■9月22日(金) 白岩くるり 1

 ああ、やっと今日で金曜かぁ。まあ、今週はラッキーだかハッピーだかの〝なんとかマンデー〟で月曜日は休みだったけど。

 気だるげに頬杖をついて退屈な授業をやり過ごしていた白岩しらいわくるりは、空いていた片方の手でくるくると髪の毛先を弄びながら、薄水色の空をふたつに裂いて飛んでいく飛行機雲を眺めて、そんなことを思った。

 米粒みたいに小さな飛行機がまるで家来のように引き連れているのは、白い飛行機雲。六時限目に歴史の授業をぶっ込んでくる金曜日の時間割は、なかなかに殺人的だと思う。

 てか、夜行遠足マジでどうしよ。

 あ、枝毛じゃん、なんて思いながら、約一週間後に迫った夜行遠足のことを考える。

 男子は105キロで、女子はその半分以下の43キロを歩き倒す。けれど、普通に考えて、43キロなんて歩いてなにになるというんだろうと、くるりは思う。あんなにきつい思いをした先に得られるものがあるんだとしたら、それはいったい、なんなんだろう。

 憂鬱だなあ……。

 小さなため息をつき、窓の外の飛行機雲がお尻のほうから散っていく空を眺める。

 去年は初めての夜行遠足だった。

 女子は早朝から一日をかけて道のりを歩くのだけれど、ちょうど半分まで歩いたところで上りきった太陽の熱にてられ、熱中症の症状に見舞われた。幸い症状は軽く、救護車の先生に助けてもらってしばらくすると体調も落ち着き、事なきを得た。けれど、あんなに死にそうな思いをしたのは、後にも先にも蓮高の伝統行事だとかいう夜行遠足が初めてだった。中学の部活もハードと言えばハードだったけれど、これはその比じゃない。

 また今年もきつい思いをしなきゃならないのかと思うと、もともと、ほとんど聞いていなかった歴史の授業がますます遠くなり、ため息の数も重みも増していく。

 ギンガムチェックって。お守りって。りんごって。アップルパイって。そんなもののために一喜一憂したり、わざわざ死にそうな思いまでして、たったひとつしかもらえないりんごを手に入れようとするなんて。

 みんな、本当によくやる。


「くるり、お前、今日ヒマ?」

 退屈だった授業もようやく終わり、だらだらと掃除をし、もう帰るだけだがとりあえず机にコンパクトミラーを立ててメイクを直していると、ちょうどアイラインを引いていたところに穂高ほだか統吾とうごが話しかけてきた。

「あああっ!」

「うぉっ!?」

 くるりの絶叫にも似た声に驚いた統吾が、反射的にカエルが跳ねるように、くるりの机から飛び退く。が、もう遅い。

「なにやってんのよ統吾! アイラインずれちゃったじゃん! もう最悪なんだけど。あんたが机に手を付いたりするからっ」

「げ。マジで?」

「責任を取んなさいよ、責任を」

 くるりは失敗した目元のまま、引きつった笑みを浮かべる統吾をきつく睨み返した。

 とはいえ、統吾が代わりにアイラインを引いてくれるわけでもなければ、まぶたの縁を大きくはみ出し、あらぬ方向に伸びたそれを拭き取ってくれるわけでもないことは、くるりだってよくわかっている。けれど、文句を言ってやらなければ気が済むはずもない。

 ヒマ? と聞かれた手前、どうせもう帰るところだけどね、という心の声は飲み込み、あからさまに不機嫌なため息をこぼした。

「いや、うん……ごめん、マジで」

「なにやってんだよ、統吾ぉ」

「統ちゃん、怒られてやんの。バカじゃん」

 くるりのあまりの剣幕にすっかり委縮し、しゅんとして謝る統吾の後ろから、男女入り混じった野次と笑い声が響く。はみ出したアイラインのおかげで、ぱっと見、目尻が切れ上がったような目元のまま統吾を睨み続けながら、くるりは内心、もっと言ってやれと仲間を焚きつける。これで何度目だと思っているんだ、今度やったら高級アイスだ。

「うっせーよ、バーカ」

 すぐさま応戦した統吾が、たった今までのしおらしい態度を一変させて、くるりの机を離れていく。それと入れ替わるようにして友人の杏奈あんながクスクスと笑いながら「くるり、片目だけ鬼みたいなんだけど」と前の席の椅子を借りて横向きに腰掛ける。そのまま足を組んだ杏奈は、なんでそれしかすることがないのとツッコミたくなるほどワンパターンであるプロレスごっこをはじめた統吾、瑞季みずき雄平ゆうへいの三人を呆れ顔で眺めながら、

「何度も同じことをやって怒られてんのに、なんで学習しないんだろ、統ちゃんは」

 さっそくアイラインの修正に入ったくるりを邪魔しないよう、反対の机に頬杖をついてバカ三人組に目を細めた。

 くるり、統吾、杏奈、瑞季、雄平の五人は、去年から同じクラスで仲がよく、全員が帰宅部なこともあって、放課後は特に意味もなく教室に残って話をすることが多い。話の大半は本当にくだらないことで、バイバイと言って別れた直後にはもう、なにを話していたか思い出せないくらいの軽い話題だ。

