*


「うおっ、まだいるし」

 それからどれくらい、そこにいただろう。

 聞き馴染みのある声に顔を上げると、練習着に着替えた晄汰郎がなぜか目の前にいて、詩を見る顔を若干引きつらせていた。

「……なによ。誰にも迷惑かけてないんだから、いいじゃん。晄汰郎には関係ない」

「またお前、そういう言い方。お前の友達が『詩が戻ってこない、あんたのせいだ』って俺に怒るんだよ。まだ戻りたくないなら、せめて連絡くらいしてやれよ。心配してんぞ」

「そ、それは……あ」

「ほら。心配してんだって。いいダチじゃん」

「……」

 もごもごと口ごもるそばからポコンとスマホが鳴り、メッセージの受信を知らせた。

 詩だって友人たちからポコポコとLINEメッセージが届いていることに気づいていないわけではなかった。心配をかけているということも、ポコポコの頻度からよくうかがえていた。でも、どんな顔をして戻ったらいいのか、わからなかったのだ。というか、手鏡なんて今は持っていないので、人前に出ても大丈夫な顔かどうかの判断がつかない。

 おそらく彼女たちに怒られて探しに来たのだろう晄汰郎にも、とばっちりを食わせてしまって悪いことをしたなと思うものの、なかなか腰が上がらないのが現状だ。どうせ自分の意思で探しに来てくれたわけじゃないんだし。そう思うと、ますます惨めになる。

「……つーか、さっきの俺の言い方も悪かったよ。宮野があんまり素直じゃないから、こっちも売り言葉に買い言葉っつーか」

 そう言うと、晄汰郎は詩の前にしゃがみ込み、下から顔を覗き込んできた。どうやら今日の練習は、もう遅れていくことに決めたらしい。声には多分に幼い子供をなだめるような色が含まれていて、時間のかかる作業であることを容易にうかがわせている。

 自分のせいで部活に遅れさせてしまうこと、とばっちりを食わせてしまったこと、それでも自分のことを探しに来てくれたことが混ぜ合わさって、詩の胸はツキンと痛い。

「……どうせそれも、みんなに謝れって言われたから言ってるだけなんでしょ?」

 そして、そう言ってしまう自分の可愛げのなさにも、胸がジクジクと痛かった。

「なんでそう思うわけ」

「だって晄汰郎、私のこと嫌いじゃん」

「……は? いつ俺がそう言ったよ?」

「態度でわかるよ。私にばっかりきつい言い方するし、私と話してるときはいつも不機嫌だし、最近、ちょくちょく目が合ってたことも、計算ばっかりする私のことが不快だったからって考えたら、全部に説明がつくし」

「ちょっ、なんでそうなるの。目が合ってたことは認めるけど、俺は別に、宮野が嫌いだからとか不快だからって理由で見てない。そんなに自分を偽って疲れねーの、無理してんじゃねーのって、むしろ心配して……」

「信じない! そんなの、今考えただけじゃん! どうとでも言えるじゃん! 私から計算を取ったらなにも残らないよ。晄汰郎が好きそうな子にはなれないんだよ、私は!」

「……」

「あ、ご、ごめん……」

「いや」

 俯き、詩は膝に顔を埋める。

 つい感情的になってしまったけれど、でも言いたいことは、それだった。詩とは正反対の、本来の可愛さで勝負をしてくる子。計算なんかしないで、真正面からストレートにぶつかってくる子には、詩はなれない。

 つまり、晄汰郎は詩の理想の男子だったけれど、詩は晄汰郎の理想の女子ではなかったということだ。最初から生息するエリアが違う。勝負するフィールドが違う。そんなの、今さら好きになったって、どうしようもない。

「なにそれ、俺が好きそうな女の子って」

 聞かれて詩は、膝に顔を埋めたまま、渋々と「……私とは正反対の」と答える。

「なにも計算しない、偽らない子。そういう子が、晄汰郎は好きなんでしょ?」

「……」

 自分で言っていて、ますます惨めになってくる。すぐに言い返さないのも惨めさに拍車をかけ、なおかつ図星だったというなによりの証拠に思えた。きっと、どうフォローしようか考えているに違いない。晄汰郎の顔にはそんな色が浮かんでいるような気がする。

 でもその言葉には、だからこれ以上私に構わないで、という気持ちも多分に含まれているので、惨めだろうと傷つこうと、しっかり言ってしまわなければいけなかった。好きでもないのにこれ以上構われたら、望みもないのにますます好きになってしまう。まだ引き返せるうちに、まだ傷が浅いうちに、気持ちごと葬り去ってしまいたいのだ。

