授業後。

 せっかく先生公認でだらだら過ごせたはずなのに、がっつり汗をかいてヘトヘトな様子で体育館をあとにしていく湊の後ろ姿を眺めながら、朱夏は隣を歩いていた香魚に、

「そんなに想ってるんなら、今年こそ頑張って渡してみようよ、お守り。せっかく作ったんだから、もったいないって。ね?」

 私のぶんも頑張って、という切実な願いを込めて、そう言ってみることにした。

 体育館からぞろぞろと引き上げていく、ふたクラスぶん、総勢七十名近い同級生たちの波に若干呑まれ気味な様子で歩いていた香魚が、横から顔を覗き込んできた朱夏に気づいて「……え?」と目をぱちくりさせる。

 どうやら香魚は、自分に話しかけられているとは思っていなかったらしい。ぐーっと首を伸ばして朱夏を見上げる香魚の顔は純粋に驚きに満ちていて、余計なことを言ってごめんね、あとデカいからすごく見上げさせてごめんと、朱夏は少しだけバツが悪くなる。

「でも、本当にそう思うんだよ。私なんてほら、お守りを作ること自体、似合わないし。今週いっぱいは時間があるんだから、どうにか頑張ってみることって、できない?」

「……でも、クラスも離れてるし、そもそも私のことを知らない可能性だってあるよ。中学が同じで、高校まで追いかけてきちゃったけど、唯一話したのって、中二のときだし」

「え、そんなに前なの?」

「うん。実はそうなんだ。しかも『ペン落としたよ』、『ありがとう』って、たったそれだけ。優ちゃんとお揃いで買ったものだったから拾ってもらえて嬉しかったし、助かったけど……ほんと、それだけなんだよね」

 そのことがきっかけで、香魚は悠馬に恋をしたらしい。どこかで聞いたような話だと思ったら、まんま自分のことで、朱夏は「そっかぁ。そりゃ、なかなか渡せないわ……」と言葉を返すだけで精いっぱいだった。

 まるで自分を見ているようで、無責任に頑張れなんて、とうてい言える気分でも雰囲気でもない。頑張りたくても頑張れないことって、きっと世の中にはたくさんある。香魚のそれは、そういう部類の〝頑張れない〟だ。

「うん。優ちゃんは、ああ言ってたけど、剣道着で外周に行く姿をこっそり眺めて眼福とか言ってる時点で、私みたいな日陰女子には接点なんて作れるわけがないんだって」

「……」

 そう言って切なげに微笑む香魚に、朱夏はとうとう、なにも言えなくなってしまった。

 香魚もきっと朱夏と同じだ。いつ告白されるだろう、いつ彼女ができるだろう、もしかしたら悠馬のほうから誰かに告白するかもしれない、付き合っちゃうかもしれない、と常にハラハラしながらの片想い。想いは募るばかりで、でもだからこそえない――そんな恋を、もうひとりで四年もしている。

 ……難しいよね。すごく難しい。

 きゅっと下唇を噛みしめ、朱夏は自分の恋と重ねて香魚に心からの同情を送る。お守りの数だけ想いがある。それを今、どうしようもなく再確認させられたような気分だった。

「あ、でも、お守りを作るだけで満足してるわけでは、けっしてないんだよ? 渡したいし、できればりんごも、もらいたい。……それでも、もう二個も溜まっちゃった」

「……うん」

 そっか、去年は渡せなかったのか。

 また切なげに微笑む香魚に、朱夏も微妙な笑顔を返す。けれど、四年片想いしているのだから、少し考えれば察せることだ。

 そして今年も作ったそばから『渡せないで終わる』とすっかり諦めきっている香魚の心情は、朱夏にはわかる部分が多い。

 難しいのだ、すごく。勇気なんてはじめから少しも奮い立たないくらい、ものすごく。

「ああ、でも、朱夏ちゃんなら私みたいな考え方はしないよね。うだうだ考える前に渡しちゃいそう。それに、渡された相手も絶対喜ぶと思う! だって朱夏ちゃん、背が高いからモデルさんみたいで格好いいし!」

「そ、そんなことないと思うけど……」

「ううん、格好いい」

「……そっかな。ありがとう、香魚ちゃん」

「好きな人ができたら、頑張ってね」

「うん」

 頬を精いっぱい持ち上げて笑う香魚に、けれど朱夏は曖昧に笑い返すことしかできなかった。前にも聞いたな、そんな台詞……。その主は、今も絶対に自分が誰かに――自分より一センチ背の高い朱夏に想いを寄せられていることになんて、ちっとも気づいていないに違いない。もしかして、なんて、頭の隅を掠めることすらないんだろう。

 きっと香魚ちゃんは私に自分を重ねているんだろうな、私が香魚ちゃんに自分を重ねているみたいに。女子更衣室に入り、のろのろと制服に着替えながら、朱夏は思う。

 ……でも、どうしようもないじゃんか。

 重く垂れ込めるような気持ちで足を通したスカートは、ショートカットしか似合わない朱夏には、やっぱりこれっぽっちも似合わなくて、少しだけ泣きたい気分になった。


 これからどうしようか。

 次の授業を受ける湊のひょろっとした背中を眺めながら、朱夏は家の自室の、机の引き出しにしまったお守りのことを考えた。

 先週の土曜日、かねてからの約束どおり部活後に朱里と一緒に買いに行ったギンガムチェックの生地は、去年ノリで記念に買ったものと合わせて二枚になってしまった。しかも今年は、四苦八苦しながらもお守りを作り、バド部の湊にちなんでラケットとシャトルを模したワッペンまで、セット販売されていたフェルトで作ってしまう始末だ。

 出来上がった本命お守りを見つめて、朱夏は苦笑が漏れると同時に、私はいったいなにをしているんだろう、となんとも言えない気持ちになった。柄にもなく女の子らしいことをしてしまった、これじゃあ、血の涙を呑んで作り上げてきたがさつキャラが崩壊じゃないか、と。湊を想い、自分のあまりの不器用さにがっかりし、そして、湊に本命お守りを渡している場面がまったく想像できなかった自分自身に、ひどく落胆した。

 朱夏は先週から、自分はどうしたいのか、どうするべきなのかと、ずっとずっと考えている。くるくる、くるくる、と。

 けれど、週が明けた今日も、朱夏の頭の中には残念ながら答えらしいものはひとつも浮かんでいなかった。むしろ、さっき香魚と話をしたからか、こんがらがってさえいる。

 湊と仲がいいのは朱夏だと朱里は言う。

 うだうだ考える前に渡しちゃいそうだと、香魚は羨望さえしているように言った。

 でも、実際の朱夏は、朱里がそばにいなければ湊とはまともに話もできないくらいに緊張するし、うだうだ悩んでしまう。

「……格好よくなんてないよ、私は」

 頬杖をつき、窓の外の今日もよく晴れ渡った秋空を眺めながら、朱夏はぽつりと独白をこぼした。数瞬置いて隣の席の男子から、なにか言ったか? とこちらに顔を向ける気配があった。けれど朱夏は、それに気づかないふりをして、そのまましばらく小鳥がさえずり飛んでいく秋晴れの空を眺め続けた。

「おーい、大垣、こっち向けー」

 案の定、授業そっちのけでぼぅっとしている朱夏に生物教師の注意がかかる。すぐに、すみませんと頭を下げたものの、しかし朱夏はそれ以降もまったく授業に集中できなかった。黒板の字がゲシュタルト崩壊である。

 私はいったい、どうしたいんだろう?

 授業終わりのチャイムが鳴って席を立っても、答えはいまだ、出そうになかった。

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