北極星
櫻井雪
北極星
「ドラマ決まったんだって? おめでとう」
俊樹さんは良い笑顔でそう言った。
「やっぱり若手の勢いは怖いね、ぼくなんてドラマのオファーとか全然こないよ」
居酒屋の喧騒とした空間の中でも、彼の周りには独特の雰囲気があった。「清廉」という一言で片づけてしまうにはもったいない、少なくとも皆とは違う特別なオーラ。
そんな俊樹さんが眉を下げて笑う姿に、俺は気づかれないように奥歯を噛みしめた。
今日は俺たちが出演する舞台の千秋楽だった。人気漫画を舞台化した、いわゆる2.5次元舞台というもの。四か月近くをかけて全国四都市をめぐり、東京での凱旋公演ではスタンディングオベーションもらうことができた。そして、今は千秋楽後恒例の打ち上げを行っている。
「座長さーん、追加いります?」
声の方向を見ると、店員を呼んだ先輩の姿があった。ジョッキにはまだまだお酒が残っているから「大丈夫でーす」と返事をすると、彼は「了解しました」と言った。
今回の舞台で、俺は座長を務めた。座長とはいわば舞台でのリーダー、先導者にあたる。舞台の主役が務める役職だから、それを多く経験できることは、俺たち役者にとってステータスにもなる。俺は一年ほど前に出演した舞台から人気が出て、それから何度か座長を務めた。今ではありがたいことに「若手俳優ナンバーワン」といわれるまでになっている。
俺は横に座る俊樹さんを見た。この人は、演技力も容姿も雰囲気も上の上だ。俺なんか及ばないくらいのステータスを持っている。でも、なぜだかテレビに出ようとはしない(彼が言うには、そもそものお呼びがかからないらしいが、俺は嘘だと思っている)。
若手俳優のアイドル売り路線は、長く見るとあまり良いものとはいえない。だから、俺は俊樹さんにテレビ路線でも頑張ってほしいのだ。
この人の魅力をもっといろんな人に知ってほしいと思う。舞台だけでなくて、ドラマや映画にも出て有名になってほしいと思う。十歳近く離れている大先輩をこんな風に思うだなんて、とても失礼なことだけれど、昔から大好きだった俊樹さんだからこそ、もっと活躍の場を広げてほしかった。
「ぼくね、きみの演技が好きだったんだ。だから、一緒の舞台に出られて凄く嬉しかった。本当にありがとう!」
酔った俊樹さんは僕の手を無理やりとってそう言った。
彼の頬は赤く色づいていて、呂律もなんだか怪しい。普段しないような言動からも、彼が相当アルコールに侵されていることがうかがえた。
「......俊樹さん、かなり酔ってますね」
「え? 全然酔ってないよ」
「そういうのは本人には分からないものなんですよ」
お決まりのようなやり取りをして、俺はジョッキをあおいだ。大勢の人がいるから、ここは熱気がこもっている。そんな中で飲む冷えたビールは最高に美味しかった。
「はあ......うま」
そんなことを呟くと、隣に座る彼は酔っ払い特有の距離感で、スキンシップを図ってくる。
「いやあ、幸人くんもこんなに大きくなっちゃってさ。ぼくも感慨深いよ」
もう二十歳を超えているというのに、俺は俊樹さんに頭を撫でられていた。先輩だから振り払うことはできないが、さすがに恥ずかしい。
「やめてくださいよ、俺はもう二十一なんですから」
「全然子どもだよー。ぼく、あと一か月で三十だし。そろそろこの仕事もきつくなってきたかな」
冗談のように吐かれたその言葉は、俺の心を鋭い槍で貫いた。
そう、彼の誕生日は来月。彼は三十歳になる。
俺は我慢できず、余計なことだと理解しながらも、口を開いてしまった。
「俊樹さん、ドラマとかには出ようと思わないんですか?」
「ドラマ? なんで?」
「いや、あの......俊樹さんと一緒に共演できたらなって思いまして」
口から出まかせ。
適当な理由をでっちあげてそう言うと、彼はジョッキについた水滴をいじりながら答えた。
「そうさなあ......出たくないこともないけど、そもそもオファーがこないしね」
「それって、本当なんですか?」
「本当だよ。ぼく、映像映えしないみたいだから」
「......俊樹さんが映像映えしないなら、誰が映えるんですか」
小さく呟くように言うと、「それこそ、幸人くんでしょ」と笑われた。
気恥ずかしさを隠すようにして唐揚げを口に入れると、安っぽい味が広がる。美味しいとも、まずいとも言えない微妙な味だ。打ち上げに大衆居酒屋を使うのはどうかと思う。
酔って大騒ぎしているアンサンブルの人たちを見ながら、俺は俊樹さんのことを思った。……この先、彼が演劇の世界を去ってしまったらどうしよう。俺は俊樹さんの舞台を観てこの世界に入った。彼のような役者になりたくて、あのオーディションを受けにいったのだ。
俺はどうやら余程深刻な顔をしてしまっていたらしく、俊樹さんは俺の顔を覗きこみながら「どうしたの?」と言った。
「もしかして、ぼくのこと心配してくれてる?」
正に図星で、俺は一瞬動きを止める。すると、彼は軽く笑った。