 今日もその口である。

 仲よくなったきっかけは確か、席替えでくるりと統吾が隣同士になったことだっただろうか。それ以前からくるりは杏奈とよく一緒にいたけれど、統吾とはあまり話したことがなく、たいてい教室の後ろで瑞季や雄平とうるさくしていたので、席替え当初は貧乏くじを引いてしまったような気分だった。

 それが変わったのは、統吾の持ち前の、誰にでも壁を作らないふてぶてしさの成せるわざだったとしか、言いようがない。

 熱くもならず、冷めもせず、適当に周りに合わせて学校生活を送っていたくるりのテリトリーの中に、ある日、それはもう唐突に土足で上がり込んできたのだ。

『どう? この色。学校に内緒でちょっとだけ染めてみたんだけど、白岩、どう思う?』

 それに思わず『は?』と返してしまったのがいけなかった。反応があったことに気をよくしたらしい統吾は、それから事あるごとにくるりに話しかけ、うざいと突っぱねてもなんのその。いつの間にか杏奈も引きずり込んで自分の仲間に入れてしまい、二年の進級時のクラス替えでも、なぜか五人揃って同じクラスになり、そうして今に至っている。

「どうせ体力が有り余ってるんでしょうよ。だったら運動部に入ればいいのに」

 アイラインを引き直しながら、バカ三人には目もくれず、くるりは言う。中学の頃はなにの部活をしていたかなんていう話は、そういえば聞いたことがなかったけれど、いつもこれだけギャーギャー騒いでいるんだから、今からでも運動部に入れば、体力が削られて少しは大人しくなるかもしれない。

「そう言うくるりは、部活に入ろうとは思わなかったの? 一年半も経っておいて、ほんと今さらって感じなんだけど」

「私、中学はバスケをやってたって言ったでしょう。そのときの練習が、とにかくきつくてさ。土日休みもなかったし、夏休みも冬休みも練習で潰れて、すごくつまんない中学生活だったの。別にエースでもなんでもなかったし、好きは好きだけど、高校でも続ける理由もなくて。だから、必ず部活に入らなきゃいけない学校じゃない蓮高ここにしたんだよね」

「じゃあ、抑圧の反動ってやつだ?」

「まあ、そんなとこ。でも、杏奈が言うほど格好いいものでもないんだけどね」

 ふと思い出したように杏奈に聞かれ、くるりはコンパクトミラーに顔を近づけてアイラインを引きつつ答える。中学の頃までは、たったの一回でさえしたことがなかったメイクも、もう最近では体が覚え、雑談をしながらでもできる。……よし、上出来だ。

「燃え尽きたっていうのも、あるの?」

「そんなたいそうな理由じゃないよ」

 何度かパチパチとまばたきをして全体の出来栄えを確認すると、机に広げていたメイク道具を化粧ポーチに戻す。道具を一式揃えたときは、メイクってなんてお金のかかる身だしなみなんだと度肝を抜かれたけれど、ある程度の投資さえしてしまえば、あとは必要なぶんをその都度買えば一ヵ月にかかる化粧品代もお小遣いの範囲で十分まかなえる。

 放課後に統吾や杏奈と遊ぶお金だって必要だし、好きな漫画も読みたい。服だって流行りのものが着たいし、アクセサリーや小物類も、もっともっと充実させたい。

 中学の頃は部活漬けで、お小遣いのほとんどはバスケ用具や教本に消え、部活と学校の往復だった。部の仲間もそうだったし、それが当たり前のことだと思っていた。

 でも、心の中はいつも腹ペコだった。あれが欲しい、これが欲しい、あれもやりたい、これもやりたい。抑圧の反動とは杏奈もなかなかうまいことを言うなと、くるりは内心、舌を巻いていた。今はそんな汗臭さと抑圧まみれの毎日からすっかり解放され、夢にまで見た憧れの高校生活を満喫できている。

「そうだ、ねえ、統吾。さっきヒマかどうか聞いてたけど、なんだったの?」

 杏奈と色違いでお揃いにしたマスコットがたわわに付いた派手な鞄にポーチを詰め込むと、数分前のことが思い出された。まだプロレスごっこを続けていた統吾たちに顔を向けると、ちょうど雄平に首回りをホールドされて「ぐえっ」と汚い声を出している本人の姿が目に入り、くるりは思わず半眼になる。

「ギブ、ギブ!」

 真っ赤な顔で雄平の腕を叩き、カウントしていた瑞季が雄平の勝利を告げる。やっとまともに息ができるようになった統吾は、首元に手を添えてゲホゲホと咳き込み、まだ若干赤い顔と充血した目でくるりを見ると、

「今日は金曜だし、夜まで歌うべ」

 駅前のカラオケ屋の割引券、兄貴からもらったんだよね。と、くるりの綺麗に直ったアイラインに満足げに目を細め、制服のズボンから紙を五枚、ピラリと取り出した。

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