第10話 掌
――――― ―――――
―――待って・・・。
はっきりと聴こえた。いつもジフォルゼを呼ぶ声だ。はっきりと聴こえたのに―――また何を呼ばれたのか、どう応えたら良いのかが解からない。でもとても近くから呼びかけられた気がする・・・・・・ジフォルゼは微睡ながら、もう一度目を閉じた。
ここは、どこだ?
ジフォルゼは覚醒した。急に飛び起きて、電光石火のように襲い掛かった眩暈に頭を押さえる。瞼を懸命に上げ、室内を見渡した。ジフォルゼは今、布団の上に居る。弾力のある敷布団と柔らかい掛布団。板張りの床と壁と天井。壁に張り付いた濃い色の扉。他には窓も家具も何も無かった。暗く生活感の全くない部屋だ。
記憶は残っている。ジフォルゼはハーヘンテイジの崖の上で、盗賊団と対峙したのだ。彼らの多くを打ち倒し―――ノボロと戦い―――ジフォルゼは声を上げて呻いた―――ハーヘンテイジから火が上がったのだ。
護れなかった。結局ジフォルゼは、ハーヘンテイジを護れなかった。1人で対処できる、と傲慢にも高を括った結果がこれだ。
住人たちは無事皆逃げられただろうか。時刻は夕暮れ時。突然空から落ちて来る炎に、どうやって対処できるだろうか。ユンチャは―――サクタとプルピアは―――。胸が刺されたように痛み、ジフォルゼは身体を丸めた。どうか、どうか無事で。吹いたら飛んでしまいそうな願いを、心の中で繰り返す。
―――それから。ジフォルゼは目を開ける。それから、何があった―――・・・?ジフォルゼはノボロと対峙し―――ハーヘンテイジから火が上がり―――それから。それ、から――――――。
そしてジフォルゼは、自分の身に現れた最大の異変に気が付いた。
「え……?」
曲げた膝の上に何か落ちている。髪だ。ウェーブのかかった・・・・・・見慣れた髪だ。だが色が違う。金髪でも、桃色でもない。
赤茶色だ。
「――――――。」
この色は、見た事がある。
「――――――。」
猫だ。猫の毛色がこの色だった。――――――、それに、あの、狼も。
「――――――。」
左手の指に何か絡みついている。―――そうだ、あの時。狼に首を噛まれる瞬間、ジフォルゼは足掻いた。足掻いて、指の先で狼の首を引っ搔いた。その時に指に絡まったソレを、引きちぎったのだ。
首飾りを。
「――――――。」
どうして、そこに佇む存在に、今まで気付かなかったのだろう。
その存在は、ジフォルゼが目覚めた時から、部屋の隅に居た。最も濃い影が落ちる場所に。ジフォルゼと視線が合ってようやく、気配を発する。
赤茶色ではない。影よりも深い漆黒の両眼が、ジフォルゼを見据える。
「目が覚めたか。」
猫は言葉を言う。低く深い男の声だ。
―――否、猫ではない。
その存在は、世界のあらゆる生き物に肉体を変化できるのだという。
その存在の瞳と体毛の色は、漆黒。
漆黒を持って創られた存在を、ジフォルゼは1つしか知らない。
それは光を司る神と対を成す存在。魔界を統べる影の王。
魔王 ヴィゼアス。
「――――――。」
身体が動かない。呼吸すら、うまくできない。視線は漆黒の両眼に縫い付けられたまま、他へ移すのは許されない。脳を圧迫するように膨張した思考は、同じ単語ばかりを繰り返している。
嘘だ。なんで、いきなり。
漆黒の目は静かに瞬く。
「お前は、天界司西王師将軍 ジフォルゼ=ランザートだな。」
名を呼ばれた瞬間、ジフォルゼは己の存在を思い出した。音を上げて息を吸い、熱い血液が身体を駆け巡る。汗がどっと噴き出した。震え出しそうになる身体を必死に押さえた。
駄目だ。パニックになるな。
「うん?」
王は首を傾け催促する。ジフォルゼは息を吸った。鼻から吸い、腹を膨らませて、口から出す。起き上がったままの姿勢から、膝を下ろして足を腰の下に置き、正座をする。乾いた唇を湿らせる。
「―――、はい。」
言葉が出た。か細く消え入りそうだったが、確かに言葉を返せた。魔王とジフォルゼの間に会談の場が成立する。
「そうか。」
王は満足そうに頷いた。
硬直から解放され散り散りに逃げ回る思考の手綱を握り締めながら、ジフォルゼは魔王の発言の違和感に気付いた。
どうして魔王は、ジフォルゼの存在を知っているんだ?
神が屠られ、魔界との交信が断たれたのが20年前。ジフォルゼが生まれたのは19年前だ。更にジフォルゼが将軍に選ばれたのは、たった3か月前の事。沈黙した魔界が、知る筈が無い最新情報だ。
天界の情報が、魔界に漏れているのか?
