宮野詩 1

 まずい、非常にまずい。なにがまずいかって、この私から計算を取ったら、あとにはいったいなにが残るんだ? って話だ。

 詩は、まるでめつけるかのように眼光鋭く見下ろしてくる視線に耐えきれなくなり、首を引っ込め、とうとう俯いた。まだギリギリ夏服のセーラー服の襟首を、ちょうど吹いた秋風がさーっと撫で、少しだけ肌寒い。

「で、くれないの? それ」

「いや……その……」

「お前さ、なんなのマジで。散々期待を持たせておいて今さらそれ? お守りなんてただの願掛けじゃん。くれる気があるんだったら早くちょうだいよ。部活も行かなきゃなんないし、もう明後日が本番なんだけど」

「……う」

 手には、今週中、ずっとスカートのポケットに入れて持ち歩いていた、本命お守りの感触。どうにも気まずくなって思わずスカートの上からそれを触ってしまうと、目の前の男子はひどく焦れた様子でそう言った。

 受け取ってもらえるまで何度でも渡すつもりが、渡すまで何度でも「くれ」とせがまれるようになって、早三日。相手はもちろん、憎きゴリラ坊主の晄汰郎である。月曜日のあの、どこか切羽詰まったような様子からは一変、今、詩の目の前にいる晄汰郎の態度は、ふてぶてしいこと、この上なかった。

 ……あれ? どうしてこうなった?

 思いのほか冷たかった、うなじのあたりを撫でていった秋風と、晄汰郎から注がれ続ける圧に軽く身震いしながら、詩は思う。

 晄汰郎のことは、もう好きだと認めざるを得ない。自分でも気づいてしまったし、友人たちに一部始終を話したときの彼女たちの感想も、もう付き合っちゃえよ、だった。

 彼女たちは、晄汰郎のほうも詩のことが好きだから、みんなが見ている前で教室を連れ出したり、お守りをくれとせがんでいるのだと言って聞かない。どこからそんな発想が生まれるのか、詩にはとことん理解できないけれど、しかししっかり相談までしてしまっている手前、もうあとには引けない雰囲気だ。

 ああもう、自分のことじゃないからって、みんなして超楽しんじゃってさー……。

 詩の気分は、今週中、ずっと浮かない。それに、月曜日の「計算、なの?」「なにが」から端を発してしまった気まずい空気の対処法もさっぱりだ。もうお手上げである。

 でも、別の方向から考えてみれば、この気まずい空気のおかげで、金曜日からの一連のことも、いい感じにうやむやにできるかもしれないと、詩はほのかに期待した。

 晄汰郎のことは好きだが、あまり関わりたくない。せっかく積み重ねてきた〝自分をよく見せるための努力をした私〟を内側から作り変えられていくようで、怖いのだ。まるで間違った努力だったと有無を言わさず突きつけられているみたいで、晄汰郎に対して腹も立つし、自分に対しても虚無感が拭えない。

しかし、そんな期待も虚しく、こうして毎日、くれくれとせがまれるようになった。

 このとおり別段欲しくもなさそうなのに、なんでこう、毎日毎日くれくれ言われなきゃいけないの? 詩はもうわけがわからない。

 わざと気まずい空気を作ろうとして、あんなことを言ったわけでは、もちろんない。でも、十分気まずくなる出来事のはずだ。

 ……え、晄汰郎はそういうの関係ない人だったりするの? そういう系? 私なんて、目が合いそうになると、あからさまに逸らしちゃうくらい、めっちゃ気まずいんだけど。

 想像を超えて行動してくる晄汰郎に関しても、詩はとことん理解できない。

 男子って案外こういうものなのかもしれないなと思う反面、いやいやいや、晄汰郎だからなんじゃないの、と感情の振り幅が大きくて、そんな自分に振り回される四日間だ。

 そして今も、どうしてこんなに責められているのか、わかるようでいて、実は詩はわかっていない。自分で言ったんじゃないか、お守りなんてただの願掛けだって。じゃあなんで、くれくれ言う? 意味がわからない。

