別棟から二年生の階の廊下に戻ると、他クラスの男女五人グループが窓のそばで声を上げて笑っていた。彼らが見ているのは、なぜか人っ子ひとりいないグラウンドだった。

 金曜日の放課後にすれ違った彼女が属するグループだろう。実際に彼女の姿もその中に認めることができた。全員が垢抜けていて、ちょっとだるそうで、なんとなく上位グループを思わせるような立ち居振る舞い。本人たちにはまったくその気がなくても、鶴の一声的にクラスのみんなが彼らの言葉や行動に従ってしまうような、嫌な言い方かもしれないけれど、そんな雰囲気が感じられる。

「猿渡のやつ、問い詰めたんだけど、なーんにも話してくんねーの。なんなのあいつ」

「えー。でも、そりゃそうでしょ。うちらが偶然見ちゃっただけだもん。根掘り葉掘り聞くのは野暮じゃん? むしろ口の堅い猿渡の男らしさに一票だよ。統ちゃんたちには、そんなとこ、全然ないんだもん」

「コラてめー、杏奈!」

「でも本当のことじゃーん」

 べー、と可愛らしく舌を出して金曜日の彼女の後ろに身を隠す杏奈という名前の子は、すぐさま盾になっている彼女に「ね、くるりもそう思うでしょ?」と同意を求めた。彼女は、やや曖昧に「うん」と言って、ちらりと〝統ちゃん〟とやらに目を向ける。

 波風を立てないように様子伺いをしているように見えたけれど、もしかしたら、くるりはもともと、この話題に興味はないのかもしれない。どこか上の空な彼女は、ほかの四人が揃って目を向けている無人のグラウンドではなく、その少し先の民家だったり遠くの山だったりを見ているような横顔をしている。

「おお、晄汰郎じゃん! 相変わらず、いつも絶妙な坊主頭してんねー!」

 すると、唐突に〝統ちゃん〟が廊下の向こうに声を張り上げた。ちょうど彼らの近くを歩いていた詩も、歩調はそのままに思わず振り返る。……どこに行っていたんだ。

「おー、統吾。お前は相変わらず、いつも絶妙にダサチャラいな。似合ってねーんだよ」

「うっせーなー」

「ははは」

 坊主でゴリラの晄汰郎と、ダサチャラい統ちゃん――統吾という名前らしい男子の異色の組み合わせに、振り返りつつも動かし続けていた詩の足はとうとう止まる。

 まず、一見すると相容れなさそうなのに、意外にも親密な雰囲気さえ漂っていることに驚いた。そして、男子同士の砕けた言葉遣いにも、詩は同様のものを感じた。

 こんなふうに喋るんだ……。晄汰郎のその口調に、なぜか詩の胸はとくんと鳴る。

 その晄汰郎は、ちらりと詩の姿を見て、けれどそこには初めから誰もいなかったかのように、すぐに目を逸らした。そのまま笑いながら統吾たちのグループに近づいていく。

 統吾に絶妙な坊主頭をじょりじょり撫でられると、急にいつもの真顔に戻って、迷惑そうにその手を払う。でも、真顔も迷惑そうな素振りも、本心からのものではないことは、先の砕けた会話が如実に物語っている。

「お前は今年もトップテンとか狙って、じゃんじゃん歩きそうだなー。よくやるよ、105キロも黙々歩いてなにが楽しいんだ?」

「そう言うお前は、今年も適当にだらだら歩いて途中リタイヤしそうだな。今から目に浮かぶぞ、へらへら笑って救護車の先生の車に乗り込むところ。そのうちバレるって」

「ははは。ひでーなー晄汰郎は。たかが、りんご一個じゃん。割に合わないことはしない主義なの。無駄に疲れたくないしね」

「……ほんっとクズだな」

「なんとでも言え、体力バカが」

「うっせ」

 グループ五人のうち、晄汰郎と仲がいいのは、どうやら統吾だけのようだ。ほかの四人は砕けきったふたりの会話を物珍しそうに聞いていて、彼らの近くに足を止めたままの詩も、よく喋る晄汰郎がとても珍しかった。

