そういうわけで、そのための準備も、詩なりに怠らなったつもりだった。

 毎日身だしなみに気をつけたし、いつも穏やかに、誰に対しても態度を変えず、不平も不満も、悪口も文句も言わずに、にこにこ笑って――それこそ、晄汰郎のような人柄を目指して、自分なりに努力した。

 まあ晄汰郎は、にこにこ笑った顔なんて滅多に見せない気取った男だけれど、その人柄を研究し、模倣し、もとから自分もそういう性格なのだというふうに意識を変えていったら、いつの間にか身についていた。

 ちなみに晄汰郎とは一年のときからのクラスメイトだ。身近にいい見本がいたのは、詩にはとてもありがたいことだった。

 そうしていると、詩は少しずつ、男子の目を惹くようになっていった。

 さっき晄汰郎にも言われたとおり、詩はもとから顔はいい。そこに性格の良さもプラスされれば、引く手あまたとまでは、さすがにいかないまでも、それなりに告白というものを経験するようになり、このやり方で間違いないと詩は確信を深くしていった。

 そうして迎えた今年、二回目の夜行遠足。

 満を持して晄汰郎を彼氏にするべく本命お守りを渡したのだが、詩はあっさりフラれてしまった。しかも好きでもないのに。

 これでは、ますます憂鬱になるだけだ。ただでさえ夜行遠足のことを思えば夏休み中から憂鬱で、本番一週間前ともなれば、どうにかして具合が悪くならないだろうかとあの手この手を尽くして体調不良を引き起こそうと密かに企てているのに、好きでもないのにフラれると、ある意味、好きでフラれるより精神的ダメージが倍増するような気がする。同じクラスなのだから、なおさらだ。

「学校行きたくないなあ……」

 これから帰るというのに、気分はもう月曜日の朝だ。バカなことをしてしまった、恥ずかしいことをしてしまったと頭を抱えて、詩はひと気のない教室でひとしきり唸る。それ以外に自分を慰める方法なんてない。

 外からは相も変わらず、野球部の威勢がいいんだか、ただ闇雲に叫んでいるんだかわからないような「こーい!」「おりゃぁー!」という声が響いていて、後ろからは廊下をパタパタと走り去っていく女子生徒の足音が聞こえた。……八つ当たりもいいところだが、もう一度言おう。みんな楽しそうでなによりだ。私はちっとも楽しくないけどね!

「どこかで間違えたのかなあ……」

 またひとりごちて、寄りかかっていた机からトンと離れ、別棟から本校舎への廊下をペタペタと重い足取りで歩く。二年生の階に着くと、向こうから歩いてきた他クラスの女子とすれ違った。彼女は、後ろから彼女を呼び止める声に振り向いてごめんと顔の前で手を合わせているところで、どうやら正面から来た詩には気づいていない様子だった。

「ほんとごめん、親に用事頼まれてたの、すっかり忘れちゃってて。次は行くから」

「次は絶対だぞー」

 彼女の謝罪に対して、間延びした男子の声が廊下に響く。その声を背中に受けてひとり歩いていく彼女を横目に、すぐに窓の外のグラウンドに目を向けはじめた男子三人、女子ひとりのグループの脇を通り抜ける。すれ違った彼女はおそらく、このグループのうちのひとりだろう。どこかに誘われていたようだったけれど、親の用事なら仕方がない。

 自分の教室から鞄を取ってくると、例の四人――ひとり帰ったから正確には五人グループは、まだグラウンドを眺めていた。詩はふと、そこにはなにがあるんだろうと思う。

 けれど、詩の今の気分は、楽しそうに笑い合っている四人とは正反対の鬱屈とした気分だった。気分上々ならぬ、気分下々だ。

 詩は彼らの後ろを少しだけ速足で通り過ぎる。ただ笑っているだけだから不快もなにもないのだけれど、好きでもないのにフラれた今は、気分的にあまり聞きたくなかった。

 校舎の外に出ると、詩は少しの間だけ足を止め、スマホを片手に歩き出した。いつもは裏門からグラウンドの脇を通って駅への坂道を下るのだけれど、今日は正門のほうから帰ろうかと一瞬迷ったためだ。けれど、でも、と思い直し、詩は慣れ親しんだいつものコースに足を向けることにした。

 ここで逃げたら、なんか悔しい。

 もちろん、練習の真っ最中だろう晄汰郎が、詩がいつもこのコースを通って帰っていることを知っているとは限らない。グラウンドにはほかに陸上部やサッカー部やテニス部がうじゃうじゃとひしめき合っているし、緑色のフェンスで囲まれて視界が悪くなっているグラウンドの外に、わざわざ目を向けることがあるとも、なかなか思えない。せいぜい逸れたボールが飛んでくるくらいだろう。

 でも詩は、一年半、同じコースを通って帰っているものの、そういえば一度も逸れたボールに出くわしたことはなかった。きっとタイミングとか運とかいう、自分の力ではどうにもならない次元の問題なのだろう。