「ぼくは別に大丈夫だよ、テレビよりも舞台が好きだから。今、こうやって舞台に出させてもらってることが凄く幸せなんだ」
「......俊樹さんは、舞台が好きだから、舞台に出るんですか?」
「そうだよ。それ以外に理由なんてない」
彼ははっきりと言い切った。酒気を帯びてはいるけれど、その言葉はしっかりと芯が通っている。普段の俺ならこの言葉を聞いて納得しただろう。けれど、この時は酒が入っていたこともあって、俺は彼に向かって許されないほどに失礼なことを言ってしまった。
「でも、俊樹さんが出る舞台って......新人ばっかりのレベルが低い舞台ばかりじゃないですか。今後舞台一本でやっていくとしても、三十手前でそんな舞台を選ん――」
「それ以上言ったら怒るよ」
俊樹さんはそう言いながらも、既に怒気をはらませていた。俺はすぐに自分のやってしまったことの重大さを認識し、顔を真っ青にする。ギラギラと目を光らせながらこちらを見つめる彼の姿は、普段温厚な彼の姿からは到底想像できないものだった。
俊樹さんは、心を落ち着かせるように息を吐いて、それから、ゆっくりと口を開いた。
「ぼくは、オファーをいただいた舞台はできる限り出演するようにしている。それが、役者の務めだと思っているから。幸人くんは、ぼくなんかと比べものにならないくらい沢山オファーを受けるでしょう? きみにとって、そのほとんどが『レベルの低い舞台』かもしれない。だけど、先方はぼくたちを求めてくれているんだ。きみは、役者として言ってはいけないことを言ったんだよ」
諭すように俊樹さんは言った。長いまつげの奥に真剣な瞳が見える。
「舞台俳優一本で生きていくのは、たしかに難しいかもしれない。でも、ぼくは舞台が好きだから。絶対に後悔しないよ」
「......出過ぎたことを言いました。本当にすみません」
俺がそう言うと、俊樹さんは「分かったならよろしい」と溜息を吐いた。
周りの人たちは、ここで起こったことを知らずに大騒ぎをしている。みんな同じ空間にいるはずなのに、ここだけ流れている空気が冷たいような気がした。その空気を作ってしまったのは自分なのに、どうしようもなく辛い。
憧れの大先輩、俊樹さんに俺はとんでもないことを言ってしまった。あんなこと言うはずじゃなかった。ただ、俺は俊樹さんが――
「幸人くん、もしかして無理してるんじゃない?」
すぐ隣で聞こえた声に、俺は体を揺らした。突然のことに頭がついていかなかった。「どういうことですか?」と震えそうになる声をどうにか支えてそう問うと、幸人さんは一杯だけ酒を飲む。そして、こう言った。
「きみは最近、急にブレイクしたよね。まだ若いのに短い期間で座長を何度も経験して、先輩たちと一緒にドラマまでやることになって......すごく大変でしょう? この後だってナレーションの仕事が入ってるんだよね」
「いや、俺は別に......」
「きみが役者の道を軽く見てないことは知ってるよ。重く見てるからこそ、さっきみたいなことを言ったんだよね。でも、きみは重く見すぎだ。もしぼくが役者として売れなくても、多分死ぬことはない。役者として大成しようと思わない方が、結果として上手くいくこともあるんだよ。一人で抱え込むんじゃなくて、周りに相談しなさい」
「まだ若いんだから」と微笑んだ俊樹さんに、自分の涙腺が緩むのを感じた。
昔の俺は、ただひたすらに彼を追いかけていた。
彼のような役者になりたい。人を魅了することのできる役者になりたい。大きな舞台で一緒に並べるような役者になりたい。その一心だった。
当時付き合っていた彼女に無理やり連れていかれた舞台で、俺は星のように輝いている人を見つけた。彼は決して、太陽のように和を乱す自己主張をしない。あくまで自分の役に徹しながらも、綺麗に輝いていた。
『菅井俊樹』という役者を知った俺は、すぐさま舞台のオーディションを受けにいった。合格をもらったその舞台に俊樹さんはいなかったけれど、それでも良かった。いつか若手俳優の中でナンバーワンになって、それから彼に会いたいと思ったからだ。
初めて出た舞台で、俺は異常なほどの人気を得た。舞台終了後には多くのオファーが入り、日々は目まぐるしく展開していった。
「『菅井俊樹』のような役者になりたい」純粋だったはずのその想いは、いつの間にか強迫観念となって俺を追い詰めていたのだ。
「ぼくじゃ不甲斐ないかもしれないけどさ、相談ならいつでも聞けるから」
そう笑った彼の笑顔は、やっぱり誰よりも綺麗で、輝いている。この人が、俺の現在地を教えてくれる星なんだ。
「......ありがとうございます」
「いいのよ、きみはぼくの後輩なんだから」
ポン、と叩かれた肩に、俺はまた泣きそうになってしまった。
北極星 櫻井雪 @sakuraiyuki
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