「もうすぐ授業だな。じゃあな」

「おー」

 少しして、気の早い先生が廊下の向こうから姿を現した。それに気づいた晄汰郎が統吾に向けて軽く手を上げる。統吾もひらひらと緩く手を振り、彼ら五人は連れ立って自分たちの教室に戻っていく。「知り合いなの?」と尋ねる杏奈に「近所の幼馴染」と統吾が答える声が、すっかりひと気の減った廊下に少しだけ響いて詩の耳にも入ってくる。

 そうか、幼馴染か。なら、クラスの誰よりも砕けた会話をしていたのにも頷ける。普段の感じと、その口調のギャップに、まんまとドキドキさせられてしまったわけである。

「で、宮野は盗み聞き? お前も早く教室に戻んないと、マジで授業はじまるぞ」

 すれ違いざま、晄汰郎に声をかけられる。さっきは目が合っても白々しく逸らしたくせに、今度はしっかりと詩と目を合わせて。

「……計算、なの?」

「は?」

「今の、あの男子との」

「だから、なにが。聞こえてただろ、幼馴染との会話に計算なんて必要あんの?」

「いや、私も近くにいたから、なんかギャップっていうの? ……そういうのを感じさせたくて、わざと言ってたのかなって」

 ギャップを印象付けようとして、わざと乱暴な言葉遣いを選んでいたのだとしたら、私よりよっぽど計算高い。ゴリラ坊主のくせにいっちょ前に駆け引きとか、晄汰郎って実は案外、そういう男なのだろうか。

「だったら、なに。だから宮野って顔は可愛いんだけどナイんだわ。そういうふうにしか物事を捉えられないって、どうなの」

 しかし晄汰郎は、嘲りを隠そうともせずにそう言い、いやらしく笑った。そのまますっと詩の脇を通って先に教室に入っていってしまう。その後ろ姿は、普段と変わりないように見えて、しかしとても興醒めしているし、怒ってもいる。詩にはそれがわかる。

 詩のほうが先に空き教室を出たのに、少し立ち止まっていた隙に晄汰郎に先を越されてしまった。自分でもなんてひどいことを言ったんだろうとは思うけれど、そこまでして背中で語らなくてもいいのではないだろうかと詩は思う。こっちは十分、自覚済みなのに。

「おーい、宮野も早く教室に入りなさーい」

「……あ、はい」

 すんと鼻をすすって湿った息を吐き出すと、いつの間にかすぐ後ろまで迫っていた気の早い先生に間延びした口調で促され、仕方なく詩も自分の教室に戻ることにした。よく見ると詩のクラスに授業をしに来た日本史の先生だった。温厚で、生徒を叱るところなんて想像できないような先生だけれど、どうやら、わりとせっかちな性格をしているらしい。

 教室の前と後ろの戸からそれぞれ中に入ると、ちょうど授業開始のチャイムが鳴った。起立して、礼をして、チャイムの余韻が消える前にはもう、温厚だけれどせっかちな先生の「じゃあ、この前の続きからねー」という声で授業がはじまってしまった。

 日本史の授業の準備をする前に晄汰郎に連れ出されたので、詩の机の上は前の授業の教科書とノートがそのままだった。それを急いで日本史のものと入れ替えながら、詩は、なんなのあいつ! と憤りを隠せなかった。

 どうなの、と言われたって、女子は計算をする生き物だ。もともと頭の中に電卓を備えて生まれてくるんだから、今さらどうこうできるわけもない。それを恥ずかしいことだとも思っていないし、悪いことだとも思っていない。だってそういう生き物だ。個人差はあるかもしれないけれど、ならせばだいたいみんな、同じようなものなんじゃないかと思う。