 晄汰郎への勘違いも、お守りも、すべてはそれ。そうやって無理やりにでも片づけてしまわないと、自分のあまりの格好悪さに、駅へ向かう足が止まってしまいそうだ。

「月曜日にね、っと」

 友人たちからの『どうだった?』『上手くいった?』というLINEに適当に返事をして顔を上げると、ちょうど野球部員が外野に高く飛んだフライをグローブに収めようと、その軌道を追いながら後ろ向きで走ってくるところだった。高いフェンスで囲まれているので当たる心配もないのだけれど、条件反射的に詩の足は止まってしまう。

 すると、グローブを嵌めていないほうの右手を添えて丁寧にフライを捕球した部員が、ふいに後ろを振り向いた。その瞬間、お互いに声にならずに口の形だけで「え」と言い合う。――晄汰郎、だった。野球部員なのは見るからにわかっていたけれど、ポジションは外野だったなんて。……知らなかった。

 晄汰郎は、すぐにはっと我に返って、胸の前でグローブを構えている別の部員にボールを返球する。そして、気まずい顔などひとつもせずに、空き教室でのときのような真顔で「もう一本!」と、はるか向こうのホームベースに向かってノックを要求した。

 まるで、なにも見ていません、なにもありませんでしたと言うような、徹底した真顔や態度。いっそ清々しいとさえ感じてしまうのは、いったいどういうことなんだろうか。

「おい、晄汰郎! 覚えてなさいよ!」

 ガシャンとフェンスを掴み、詩はたまらず中腰姿勢でノックを待つ晄汰郎の背中に声を張り上げた。今さっきの真顔からは、詩に同情して何事もなかったことにしようとしているのか、それとも、もともとさしたる興味もなかったのかは、わからなかった。けれど、しっかり目が合っておきながら、それはないでしょう! と詩は再び怒り心頭なのだ。

「ねえ、聞いてんの!?」

「練習の邪魔。用がないなら帰れよ」

「なっ!」

 しかし晄汰郎は、振り向きもせずにそう言い、中腰姿勢でノックを待ち続ける。後ろから見たら、ゴリラが腕をぶらんとさせて立っているような格好なのに、それがとても様になって見えるから、本当に腹が立つ。

「ちょっと! なによ、その言い方!」

「うるさい。帰れ」

「ほんっと腹立つ!」

 いーっと歯を剥き、詩はめいいっぱい顔をしかめる。普段なら人前では絶対にやらない顔なのだけれど、どうせ晄汰郎も見ていないんだし、もうどうでもいい。

 そうして晄汰郎に敵意を剥き出しにしていると、練習着の上からでもわかる、ほどよく引き締まった体に唐突に夕日の茜が差して、地面に映る影をすーっと後ろに引き伸ばしていった。その影が、徐々に詩に迫る。

 方々から絶え間なく声が上がり続けるグラウンドには、その声の数だけ蓮高生がそれぞれの部活に勤しんでいるのに、なぜか詩の耳には、また「もう一本!」とノックを要求する晄汰郎の声以外は入ってこない。

 不思議な感覚だった。周りの音も声も遮断されて、ただただ晄汰郎の姿だけが浮かび上がってくるような。そんな、奇妙な感覚。

 だからかもしれない。

「……また、渡すから。受け取ってもらえるまで、何回でも。……じゃあね」

 自分でもまったくの予想外、思ってもみなかったことを口走ってしまったのは。

 返事がないことはわかっていた。だから、言い終わるが早いか、一目散に走り去る。後ろを振り返る余裕なんて、あるわけもない。心臓が暴れ回って、ぎゅっと胸が苦しい。体の奥から変な熱が生まれて、ひどく熱い。

 でも、普段から真面目一直線な晄汰郎のことだから、どうせゴリラ姿勢のまま辛抱強くノックが上がるのを待っているだけだろう。

「っ……」

 それを思うと、また胸が苦しくなった。だから余計に、振り返れなかった。

 はあはあと息を切らしながら、グラウンドの脇から伸びる駅へと続く坂道を、詩は一気に駆け下りる。だらだらと下校していく蓮高生を何人か追い抜きながら、ただただ、燃えるように火照る頬の熱を冷ますために。


 計算しない女子なんていない。

 それが詩の持論である。

 けれど、この突発的な衝動は、なんとなく想像がついてしまったし、残念なことに、おおかた察しもついてしまった。

 ……ただ。

「今さらって、そんなのありなの!?」

 数分後、駅まで走りきった詩は、息つく間もなく、そう叫ばずにはいられなかった。

 まったく意識していなかった相手。しょっちゅう目が合うから、絶対に私のことが好きだと高を括っていた相手。だから、彼女になりたいではなく、彼氏にしたいと思っていた相手を――晄汰郎を、まさか今さら、自分のほうが意識してしまうようになるなんて。

「嘘でしょ。え、ちょっと待って。ほんとにフラれてんじゃん、私。これからどうしたらいいっていうの。……ああ、もうっ」

 突如として芽生えてしまったリアルな恋心を盛大に持て余しながら、詩は考える。

 本当にどうしたらいいんだ私は、なぜ今なんだと、くるくる、くるくる、と。

 スカートのポケットにねじ込んだままのお守りが、カサリと鳴る。中から取り出したハニーレモン味の飴を悔し紛れに口に放ると、全然ハニーじゃなくて、余計悔しかった。

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