■9月25日(月) 大垣朱夏 1

 月曜日の一時限目から体育って、運動部の私でもさすがに嫌になるわ。でもまあ、今週末は夜行遠足だから、体育と言っても形だけで、ほとんど自由時間みたいなものだけど。

 緩くバドミントンをして遊んでいる同級生たちを眺めながら、朱夏はステージ下の壁に背中を預けて体育座りをした体を丸め、内心でそう思って苦笑した。隣では、同じように体育座りをしている朱里が「みんな見事にやる気ないなぁ」と同じように苦笑しながら、ぱーん、ぱーん、と断続的に鳴るラケットの音と、それぞれ仲のいいグループ同士で固まって雑談するみんなの声を聞いている。

 そう言う朱里も十分やる気ないよ。とは、言いはしない。苦笑混じりに首を動かして体育教師の姿を探すと、五十代前半だろうか、その教師も一応の注意はするものの、みんなのだらだら具合を黙認していた。

 夜行遠足一週間前の体育は、どこの学年でもこういうものらしい。去年もそうだったし、きっと来年もそうだろう。もっとも、男子は105キロの道のりを夜通し歩くという過酷さを極めているので、ネットを引いて体育館を半分に割った向こう側で、女子と同じくバドミントンをしている男子のだらだら加減は女子のそれとは別次元の代物だ。

 教師たちの粋な計らいと言えば、そうかもしれない。でも、床にどっかり胡坐をかき、ネット向こうの女子たちが胸やお尻を揺らすのをニヤニヤ眺めている姿は、正直、あまり気分のいいものではない。

 どうせ誰々は何点、なんて点数をつけ合っているんだろう。自分はそれにはカウントされないことは最初からわかっているけれど、同じ女子として、だから男子って嫌なんだよね、という気分になる。もし朱里に点数をつけられでもしたら、それこそ最悪だ。誰からの嫌がらせかわからないような陰湿な報復をしてやろうか。朱夏は本気で考える。

「あ、優紀ちゃん、香魚ちゃん、お疲れー」

「お疲れー」

「おつかれー」

 と、そこに、隣のクラスの女子ふたり組が少し息を弾ませながら戻ってきた。朱里とにこやかに笑顔を交わすと、ふたりは彼女の隣に並んで座り、ぱーん、ぱーんと気だるげに中空を往復するシャトルを目で追う。その動作が、幼い猫の姉妹が目の前で飼い主におもちゃを振られて遊ばれている動画みたいに、綺麗にシンクロしている。……可愛い。

 蓮高の体育授業は、ふたクラスずつの合同体育だ。男子と女子とに分かれてそれぞれのカリキュラムをこなし、たまにこうして同じ空間で授業を受けることもある。

 朱里、優紀、香魚の三人は、去年同じクラスだったそうだ。今年は朱夏が朱里と同じクラスになり、朱里は優紀や香魚とは離れてしまった。けれど体育の授業では一緒になる。朱夏はふたりとは面識がなく、こうして体育の授業で一緒になるようになってから、朱里を介して話すようになった。ふたりとも朱里と同じくらいの身長で、女の子らしく、触ったらふわふわと柔らかそうな子たちである。

 可愛い。

「ふたりとも、お疲れー」

 朱夏も少し遅れて声をかける。揃って「おつかれー」と返してくれたふたりは、やっぱり子猫の姉妹みたいに動きがシンクロしていて、触ったらふわふわと柔らかそうだった。

「あ、ねえ聞いてよ、朱里ちゃん。香魚ったら、また今年も『渡せないで終わる』なんてもう諦めちゃってるんだよ。夜行遠足だってまだはじまってもいないのに、そんなに消極的でどうするのって話だと思わない?」

 すると優紀が、思い出したように言った。香魚が慌てて「優ちゃんっ!」と抗議の声を上げるけれど、優紀はそんなのどこ吹く風といった様子でまったく意に介していない。

 純粋な心配と、ほんの少しのからかいが混ざっているように聞こえた口調は、けれどやっぱり九対一くらいで心配する気持ちのほうがまさっているのだろう。それがわかっているから、香魚も本気で怒ったり不機嫌になったりはせず、ただ恥ずかしそうに俯いた。

