放課後特有の、なんとなく校舎全体がたわんだような気だるい空気の中、五人連れ立って教室をあとにする。音楽室のほうからは吹奏楽部のチューニングの音が聞こえ、外からは野球部やサッカー部、陸上部などの掛け声に混じって、バットの金属音が聞こえた。耳を澄ませばドリブルやランニングの足音も響いてくるようで、ともすれば、それらによって校舎が揺れるような、そんな気さえする。

 体育館からは遠いので聞こえるはずもないのだけれど、バド部やバレー部や剣道部なども、それぞれに活動の真っ最中の音を響かせているはずだ。なぜか蓮高にはバスケ部がなく、その音がもともと存在しないのが、ほんの少しだけ寂しく思う。けれどそれと引き換えに喉から手が出るほど欲しかった自由な放課後を手に入れられたのだから、今の自分の状況に不満なんて感じるはずもない。

「よくやるよなあ、みんな。もうすぐ夜行遠足だし、きっと運動部の連中は、みんな一位を狙って真面目に頑張るんだろうなあ」

 廊下の窓から見えるグラウンドに目を落としながら歩いていると、隣の統吾が間延びした調子で言った。そちらを向くと、統吾は頭の後ろに手を組んで天井をぼぅっと眺めていて、その横顔は、どこか間抜けだ。

「統吾は頑張んないの?」

 尋ねると、ちらりと視線だけをよこして、

「頑張ったって、どうせりんご一個だし」

 さして興味もなさそうに統吾は言う。

「まあ、割に合わないけどね」

 そう返しながら、そういえば去年は統吾も私と同じ途中リタイヤだったっけ、と思い出す。瑞季、雄平、杏奈ももれなくそうで、仲間内では誰も完歩できなかったんだよなという事実が、一年ぶりによみがえる。

 あとから聞いた話では、四人とも、適当なところで適当な理由をつけてリタイヤしたらしい。元バスケ部で体育会系が体に染みついていたくるりは、地味に完歩を目指していたけれど、四人とくるりとでは、そもそものリタイヤの理由が大きく違ったのだ。

「本命をもらったら頑張っちゃう?」

「え、くるり、くれるの?」

「まさか。最初から完歩を目指してないようなやつに縫うお守りなんてないわ」

「だよなー」

 試しに聞いてみると、統吾からはひどく腑抜けた返事が返ってきた。ほんとにやる気ないんだから、とちょっと腹が立つ。けれど、それと同時に統吾らしいなとも思ってしまうのだから、なんだか不思議な男である。

 相変わらず目線は天井付近のまま。そんなに上ばかり見て転んだりつまずいたりしないのだろうか。なんとなく心配だ。

「くるりは今年、どうすんの? 確か途中でリタイヤしたよな、お前も」

 再び眼球だけを向けて統吾が尋ねてきた。しかし、目が合ったのは、ほんの一瞬。統吾はまたもや天井に目を向け、のらりくらりとリノリウムの廊下を歩き続ける。一秒にも満たなかっただろうそれに、だから天井にいったいなにがあるの、と喉まで出かかり、けれど聞くだけ無駄なような気がしてやめる。

 代わりに、くるりは思う。不思議でもなんでもない。こいつはただの変な男だ、と。

「私は……」

 それはともかく、半眼になりつつも、くるりはあらかじめ用意しておいた台詞を言うために口を開いた。去年のしんどかった経験や統吾たちの様子を踏まえて、今年は無駄に頑張らないことに決めていたのだ。

「あっ! もしかしてあれ、本命渡してるんじゃない? まだ一週間も前だよ? ガチで気合い入ってんねー。まさに青春だぁ~」

「え、マジで? どこ、どこ?」

「ほら、陸上トラックの、あっちのほう。陸部の黒ジャの人が、みんなからちょっと離れてふたり、立ってるでしょ? それ」

「あっちってどっちだよ」

「だからほら、あそこだって!」

「はぁ?」

 しかし前を歩いていた三人が急に騒ぎはじめ、窓にべったりと両手を付いて、ああでもない、こうでもないと言い合いをはじめてしまった。目ざといというか、なんというか。偶然見つけただけなんだろうけれど、向こうは――特に女の子のほうは本気の本気、大真面目にやっているんだから、そっとしておいてあげたほうがいいんじゃないのかな。わざわざ野次馬根性を爆発させてニヤニヤしはじめる杏奈たちに、くるりは若干、引き気味の感情を覚える。別に悪いことじゃないし、ぶっちゃけ私もすごく気にはなるけど。

