宮野詩 1

「お前さ、金曜のあれはなんなの?」

 珍しく晄汰郎のほうから話しかけてきたと思ったら、週が明けた月曜日も安定した真顔で尋ねられたのは、自分でも不思議で仕方がない、例の突発的衝動のことだった。


 先週の金曜、詩は晄汰郎に本命お守りを渡したものの受け取ってもらえなかった。正しくは「いらない」と突き返されたのである。理由は、詩が女子の計算を駆使して晄汰郎を彼氏にしようとしたから。「顔は可愛いんだけど、ナイ」と真顔で言いやがった晄汰郎に怒り心頭したのは言うまでもない。

 その後、下校コースにしているグラウンド脇の道でフライを追って下がってきた晄汰郎とばったり出くわした。高いフェンスで囲まれたグラウンドの、こっちとこっち。数十分ぶりの、金網越しの再会だった。

 どうしてそうなったのかは、詩本人が一番わからない。ゴリラ姿勢でノックを待つ晄汰郎なんて、ちっとも格好よくなかった。

 ただ。

『……また、渡すから。受け取ってもらえるまで、何回でも。……じゃあね』

 そう言って走り去ったことは、よく覚えている。全速力で坂道を駆け下りたことも、まさか今さら自分のほうが晄汰郎を意識してしまうなんてと驚愕したことも、思い出すたびにそのときの息苦しさに見舞われる。


 そういうわけで、できれば本人には会いたくなかったのだけれど、残念なことに体調不良には見舞われず、しかも同じクラスなのだから、逃げも隠れもできなかった。

 それに、いくら常に冷静沈着がフォーマットの晄汰郎と言えども、自ら詩の席にやってくるくらいには、気になっていたのだろう。

 二時限目の授業後、ついに業を煮やしたようにズカズカと詩の席にやってきた晄汰郎に完全に意表を突かれた詩は、正面から真っすぐに見下ろしてくる彼をぽかんと口を開けて見上げたまま、しばし固まってしまった。

「……」

「……」

 二人の間に沈黙が走る。

 心の準備ができていれば、席を立つなり目を逸らすなりして、どうにでも避けられた事態だった。けれど詩はまさに晄汰郎のことを考えている真っ最中だったので、その本人が目の前に現れてしまっては、とっさにはどうすることもできなかったのである。

 友人たちにしつこく報告をせがまれ、じゃあ昼休みに詳しくと、とりあえず時間を稼ぐことにしたのは、登校後すぐのことだ。それまでに金曜日に起こったことをいい感じに捻じ曲げなければならない。事実をありのままに話すには、どうにも詩のプライドが邪魔をして、素直に友人たちに泣きつけない。

 これが正真正銘の〝ミイラ取りがミイラになる〟じゃないか。……しくじった。

 いまだ射貫くような目で見下ろしてくる晄汰郎と見つめ合ったまま、詩は内心で盛大に舌打ちする。時間がもったいない。まだなにも妙案が浮かんでいないのに。晄汰郎になんか構っている暇は、一秒だってないのに。

「で、なんだったの、あれは」

 再度尋ねられて、今度は目が泳いだ。椅子からお尻が浮きかける。もう今すぐ逃げ出してしまいたい。 けれど晄汰郎に、逃がすか、とでも言うように机に両手を付いて身を乗り出されてしまった。ちらりと目だけで彼を見ると、その強引とも取れる動作とは裏腹に、どこか切羽詰まっているような、そんな気もして、詩はわけがわからなくなる。

「……な、なんだったの、って」

「俺のこと、本気で好きになったの?」

「は?」

 冷や汗をかきながら視線を明後日のほうに向けてはぐらかそうとすると、間髪入れずに聞かれて、またばっちり目が合ってしまう。

 しまった、こいつのペースに呑まれそうになってる場合じゃないよと、はっと我に返ったときには、けれど、もう遅い。

「ちょっと」

「えっ、えぇっ?」

 野球部で鍛えられた反射神経がものを言ったのか、目にも止まらぬ速さで晄汰郎に腕を取られてしまい、あれよあれよという間に教室を連れ出されてしまう。クラスメイトや詩の友人たちの「何事だ?」「どうした?」という視線を体中に嫌というほど感じながらの連行は、羞恥心に耐えがたい。前につんのめりそうになったのも、もちろんそうだ。

 もうすぐ次の授業だというのに、晄汰郎はいったいどこに連れて行こうとしているのだろうか。とにかく恥ずかしいから、もうやめてほしい。お願いだから。ほんとマジで。

 休憩中の生徒で賑わう二年生の階の廊下をずんずん連行されながら、詩はもう、脳内パニックの状態だった。金曜日の、自分でも説明のつかない奇怪な行動といい、今のこの晄汰郎のわけのわからない行動といい、頭の中は真っ白。頬が火照り、あまりの恥ずかしさからか、瞳にも薄っすら涙が滲んだ。

 そんな詩のことはちっとも気に留めやしてくれずに、やがて先週と同じ別棟の空き教室へ連行した晄汰郎は、先に詩を中へ通し、自らは後ろ手で戸を閉め、鍵までかけた。

「ちょっ、えっ……?」

 カチャンと響いた施錠の音に、さすがに我に返った詩は、さっきのように真っすぐに自分を見つめてくる晄汰郎に尻込みし、反射的に後ずさる。まさか月曜日の朝っぱらからなにかしようなんて考えてはいないだろうけれど、申し訳ないが怖いものは怖い。