「中学の頃から四年……だっけ?」

「そう。だから、もうそろそろ本気で頑張ってほしいんだよね。蓮高を受験するって聞いて追いかけちゃうくらい好きなんだから、あとちょっとの勇気さえ出せば、接点だっていくらでも作れるはずなんだよ、香魚は」

 空中に視線をさまよわせながら思い出すように尋ねる朱里に、優紀が答える。

 確か香魚は、一松悠馬という男子のことが好きだったはずだ。さすがに業を煮やしたのだろう優紀が、最近になって会話の中に名前を出すようになった。剣道部で、インハイ後に三年が引退した今は副主将だとか。前から顔くらいは知っていたけれど、こうして度々話題に上るようになってからは、朱夏もすっかり悠馬の顔と名前が一致している。

 朱夏は、りんごみたいな真っ赤な顔を三角に折った膝の間に埋める香魚に同情を覚えつつも、朱里と優紀の会話に興味を抑えられずに体育座りを崩して身を乗り出した。

 もしかしたら、こういうのは女子の性分かもしれない。仲間内で相手の情報を共有し合うことにあまり抵抗や罪悪感を覚えない。もちろん男子同士でもしているかもしれない。でも想像するとちょっと引く。なぜか。

「私のぶんまで強引にギンガムチェックの生地を買ったのにさぁ。しかも、買った日の夜には作り終わっちゃったんだってよ? なのに、渡せないまま終わらせちゃうのは、見てるこっちがしんどいよ。だって、想う期間が長ければ、それだけ勝算があるってわけでもないじゃない? できちゃうときは、できちゃうんだよ。彼女だって、なんだって」

「そっか……うん、そうだよね」

 優紀の思いのほか熱い語り口に少々気圧されたようだったけれど、朱里がそう言って神妙に頷き返した。心当たりがあるのか、単に一般論に当てはめて頷いたのかはわからなかったけれど、朱夏にはばっちり思い当たる節があるので、ドキリと心臓が不穏に踊る。

 本当に優紀の言うとおりだ。

 どれだけ相手を――朱夏の場合は湊を好きでも、ほかに想いを寄せている子が湊に告白したら。そこまではいかなくとも、赤のギンガムチェックのお守りを渡したら……。

 朱夏には、そうまでして告白する勇気も、お守りを渡す度胸も、もう完全に削がれてしまうに等しい。どうしてこうなる前に頑張らなかったんだろうと後悔を抱えたまま、残りの学校生活を送ることになるだろう。

 告白が成功して付き合いはじめるとは限らない。それでも懸念や不安な気持ちは、湊を好きでいるうちは、ずっと変わらないのだ。

 いつ告白されるだろう、いつ彼女ができるだろう、もしかしたら湊のほうから誰かに告白するかもしれない、付き合っちゃうかもしれない。そんなふうに常にハラハラしながらの片想いは、すこぶる心臓に悪いし、あまり夢見のいいものでもない。

「……そう言う優ちゃんだって、本命が欲しいって言われて、まんざらでもない感じじゃんか。あれからチラチラ目が合うようになってるの、私、知ってるんだからね」

「え、そうなの!? 誰、誰⁉」

「こら香魚!」

 ぽつりとこぼした香魚の反撃に、朱里が目をキラキラさせて優紀に尋ねる。優紀は自身の額に手を当てて深いため息をつくと、裏切ったな、とでも言いたげな様子で香魚をひと睨みした。しかし香魚は、さっきのお返しだと言わんばかりに、どこ吹く風を装う。中学の頃からの仲だという優紀と香魚だからこその、ケンカになりようもないケンカだ。

「で、誰なのよ?」

「……あー、同じクラスの朝倉? ほら、向こうで今、湊とペアを組んでバドミントンやってるでしょう。ちょうどこっちに背中を向けてるから微妙にわかんないかもしれないけど、やたらと威勢のいい、右のほう」

