「だよなー。あー、マジでどうすっかなー」

「あ、じゃあ、私が代わりに提出しておこうか? 湊、部活大好きだもんね。私ならもうちょっと待てるし、ちゃんと理由を話せば、少しくらい遅れても別に大丈夫だし」

 そのタイミングで顔を向ける。まだ一緒にいたいが、もうどっか行ってほしい。そんな気持ちで湊に提案する。それに、本音を言えば、ちょっとだけ部活に行きたくないし。

 特に昨日のことを引きずっているわけではないけれど、なんとなく気が進まないのは本当だ。朱里をダシに使うようで罪悪感も覚えるものの、ちょっとくらい遅れたところで別に大丈夫なのも本当だから仕方がない。

 キャプテンの子だって、特別厳しいわけでもなければ、スパルタでもない。まずは公式戦で一勝を目標に掲げているだけあって、そこらへんはわりと融通か効くのである。

 けして本気じゃないわけではない。ただ、自分たちのレベルを知っているだけだ。朱夏が自分には恋は似合わないと思っているように、女バレの中にも、みんな口には出さないまでも、そんな空気が点在している。

「マジで? じゃあとりあえず、机の中を見てもノートがなかったら、悪いけど大垣に頼むことにするわ。俺、こう見えて副部長だから、実はあんまり遅れられないんだわ」

「うん」

 そうして探すも、しかし残念ながら朱里の机に目星のノートは入っておらず、「恩に着るわ」と言ってさっそく部活に向かっていった湊のひょろ白い後ろ姿に手を振りながら、知ってるよ、と朱夏は心の中で言う。

 知ってるよ。もう二年も一緒の空間で部活をしているんだから、三年が引退して副部長になったことも、それ以来、前にも増して頑張っていることも、すごく張り切って練習を仕切っていることも、全部知ってる。

 恩に着るって言うなら、私を好きになってよ。湊より一センチ背が高くて、スカートが壊滅的に似合わなくて、がさつで普通にデカい私を。でも、ショートカットだけは自分でもけっこう自信があるんだよ。……湊は、髪の短い子はタイプじゃないですか?

 もうとっくに姿が見えなくなってしまった湊を想いながら、教卓の前に移動し、そこに頬杖をつく。このクラスは三十二人だ。数えてみるとノートは三十一冊。朱里のほかにもまだ提出していない人がいると思っていたけれど、どうやら彼女で最後のようだ。

「ほんっと、なにしてるんだろうなぁ……」

 まだ戻らない朱里と自分に向けて、朱夏はぽつりと独白をこぼした。帰宅部の生徒はまだ若干名残っているものの、部活組はもうみんなそれぞれの部活へ行ってしまっている。日誌を書いていたもうひとりのクラスメイトも、早々に書き上げ、その姿はない。

「ごめん! 用務員のおじさんに捕まって、面倒くさい掃除させられちゃってて。ほかの人たちはいつの間にかいなくなっちゃってるし、ほんっとツイてないよー」

 やや経って、ようやく朱里が教室に駆け込んできたときには、その帰宅部のクラスメイトたちも、もう教室をあとにしていた。案の定、鞄のほうに入っていたノートを急いで朱里に出してもらい、ふたりで半分こして、生物準備室へと運んでいく。

 どうやら朱里も今日はツイていない日だったらしい。投影機やスクリーンの掃除を手伝わされていたようで、生物準備室へ向かう間中、朱里は何度も「ほんっとツイてなかったよー。あんなの、たまにしか使わないんだからさー。全然埃も付いてなかったし」と繰り返し、可愛らしく頬を膨らませていた。

 無事提出を終えると、部室でジャージに着替えて体育館に向かった。キャプテンに揃って遅れた理由を話し、周回遅れでコートの周りをひたすら走るアップの最後に加わる。

「……?」

 ふと視線を感じてそちらに目を向けると、ラケットを小脇に挟んだ湊が、顔の前で手を合わせ、しきりにゴメンと謝っていた。それにううんと首を振り、キャプテンの「蓮高ー、ファイ!」のコールのあとに、みんなと一緒に「オー!」とレスポンスを返す。