 それを、本命お守りを渡そうとしたからという理由だけで、自分だけを計算高いと言う晄汰郎が、詩はどうしても許せなかった。

 周りの子だってみんなしている。さっきの他クラスのグループの子だって、うちのクラスのあの子もこの子も、顔くらいしか知らない子も、みんな多かれ少なかれ計算しているっていうのに。……なんで私だけなの。

 そんなに私が嫌い? そんなにウザい? みんなの前で教室を連れ出したりして、晄汰郎はいったい、なにがしたかったの。


 詩は先週から、ずっとずっと考えていた。

 なんであんなことを言ったんだろう、どうして今さら晄汰郎を好きになってしまったんだろうと、くるくる、くるくる、と。

 そして自分自身、晄汰郎を彼氏にしたい、ではなく、彼女になりたい、と思いはじめていることに、ひどく驚いていた。

 先輩たちがギンガムチェックとりんごパイに一喜一憂する姿が眩しくて、青春っぽいものがしたいと憧れてはじめた自分をよく見せる努力は、けっして間違っていないはずなのに、なんでこんなに虚しいんだろう。胸が痛いんだろう。涙がこみ上げるんだろう。

 ……現実は、ちっとも私に優しくない。

 ひとつため息をつき、黒板を見るふりをして、晄汰郎の絶妙な坊主頭を見つめた。晄汰郎の席は教卓の真ん前という、絶好なんだか最悪なんだか、今ひとつわからない席だ。

 ……あんたのせいで、こっちは混乱してるんだよ。どうしてくれるの、ゴリラ坊主。

 まるで睨みつけるようにして見つめていると、寝不足なのか、先生のお経のような声に眠気を誘われたのか、しばらくして晄汰郎の首がカクン、と折れた。それを見逃さなかった先生が、すかさず教科書の角で坊主頭をゴンと小突く。その痛みで目が覚めたらしい晄汰郎は、バツが悪そうに頭の後ろに手をやってしきりに先生にヘコヘコ頭を下げる。

「……なんで私はあんなのがいいんだろう」

 一部始終を見ていた詩が、たまらずといったふうにぽつりとこぼした独白は、けれど幸い、先生にも隣の席の男子にも聞こえていないようだった。それまで朗々と教科書を読み上げていた先生は、晄汰郎に向けてわざとらしい咳払いをすると、また戦国武士の階級制度について朗々と教科書を読み上げる。

 それを右から左へ聞き流しながら、ああ、友達になんて報告しよう、と詩は憂鬱極まりない気持ちで思う。先延ばしにしていたけれど、あともうひとつ授業を受ければ、もう昼休みだ。さすがに放課後までは引き伸ばせないだろうし、そこまで引き伸ばしたところで金曜日の出来事をいい感じに捻じ曲げられるとも思えない。それに、さっきの連行も。

 先生と同時に教室に戻ったから尋問されなかったけれど、今頃友人たちは根掘り葉掘り聞きたい衝動に駆られているに違いない。

「どうしたらいいの、はこっちの台詞だっつーの。……どうしたらいいの、本当に」

 だから嫌なんだ。

 蓮高の伝統行事だかなんだか知らないけれど、とんだ迷惑行事の夜行遠足も、ギンガムチェックとりんごパイも、月曜日も、恋とかいう目には見えない不確かなものに振り回される自分も、晄汰郎も、全部、全部。


 それからまたしばらくして、授業が終わった。案の定、十秒としないうちに詩の席の周りに集まってきた友人たちは、つい一時間前のことについて詳細な説明を求めてきて、詩はとうとう自分のプライドをかなぐり捨て、すべてを包み隠さず話す覚悟を決めた。

 といっても、たった十分の休憩時間の間では話し終えられるわけもなく、結局は昼休みの時間を丸々、尋問されることになる。

 けれど話し終わっても、詩の心はすっきりするどころか、ますます混乱してしまった。

 私はいったい、どうしたいんだろう?

 その答えはいまだ出ないまま、午後の授業でもまた晄汰郎の首がカクンと折れる様を眺めては、ため息をこぼすだけだった。

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