 だって、いくら同級生とはいっても、そこは男と女だ。力で敵うはずもない。

「五分、十分でどうこうするか、バーカ。教室だとうるさくて落ち着いて話せないから、静かなところに移動しただけだから」

 すると晄汰郎が、表情筋が強張りきった詩にふっと微笑をもらした。あからさまに警戒して滑稽だと思っているのだろうか。その微笑には多分にあざけりが含まれているように思えて、悔しくて下唇をきゅっと噛む。

「聞きたいのは、ひとつだけ。金曜のあれはなんだったの? 俺はどうすればいいの?」

 そんな中、再度、今度はゆっくりと、噛みしめるように晄汰郎が尋ねた。

 詩の警戒心を解くためなのだろう、戸のそばから離れる様子もなく、降参するときのように両手を顔の脇に上げている晄汰郎は、不覚にもちょっとだけ可愛くて困る。

「……」

「……」

 月曜の午前中特有の、これからはじまる憂鬱な一週間に向けて無理やりテンションを上げているかのような喧騒が、まるで嘘のようにひっそりと静まり返る空き教室は、壁時計の秒針がチクタクとただ時を刻んでいるだけだった。遠く本校舎のほうから生徒たちの笑い声や廊下を走る足音がぼんやり聞こえて、かえってこの教室の中の静寂が際立つ。

 耳に痛い静寂というものを、詩は初めて経験していた。目の前には、つい三日前、唐突に意識するようになってしまった晄汰郎が、詩が言葉を発するのを待っている。

 もし納得するようなことが言えなければ、晄汰郎はきっと、そこをどいてはくれないだろう。降参のポーズは相変わらず可愛いけれど、やっていることは、ひどく強引だ。

 とはいえ、いったいこれはどういう状況なのと、詩は眩暈を覚えそうになるのを必死で踏みとどまり、働かない頭を働かせた。

『……また、渡すから。受け取ってもらえるまで、何回でも。……じゃあね』

 その自分でも説明しようのない突発的な宣言は、晄汰郎には聞こえたかどうか、わからないと思っていた。むしろ聞こえていてほしくなかった。だって本当に、なんであんなことを言ったのか、わからないのだから。

 けれど、週が明けてみれば、これである。

 せっかく作った本命お守りを「いらない」と突き返しておきながら、ちょっと自分に追い風が吹けば、これだなんて……。

「……」

 手のひらを返すようだというのはこのことか、と詩は思う。晄汰郎ともいう冷静沈着と真顔がフォーマットの男が、あのときのたったひと言だけで、なにをそんなにがっついているのだろう。たった三日でこれだなんて、あまりに変わり身が早いのではないか。

「……ていうか、晄汰郎こそ、なんなの。私のこと、本気で好きだったりするの?」

 考えたけれど、一周回って、なんだか腹が立ってきた。興味本位で近づいたことは、私が悪かったから謝る。だけど、こっちの出方を待ってから言葉を返そうとしている晄汰郎のずるさが、どうしても解せない。

 男らしくないと言えば、それまでだ。けれど詩は、晄汰郎はそんな男じゃないと思っていたのだ。勝手に裏切られたような気分になるのもおおいに間違っているとは思う。だって、詩が勝手に作り上げた理想なのだし、あまりに身勝手すぎる願望なのだから。

 それでも、晄汰郎には試すようなことをしてほしくはなかったのだ。野球に一直線に打ち込むように、クラスメイトに頼られるように、誰かのひと言に簡単に自分のスタイルを崩さないでほしい。今どき珍しい愚直なまでのその感じが、逆に格好いいんだから。

「……教えてあげないよ。私がなんであんなことを言ったのかも、晄汰郎をどう思ってるのかも、絶対に教えてなんてあげない」

 言うと晄汰郎から「それもお前の計算?」と、鼻白んだため息とともに、皮肉ったような質問が返ってきた。それには答えずにいると、ちょうどスカートのポケットに入れていたスマホがブブブと震え、静かな教室にその機械的な音がやけに大きく響いた。

 見なくてもわかる。友達からの心配の声だろう。それに、そろそろ戻らないと、本当に授業に遅れてしまう。そうしたら、友達にも先生にも、なにを言われるかわからない。

「……もう行こうよ」

 嘆息を漏らしながら、皮肉は無視して晄汰郎に近づく。もうとっくに顔の脇から下ろされている彼の両手は、代わりに体の脇でだらんと力なくぶら下がっているだけだった。

 鍵に手を伸ばすと、仕方なく、といったふうに晄汰郎が鍵を開けて体をよけた。ガラガラと戸を引いてくれるのは、ここまで強引に連れてきた、せめてものお詫びだろうか。

「……とりあえず、行こ」

 一瞥すらせず、詩は教室への廊下を引き返す。……どうしてこんなことになってしまったんだろう。ふと足を止めて振り返ってみても、けれどそこには、すぐ後ろをついてきているはずの晄汰郎の姿は見えない。

「……」

 サボるつもりなんだろうか。坊主でゴリラのくせに。そんな度胸もないくせに。

 だから嫌なんだ。夜行遠足も、お守りも、月曜日も、恋とかいう目には見えない不確かな感情に振り回されるのも、全部、全部。

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