「マジかよー。誰だ誰だ、渡されてんのは? クソ羨ましいな、このやろぉー」

 するとすぐに統吾も参戦し、くるりの言葉は言いかけのまま行き場をなくした。……なんだろう、ほんの少しの疎外感みたいなものが、一瞬だけ、くるりの胸に影を落とす。

「ほらほら、くるりも見てみなって!」

「ああ、うん」

 男三人の間からぴょこんと体を逸らし、ぴょこぴょこと飛び跳ねながら手招きをする杏奈に、数瞬遅れてくるりも倣う。

 こういうときのこの人たちの異様なまでの目の良さや、一瞬でマックスに到達するテンションは、いったいどこから湧いてくるのだろうか。夜行遠足は蓮高きっての一大イベントなだけあって、この時期になると学校中が異様なテンションに包まれるけれど、この四人のそれはどこか種類が違うようにくるりには思えて、うまく付いていけない。

「あっ! 男のほうって、もしかして同クラの猿渡さわたりじゃね? ちょ、誰かLINEしてみろよ、びっくりすんぞー、猿渡のやつ」

「えー? ここから見てるよって?」

 いたずら小僧のようにニシシと白い歯を見せて笑う統吾の提案に、さすがの杏奈も渋い顔をする。そこまでは悪ノリできないところが、杏奈の可愛いところである。

「よっしゃ。じゃあ、俺が」

「お。やれやれ、瑞季」

 しかし瑞季が制服のポケットからスマホを取り出し、ピコピコと操作しはじめてしまった。瑞季をけしかける統吾と雄平のニヤけきった笑い声が廊下に反響して消える。

「もう。やめてあげなよ~」

 そう言いつつも、杏奈の声も本心から三人を止めようとするものではなかった。さっきまでは可愛かったのに、やはり杏奈も他人よそ様の色恋事情への興味には逆らえないらしい。瑞季の手元とグラウンドの猿渡を何度となく交互に見比べながら、早く早くと急かすように踵をリズミカルに上下させた。

「おっしゃ、送ったぞ。あとは猿渡がスマホを持ってるかどうかなんだけど……」

 やがて送信を終えた瑞季が顔を上げた。瑞季の手元を覗き込んでいた三人も、再びグラウンドのトラック――猿渡に目を向ける。

「お、気づいたんじゃね? ジャージのポケット探ってるぞ。おーい、こっちだ猿渡~」

 窓を開けるまではしないものの、そう言いながら瑞季が猿渡に向かって両手を振る。顔の横まで上げた手が左右に小刻みにピラピラ揺れて、なんだかそのままボックスステップでも踏みそうな勢いだ。そんな中、残りの三人も窓の内側から手を振りはじめた。彼らのニヤけきった横顔は、もう最高潮である。

 一方の猿渡は、ジャージの上着のポケットからスマホを取り出し、内容を確認すると、とたんに辺りにキョロキョロと目を走らせはじめた。どうやら統吾たちがどこにいるかは書かれていないらしい。ここからでもわかるくらい明らかに挙動不審な猿渡は、お守りを渡した女子が不思議そうに首をかしげる中、はっとして慌ててお守りをポケットに突っ込むと、もしかしてと思い当たったのか、顔を上げて視線を真っすぐに校舎に注いだ。

 その瞬間、猿渡の目が大きく見開かれる。

 クラスメイトに見られていた恥ずかしさや気まずさ、実際に渡されたお守りの存在が、急にリアルなものとして自分の中になだれ込んできたのだろう。なんとも形容しがたい微妙な顔でこちらを見上げる猿渡は、もう完全に体の動きが止まってしまっていた。

 猿渡の目線に気づいた例の女子が、恐る恐るといったふうに振り向く。ここの位置からでは彼女の【蓮丘高校陸上部】とプリントされたジャージの背中しか見えなかったので、半分ほどではあるが彼女の顔が拝めた統吾たちからは「ヒュ~」とはやし声が上がった。

 統吾たちの姿を認めて、逃げるように練習に戻っていく女子。いまだにこちらを見上げたまま、微動だにできない様子の猿渡。なおもヒューヒューと囃し立てる声。

 ……なんてバカバカしいんだろう。

 そのときふと、くるりは全身の熱がさーっと冷めていくような感覚を覚えた。

 高校に入ってからは、熱くもならず、冷めもせず、周りに合わせて学校生活を送ってきた。それこそがくるりが望んでいたもので、類は友を呼ぶとでも言うのだろうか、杏奈や統吾たちという、無理して頑張らなくても適当にやればいいじゃん、というスタンスの仲間もできた。そんな自分に満足していた。

 夜行遠足だって、今年はみんなと同じように、適当に理由をつけて途中リタイヤしようとずいぶん前から決めていた。だって、死にそうな思いをして頑張ったって、どうせりんご一個だ。買ったほうが断然早いし、秋になるとりんご農家がはじめる無人販売では、形が不揃いだったり、ちょっと虫食いがあったりして売り物にはできないりんごが一袋六~八個入って、たったの百円で売っている。

 統吾たちと一緒にいるのは、楽だし自分に合っているとも思う。それは本当だ。

 ――でも。

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