 そうしないと、ずっと最悪の片想いだ。お互いに自分のスタイルを曲げる気はないんだから、相容れるわけがない。どちらかが諦めなければ――この場合は詩がそうしなければ、どこにも気持ちの行き場がないのだから。

「そういうことか……」

 すると、質問には答えず、晄汰郎がため息混じりに言った。なにが〝そういうこと〟なのかと思わず顔を上げてしまうと、晄汰郎は野球帽を取って困ったように坊主頭をじょりじょり撫で、ちらちらと詩を見てくる。

「俺、宮野からお守りを渡されて、本当はすっげー嬉しかったんだ。最近やたらと目が合うし、そろそろ夜行遠足だし、もしかしたら俺のこと好きなのかも、って思って」

「え」

「でも、そんときに、ふと思ったんだよ。俺のことなんて別に好きでもなんでもなかったら、お守りなんて超無意味じゃんって。あのとき素直に受け取れなかったのは、宮野にとってお守りを渡すことがどういうことか、俺にはわからなかったからだ。もし俺のことが好きじゃないのに渡すんだったら、そんなの『いらない』って。受け取っても意味ないって。そう思ったからだったんだ」

「そんな……」

 あの〝いらない〟にそんな意味があったなんて、なんてわかりづらいんだろうか。もとからわかりづらい人ではあった。でも思考回路までそうだなんて、誰が想像できよう。唖然として見つめていると、晄汰郎が言う。

「試すようなことして、ごめん。でも、どうしても知りたかったんだよ、宮野の本当の気持ち。それからはまあ、こんなふうに、こじれまくっちゃったんだけど、そろそろお互いにはっきりさせたほうがいいでしょ。もう明後日なんだし、同じ105キロを歩くにも、モチベーションだって全然違ってくるし」

「……」

 ずっと頭をじょりじょり撫でたまま、照れくさそうに、そう一気に吐き出す晄汰郎の顔は、どこか赤いように思えた。その仕草や顔の赤らみや、まさかそこまで見抜かれていたとは思ってもみなかったこと、普段から晄汰郎はよく私のことを観察していたんだなと、嬉しい反面、とても恥ずかしかったことなどが一気に押し寄せ、詩は言葉を失った。

 一般的に考えたら、相手を試すようなことをするのは、あまりいいこととは言えないだろう。けれど晄汰郎には、そうしなければならないだけの理由があったのだ。

 とかく詩は計算で動くタイプだ。そんな彼女にお守りを渡された。晄汰郎は当然、どういう意味だろう、自分は彼女にどう思われているんだろうと気になったに違いない。

 お守りは渡さないくせに、いつもじっと部活の様子を見られていたことも、晄汰郎にとって混乱する原因のひとつだったんだろうと今ならわかる。詩は連日、学校帰りのいつも通るコースのフェンス越しから、晄汰郎の部活の様子をしばらく眺めてから帰っていたのだ。火曜日は珍しく、普段は正門から帰っているはずの香魚と会い、あいさつ程度の言葉を交わしたけれど、それ以外は無言で、ただ練習の様子を一定時間眺めて、そして駅へと続く坂道を下っていくだけだった。

 ストーカーっぽくて自分でも自分の行動が気持ち悪かったけれど、詩はどうしてもやめられなかった。……本当に申し訳ない。

 そういえば香魚は、どうしてあの日は裏門のほうから帰っていたのだろうか。いつも一緒にいるはずの優紀の姿も目なかったし、茜差す夕暮れのグラウンドを見つめて、少し泣いているようでもあった。とっさに気づかないふりをしたけれど、あのあと彼女はどうなっただろう。少しだけ気がかりだ。

「――じゃあ、答え合わせをしようか」

 そう言って再び顔を覗き込んできた晄汰郎にはっと我に返った詩は、心持ち赤く見える彼の顔を見て、渋々と首を縦に振った。

 本当は全部をうやむやにして、なかったことにしたい。でも、こうなったらもう腹を括って告うしかないかもしれない。〝答え合わせ〟の意味は詩には今ひとつわからないままだけれど、本当の気持ちを言えるチャンスであることに変わりはないのだ。当たって砕けたら、この気持ちもいくぶん晴れる。