 ……ごめん香魚ちゃん、せいぜい私はここまでが限界みたいだよ。だって、今の関係を壊そうとは、どうしても思えないんだ。このままでいいって思っちゃうんだよ。いくら様子が違うことに気づいてもらえても、そこに踏み込まれたら、ちゃんと告えるかどうかわからない。それになにより、湊の女友達的なポジションが一番安心してしまうんだから。

 せっかく格好いいって言ってくれたのに、全然格好いいところを見せられなくて、ごめん。せめて香魚ちゃんは後悔のないように頑張って。デカいくせに腰抜けな私が応援したところで、なににもならないかもしれないけど。……でも、私のぶんまで、どうか。

 なぜかこみ上げてくる涙を薄っすらと掻きはじめた汗のせいにして、朱夏はアップをしながら指で何度も目元を拭った。

「朱夏、もしかしてコンタクトがずれちゃったんじゃない? ……大丈夫?」

「あ、うん。平気。ごめん、ありがと」

 真面目でとんちんかんで可愛い朱里に目元を心配されつつ、三十周走ったところで、ようやくアップが終わった。朱里はコンタクトだけど、朱夏は裸眼だ。自分がコンタクトだからって朱夏が裸眼なことをすっかり忘れている朱里のボケっぷりに救われつつ、その頃には本当に汗の粒がいくつも額から垂れてきていた朱夏は、タオルで豪快に顔を拭く。

 大丈夫、まだ大丈夫だ。来年の今頃まで湊のことが好きなままだったら、そのときは腹を括って朱里にも香魚ちゃんにも優紀ちゃんにも全部を打ち明けよう。香魚ちゃんは四年片想いして、ようやく心を決めたんだ。私なんて、まだたったの四ヵ月だもの。

 もし彼女ができたら、そのときは潔く諦めよう。いや、そうできるかどうか自信はないけれど、いつまでも引きずるなんて、やっぱりデカくてがさつな私のキャラじゃない。

 ま、失恋したって死にはしないしね。


「じゃあ、紅白戦するよー!」

 練習メニューが進んでいき、やがてかかったキャプテンの指示に「はいっ!」と返事をした朱夏は、スポーツドリンクのボトルを脇に置くと、すっくと立ち上がった。

 今だけは、もう湊は見ない。目指すは公式戦での一勝である。そのためには、こんなところで調子を落としている場合じゃない。

 私はチームで一番身長が高い。

 だから攻守の要だ。

 自分の背が低いことを気にして落ち込む朱里のために、今日は絶対に一本だってふかさない。気分はさながら姫を守る騎士ナイトである。

「一本!」

 お腹から声を絞り出すと同時に、向こうコートからフローターサーブが打ち込まれた。

「朱里!」

 綺麗な弧を描いてセッターの朱里に返ったレシーブを横目に捉えると、朱夏はすぐさま大きく弾みをつけて助走のステップを踏みながら、手を上げて朱里のトスを呼んだ。

「朱夏、お願いっ!」

「任せなさいっ!」

 直後、全身のバネと渾身の力をすべて注いで振り下ろした右の手のひらに痛みが走る。でも、ばちぃぃん、とボールの芯を捉えて打ったスパイクは、ここ最近では久しぶりに気持ちがいいもので、ひとつ、なにかが吹っ切れたような、そんな手応えもあった。

「ナイス、朱夏!」

「朱里こそ、いいトスありがと!」

 そう言い合いながら、ぱちん、と軽快にハイタッチを交わして笑顔を向ける。

 うん、これでいい。今はこれがいい。

「よーし、今日はじゃんじゃん私にトス集めて! 声出していくよーっ!」

 朱夏の笑顔は、予報によると夜行遠足当日も気持ちのいい秋晴れが期待できるだろうという空のように、少しの憂いを帯びてはいたものの、確かに晴れやかなものだった。

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