 前のめりで尋ねる朱里に、優紀が渋々といった様子で控えめに指をさす。三人でネットの向こうに目を向けると、確かに湊の隣にやたらと威勢のいいジャージがいた。片方のすねだけ出してオシャレさん気取りなのか、よく見ると体育館シューズからはみ出たスニーカーソックスの色も、左右で違うようだ。

「あーあ、あんなに格好つけちゃって。ばんばんスマッシュ決められちゃってんじゃん。だっさー。ていうか、むしろイタいし」

「ぷっ」

「ぷぷっ」

「ぶっ」

 優紀の酷評に、三人同時に吹き出す。口ではひどいことを言っているけれど、優紀がすっかり朝倉を意識していることに気づかないわけがない。「ちょっとー。三人とも、なんで笑うのよー」と不服そうに唇を尖らせる優紀が、やたらと可愛くて仕方がなかった。

 どうやら、ここにも恋がはじまりつつあるようだ。この時期になると、やたらとモーションをかける人が増えるんだよなぁ、男子も女子も。ぶっ、なんて、ちっとも可愛くない笑い声を上げてしまった朱夏も、それはそれとして、そんな優紀と朝倉を羨ましく思う。

 てか、湊……か。

「で、作るの?」「渡すんだよね?」と興奮しきった様子で尋ねる朱里の声を遠くに聞きながら、朱夏はバドミントンコートを軽快に動き回る白くてひょろい後ろ姿を見つめる。


 朱夏、朱里、それと湊――湊響也きょうやは、今年から同じクラスになった仲だ。

 正確には、朱里と湊は一年のときから同じクラスで、そこに朱夏が加わった、という言い方が正しい。去年は香魚と優紀も同じクラス。ふたりと入れ替わる形で朱夏が湊と朱里と同じクラスになったのである。部活では同じ体育館を使っていることもあって、もとからそこそこ仲のよかったらしい朱里と湊のもとに、クラス替えがきっかけで朱夏が自然と混ざるようになり、そうして今に至る。

 湊を好きになったきっかけも、あの手この手でアレンジされ尽くして、もう少女漫画のネタにもならないくらいの平凡なものだ。

 朱里をとおしてちょこちょこ話すようになって、しばらくした頃。掃除当番で湊と一緒の班になったとき、同じ班のほかの男子に冗談で背比べを挑まれたことがあった。仕方なくそれに応じたものの、彼らは「やっぱ大垣でけーな」「そんなに身長あったら逆に分けてほしいんだけど」などと明け透けに言って笑い、要は朱夏をからかったのだ。

 ぐんぐん背が伸びはじめた小五のときから散々言われ慣れてきたことだったので、その場は笑ってやり過ごした朱夏だった。けれどいくら慣れているつもりでいても、やっぱりそれなりにきついものがある。

 そんなとき、たまたま黒板の掃除を一緒にしていた湊が事もなげに言ったのだ。

『まあ、バレーボール選手としても中途半端な身長だし、女子としても普通に大きいし、からかいたくなって当然だよね』

 そう言って笑った朱夏に、一言。

『背の高い女子とか、モデルみたいで普通に格好いいじゃん。自信持って背筋伸ばせば? せっかくいいもん持ってるんだから、猫背なんてもったいなくね? しゃんと背筋を伸ばしたほうが、大垣は似合うって』

 その瞬間、朱夏は生まれてはじめて〝恋〟というものに落ちた。自分とそう違わない身長の――むしろ少し低いくらいの男子から、そんなことを言われたのは、このときが初めてだったからだ。それ以来朱夏は、身長を気にして猫背になりがちだった背筋をしゃんと伸ばせるようになった。そうしたら、ぐんと視界が開けて、バレーの調子も上がった。

 ……なんて平凡な恋の理由なんだろうか。思い出すたび、朱夏は今でもよく思う。

 湊が自分より一センチ低いと知ったのは、それから間もなくのことだった。でも、してしまったものは仕方がなく、それからも朱夏は、自分より小さい男子に恋をしている。

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