきれた安堵感や達成感から涙がぽろぽろ流れてくる。泣きながら優紀を見ると彼女もぼろぼろと涙を流していて、香魚本人より、むしろ涙の量は多いかもしれない。

 きっと優紀は優紀で、ちゃんと渡せるだろうかと心配していたのだろう。四年越しでやっと渡す決心をしたものの、いざ本番になったら、消極的な香魚のことだから渡せなくなってしまうんじゃないかと、教室の中でずっとハラハラしていたに違いないのだから。

「ははっ。もう感動しちゃって涙止まんないや。……でも、なにはともあれ、これでようやく伝えられたね、香魚の気持ち」

「四年もかかったけどね」

「ううん。よく頑張ったよ。頑張ってる香魚は、今までのどの香魚より格好よかった」

 そう言って流れてきた涙を指ですくって笑う優紀に、香魚もへへへと笑い返す。

 赤のギンガムチェックのお守りは、本命の証。それは悠馬とて知らないはずはない。

 それを受け取ってもらえたことは、もちろん嬉しい。けれど、それよりなにより、香魚は渡すための行動を自らの意思で起こせた自分自身が、一番誇らしかった。

 願わくば、前に朱夏に打ち明けたように、できればお返しのりんごも、もらいたい。アップルパイを作って一緒に食べたい。

 でも、その夢が叶おうと叶うまいと、香魚はもうどちらでもいいような気がしていた。

 悠馬の競争率は高い。悠馬のほうにだって好きな子がもうすでにいるかもしれない。けれど、それは以前からわかっていたことで、嘘か本当か、同じ剣道部の一年の女子マネといい感じらしいという噂も、つい先日の優紀からの情報で耳に入っている。

 ただ、そんな状況の中でもやりきったということだけは事実だ。清々しいまでの達成感と心地よい倦怠感は香魚だけのもの。自分の四年間をあの数分間ですべて出しきれたことこそが、香魚の最大の誇りなのである。

「……優ちゃん。なんか私、もしこれからつらいことがあっても、今日のことを思い出したら、なんでも頑張れる気がする」

 お互いの涙も徐々に引き、抱き合っていた体を解くと、香魚はまだ潤んでいる優紀の瞳を見つめて言った。考えるより先に言葉が自然と出てきたような、そんな感覚だった。

 香魚は大げさだな、なんて言われるかと思ったけれど、意外にも優紀は「そうだね」と優しい微笑みとともに返してくれて、ふたりで目を見合わせ、クスクス笑う。

「私も、今日の香魚を見てたら、なんでも頑張れそうな気がしてきた。あのとき香魚はあんなに頑張ってたんだから、私も負けてらんないって。きっとそう思うと思う」

「あははっ。大げさだなぁ、優ちゃんは」

「はは。確かに」

 放課後の廊下にふたりの笑い声が響く。大げさだなぁ、は香魚の台詞になってしまったけれど、まあそんなこともあるだろう。

 そういえば、あのグループの話し声はずっと聞こえてこなかったけれど、やっぱりあの彼女は気を利かせてくれたんだろうか。

 確か先週の今頃は、思わずびくりと肩が跳ね上がってしまうほどの笑い声が響いてきたけれど、どうやら今日は静かなようだ。

「さて。香魚の勇姿もしっかり見届けたことだし、今日はゆっくりふたりで帰ろっか」

「うんっ」

 そうして香魚と優紀は、いったん教室に戻り鞄を肩にかけると、再び廊下に出る。気分はもう最高だった。ふわふわと体が軽い。

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