「なあ、宮野。俺はどうすればいいの?」

「……ど、どうって。別にどうもしなくていいよ。野球部って時間にうるさそうだし、遅くなる前に行ったほうがいいと思うよ」

「あのな」

「だって、計算され尽くした感じで渡されるのが嫌なんでしょう? でも私には無理だもん。気に障るような渡し方しかできない私のことなんて放って行っちゃっていいって」

「……」

 あからさまに眉をしかめた晄汰郎の顔をちらりと見て、詩はぎゅっと唇を噛みしめた。

 ゴリラ坊主なところが腹が立つ。いつも冷静沈着なところが腹が立つ。動揺なんてしないで常に真顔で毒を吐くところが腹が立つ。私にばっかりきつい言い方をするところが腹が立つ。どうすればいいのって、いちいち聞いてくるところが腹が立つ。そんなの自分で考えてよ、私だってさっぱりなんだから。

「……ごめん。今のは嫌な言い方すぎた。でも、ほんと行っていいって。私のことは気にしないで、さくっと行っちゃってってば」

 さすがに可愛げがなさすぎたと自覚した詩は、口ばかりの謝罪を伝える。でも心の中では様々な感情が縦横無尽に飛び交う。

 ちょくちょく目が合っていたことだって、冷静に考えれば、なに見てんだよ的に不快だったからとも考えられなくもない。私のことが嫌いだから、あえてちょっかいを出しているのだと思えば、一度は「いらない」と突き返したものを、わざわざ欲しいとは、なかなか考えが改まらないのではないかと思う。

 実際、詩も、自分の計算高さが嫌われる原因なのだとわかっている。わかる人にはわかってしまうその計算高さは、晄汰郎にとって今までどれだけ不快だったことだろうか。

 余計な探り合いや駆け引きなんてせず、ストレートに伝える。そういう子が晄汰郎は好みなのだろう。詩とは正反対の、作られた可愛さではなく本来の可愛さで勝負をしてくるような子が、きっと晄汰郎は好きなのだ。

「なんだよ、その言い方。受け取ってもらえるまで何度でも渡すって言ったのはそっちだろ。もう明後日だけど、それでいいわけ?」

「……い、いいもなにも、急に渡す気になれなくなったんだもん、仕方ないじゃんか」

「は? なんなの。マジわかんねーわ」

「わかんなくていいし……」

 はぁーと大きなため息が聞こえて、続いて坊主頭をじょりじょり撫でる音も聞こえる。

 どうやら晄汰郎は、相当イライラしているらしい。晄汰郎の言うことも二転三転しているけれど、詩の言っていることだってそれ以上に二転三転しているのだ。いまだに俯いたままの詩にも、彼の周りの空気がピリピリと張り詰めていることが嫌でも伝わった。

「もういい。行くわ」

「……っ」

 そのとたん、空気が動いた気配がした。詩はさらにきつく唇を噛みしめ、地面のなんでもない一点を見つめて必死に気を保つ。

 正確には、渡す気になれなくなったんじゃなく、渡せなくなったのだ。晄汰郎には計算は効かない。でも自分は計算しかできない。なんの計算もなくストレートに想いをぶつけるには、詩には本命お守りは重すぎるし、青春っぽいことをしたい一心で身に纏った〝いい子〟の鎧も、もう脱ぎ方もわからない。

 実は嫌われているという可能性も考慮した結果、嫌いなタイプの計算高い女子からお守りを渡されても処分に困るだけだろうと、この三日で――いや、先週の金曜日から、詩はすっかり自分に自信をなくしているのだ。

 付き合っちゃえよ、なんて、よく簡単に言えたものだよ。付き合う以前に、フラれるわ嫌われているわの私に、最初から挽回のチャンスなんてあるわけがないじゃないか。

「……どうせ私のことなんて好きじゃないじゃん。むしろ一番嫌いなタイプじゃん。だったら無理して〝くれ〟なんて言わなくていいのに。わかんねーのはそっちだっつーの」

 ザッ、ザッと音を立てて遠ざかっていく晄汰郎の足音を聞きながら、ますます首を引っ込めて俯いた詩は、ぼそぼそと毒を吐いた。

 誰にも聞かれることなく砂地の地面に吸い込まれていく本音という名の毒は、ともすれば自分にまで回ってきそうで、詩は思わず一歩、身を引いた。しかしその間もみるみるうちに目に溜っていった涙は、とうとうぽたりと詩の体から離れていってしまう。