 本当の恋が上手くいかないことだらけだって教えてもらえただけ、晄汰郎を好きになった意味がある。そう思えば、答え合わせをした結果がどうであれ、もう計算なんて必要なくなれるんじゃないかという気もする。

 それに不思議と、詩は今なら素直になれるような気がしていた。きっと晄汰郎が、先に自分が感じた気持ちを正直に吐き出してくれたからだろう。やっぱりゴリラ坊主には敵わないな。ふっと微笑を漏らし、詩は手に持ったままの本命お守りをぎゅっと握り直した。

「……あのね、実は私――」

「っ!?」

 すると、言いはじめたそばから、ゴリラ坊主がみるみる真っ赤なサルになっていった。

「おおお、お前なぁ~……!」

 詩は、そう言って盛大に頭を抱える晄汰郎に「え? え?」とあたふたするのみだ。

 なにか変なことを言ってしまったのだろうか。ただ「好きなんだ」って。「だから晄汰郎の彼女になりたい」って言っただけなのに、この反応は、だいぶ意味がわからない。

「なんで先に言っちゃうの!? 俺が言おうと思ってたのに、バカじゃないのお前!」

「ええー……」

 そう吠えた晄汰郎の顔はひどく真っ赤で、若干かわいそうなくらいだった。でも、そう言ったということは、つまり――。

「ああもう。俺だって宮野が好きなんだけど。だから、本当に俺のことが好きかわかんないうちにお守りをもらっても、なんの意味もなかったんだよ。でもよかった、ギリギリで好きになってもらえて。ちょくちょく目を合わせてた甲斐があったし、絶対りんごもらってやるってモチベーションも高まったし」

「あはっ。あはははっ!」

 真っ赤な顔でニシシと笑う晄汰郎に、詩はたまらず吹き出す。答え合わせはひどく簡単だった。お互いに好き。たったそれだけだ。

「いつから私のこと好きだったの?」

 ものは試しと思い、尋ねてみると、晄汰郎からは「グラウンドの脇の道を通って帰る姿を見つけたときから」という、なんとも赤面ものだが、なんだか確信犯ではぐらかされているような微妙な返事が返ってきた。

 そんな晄汰郎にゴリラ坊主のくせに全然男らしくないんだけど、と頬を膨らませつつ、でも、ということは最近の話では……ない? と詩は思わず考え込んでしまった。そうしていると「宮野もちゃんと完歩できたら、そんときは仕方がないから教えてやるよ」と晄汰郎が言う。それならば詩のほうも夜行遠足に向けてのモチベーションがぐんと上がる。

「わかった」

「おう」

 晄汰郎の顔は、前にも増して赤かった。けれど、詩の顔も晄汰郎のそれと同じようになっていることを、彼女はまだ知らない。

 そんなふたりの間を、さっきまでとは違う爽やかな秋風が穏やかに吹き抜けていった。そういえば、夜行遠足当日の天気も、今日みたいに気持ちのいい秋晴れになるらしい。


 詩が自分の顔が真っ赤だということを知ったのは、それから少しあとのことだった。心配して教室で待ってくれていた友人たちに、「顔が真っ赤だけど、どうしたの? ちょっと泣いたっぽくない?」と指摘されてから。

 詩は真っ赤な顔で笑う。

「お守り、ちゃんと受け取ってもらえた!」

 そのとたん、教室中にキャーキャーと甲高い声が響き渡った。詩は直後から友人たちに代わる代わる、もみくしゃにされる。

 とても清々しい気分だった。言えば大げさだと笑われること必至だろうけれど、例えるなら、生まれ変わったような。

 きっと、計算なんかしていたって上手くいかないことを教えてくれた晄汰郎のおかげだろう。晄汰郎に作り変えられた体の内側から新しい自分がどんどん生まれてくる。

「で、どっちから告ったの?」

「返事はなんて言ったの?」

 お決まりの尋問タイムに入り、矢継ぎ早に飛ぶ質問に答えながら、詩は考える。

 今日の帰りは、このとおり遅くなるだろうから、もしかしたら晄汰郎と初めて一緒に帰れるかもしれない。そうしたら、なにを話そう、どんな話をしよう、と。

 そのとき、熟れたりんごみたいな茜色が差しはじめた秋空のもと、グラウンドのほうからひときわ大きな野球部員の声が聞こえた。

 今日もゴリラ姿勢でノックを待っているだろう晄汰郎の声だ。詩はみんなにもみくしゃにされながら、こっそり頬を緩ませた。

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