「ううっ……」

 一度落ちてしまうと、もう自分の力ではき止めきれなかった。量産されては機械的に体から切り離されていくそれらは、途絶えることなく詩の足元にぽたぽた落ち続ける。

 放課後になってまだ間もない体育館裏は、静かなものだった。壁に背中を預けてしゃがみ込むと、湿ったため息が口をつく。

 気づいてしまった本心。膨張する恋心。だが、計算が嫌いな晄汰郎にはとうてい伝えられるはずもなく、胸の奥に厳重に鍵をかけて閉じ込めざるを得ない本音。ぽたぽたととめどなく落ち続けるそれは、それらの結晶だ。

「はああ、もう~……」

 ただ晄汰郎を彼氏にしたいと思っただけなのに、どうしてこんなに、こじれてしまったんだろう。できるだけ小さく体を丸め、詩はずずずと鼻をすする。もうメイクもめちゃくちゃだ。こんな姿、誰にも見せられない。

「……でも、好きなんだもん」

 好きだから、頭の中の電卓を捨ててストレートにぶつかっていけないのだ。計算を取ったら、詩にはなにも残らない。計算なしではもう自分が取るべき行動さえわからない。

 完全に八方塞がりで、手詰まりで。

 ――でも。

「それでも好きなんだもん……」

 それが詩の心からの本音だった。

 こんなところでしか本心を言えない自分が悔しくて、情けなくて、詩は何度も自分の太ももを叩いた。でも、ただ痛いだけで、気も晴れないし、涙も一向に引いてはくれない。

 いったい私はどうなっちゃったんだろう。

 自分の感情の目まぐるしさに疲れてしまって、詩は泣き腫らした顔を上げて、遠く上空を漂う雲を見つめて深いため息をついた。

 たかだか〝恋〟という名前で片づけてしまえるだけの感情なのに、中身がこんなにも思いどおりに進まなかったり、相手の気持ちが読めなくて、いちいちイライラしたり苦い気持ちになったりするものだったなんて。

 ……今まで知らなかった。というか、考えたこともなかったかもしれない。もうこの一週間、ずっと踏んだり蹴ったりの展開ばかりで、夏でもないのにすっかり食欲不振だ。

 たかだか恋。されど恋。

 こんなにも思い悩むことも、常に情緒不安定なことも、詩にはすべてが初めてである。

「はあ、もう……。もしかして、本当の恋ってこういうものだって教えてもらえただけ、好きになった価値はあるのかなぁ……」

 上空の雲から目を離し、スカートのポケットから、持ち歩きすぎてくたびれてしまった本命お守りを取り出し、じっと眺める。

 詩にはこれは重すぎる。ちょくちょく目も合うし、そろそろ本格的に動き出すか、もうすぐ夜行遠足だし。そうやって完全に計算ずくで作ったものだから、なおさらだ。

 それに、お守りがきっかけで話すようになったけれど、晄汰郎は別に詩の理想どおりの男子ではなかった。むしろ嫌いなタイプかもしれない。女の子を上手くリードしてくれるような人でもないし、気を使ってくれるような人でもない。俺はこうだからお前が付いてこいよ、みたいなところが、同級生のくせにと思うと腹が立つし釈然としない。

 それだけ理想とかけ離れているのに、それでも好きになってしまった詩は、この先、いったいどうすればいいのだろうか。

 ゴリラ坊主だなんて思うわけがない。むしろどんな格好でも様になって格好よすぎるから、いつも自分のほうばかりが振り回されているようで、単にひがんでいるだけである。

「……そういうところも腹が立つんだって」

 リアルな男子は――こと晄汰郎に関してはまったく自分の手に負えない。今まで磨いてきた女子力も計算もちっとも通用しないし、挙げ句の果ては嫌われてしまう始末だ。

「ああ、もう……」

 詩はそれからもしばらく、計算ずくでは渡せなくなってしまった本命お守りを握りしめたまま、体育館裏で途方に暮れたのだった。

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