「なんで―――。」
思った疑問が口から零れてしまった。唇を引き締めたが既に遅い。疑問は魔王に届いてしまった。
「何故私が、お前が魔界に降りた事に気付いたのか、疑問に思っているのか?」
だが疑問は別の意味に解釈される。都合が良い。ジフォルゼは頷く。
「はい。」
「私は魔界の王であり、世界が創造した仔だ。魔界に天界からの「門」が開けば、察知するのは造作もない。」
世界は頂として王を創造した。その肉体には世界の意志が宿っており、世界の全てを掌握していると云う。太師は「門」を開くのに最大の注意を払っていたが、世界そのものである魔王の目は誤魔化せなかったのか。―――ハーヘンテイジで初めて「猫」に会ったのは、魔界に到着した翌日だった。
ジフォルゼは魔王の掌の上に立たされていたのか。
「だが」
魔王は問う。
「お前に魔力は感じない。誰か別の者が「門」を開いたのだな。」
「―――。」
「誰に力を借りた?」
尋問が始まった。
ジフォルゼの目的は言うまでもなく、神を手にかけた目の前の魔王の動向を調査する事だ。馬鹿正直に言える訳がない。―――どうする。どうすれば良い?何とかこの場を切り抜けなければならない。これ以上失敗したら、殺されてしまうかもしれない。拘束されるなど、あってはならなかったのだ。既に事が起こってしまったのなら、次の行動を取らなければならない。だが、ジフォルゼは奴の掌の上にいる。
どうしよう・・・どうすれば・・・!?
「天西将?」
「―――。」
―――。
―――、そうだ。わたし、将軍なんだ。
魔王に堕とされた天界を救う為に、ここまで来た。世界を超えてきた。天界の命運が懸かってる。
絶対に、死ねない!
将軍としてジフォルゼは何を見てきただろう?飢えた大地と枯れた空気。食べ物を求め彷徨い、戦いに身を投じるしかなかった民。彼らは嘆いていた。何故このような目に遭うのかと世界を呪っていた。それを見たから、ジフォルゼは覚悟したのではないか。この身をどんな危険に晒してでも、天界を救うのだと。
考えろ。どんな手を使ってでも、生き延びる方法を。
生きて―――生きて、必ず。
皆の所に帰るんだ。
「……天界の民が。」
帰るんだ。
「魔界に何の通達もなく降りて来た事を、お咎めになりますか?」
漆黒の目がスイと動く。
「いや。」
ジフォルゼは息を吸った。固まった手を胸に押し当てる。
「ああ、良かった!」
猫の瞼が動いたのが見えた。漆黒に興味の色が宿る。
「胎皇の仰る通り、わたしは協力を得ながら魔界に降りて参りました。しかし誰かとは申し上げられません。その方が咎めを受けてしまうかもしれないのです。」
「咎められる?」
「わたしは、独断で魔界へ降りて来たのです。」
猫の尾が揺れる。
「ほう?」
「はい。天界の土地は荒れていて―――」原因が目の前に居た。失敗した。頭を振りたい、言い直したい、声を上ずらせたい衝動を必死に堪えて続ける。「魔界の土地を調べれば、改善する方法が見つかるかもしれないと思ったのです。無論、直接的な解決の糸口にはならないかもしれませんが」その原因も目の前に居る。「自然の本来あるべき自然の姿を知る事こそが、まず何よりも大事ではないかと思ったのです。」
「それを独断で?」
「はい。そうです。」
「何故独断なのだ?」
「提案するのも如何かと思いました。」
「何故だろう。素晴らしい提案だ。」
「わたしは将軍として新参者にございます。会議の場をいたずらに乱すのも憚られたのです。」
「新参者とて将軍だ。将軍には天界使徒の意志が宿るのではないのか?」
「―――。」
「うん?」
「―――。胎皇。わたしは恐れ多くも、貴方様へ虚偽を申し上げました。」
「ほう。」
「本当は、自然調査に参ったのではありません。―――、貴方様に拝謁を賜りたく、参ったのです。」
ジフォルゼは、言った。
「聖都エンディホノムに広がる貴方様への疑惑を晴らす為に参ったのです。」
漆黒の目が反射する光が動いたのが見えた。
神の死後魔界との交信は途絶えた筈だった。だが魔王は天界司西王師将軍ジフォルゼ=ランザートの存在を知っている。なら天界の状況や聖都エンディホノムの情勢も知っている、と考えて間違いないだろう。どうやって天界の情報を知り得たのか、考えるのかは後回しだ。どんな手をつかってでもこの瞬間を生き延びて、次に繋げるのだ。
王にそのような疑惑がある、と直接伝えるのは無礼極まりない失言だろう。だがこの前提を無視して事を進めるのは不可能だ。
首筋を汗が流れる感覚がある。まだ、繋がっている。
「胎皇。胎皇が懸念を抱いておられるのは、その点ではないのでしょうか。―――あらぬ疑惑がエンディホノムに萬栄していると。」
「…。」
「しかしわたしは、そのような事実は無かったと信じております。」
「…。」
20年前。神は突然崩御した。同時に突然魔界は沈黙した。2つの「突然」が、偶然重なる事は有り得ない。
「わたしは、その確信を得るために魔界に参ったのです。」
魔王は神の崩御に確実に関わっているのだ。
猫の顎が動く。
「そうか。」
猫の頭が少し後ろに下がる。話を聞き入れた雰囲気を感じたので、ジフォルゼは頭の中で必死に組み立てた言い訳を出さずに留めた。納得したのか?我ながら、吹けば飛ぶようなその場しのぎの言い訳だと思うが……。
「お前の言い分は理解した。だが、天西将。お前はここに留まらなければならん。」
「…ここ、とは・・・?」
「ノルトシカだ。」
魔界聖都 ノルトシカ―――!?
自分はどこに居るのだろう、と頭の片隅で考えていた。可能性を全く考えなかった訳ではない。―――ではジフォルゼは、完全に敵の手中に落ちたという事か。
「お前は仮にも魔界の民へ刃を向けた。その意味を理解しているな?」
たとえ独断だという姿勢を通そうとしても、ジフォルゼが将軍の地位にあるのは変わらない。魔界の民へ刃を向ければ、魔界へ刃を向けたのと同義と捉えられても否めない。
「―――はい。」
「暫くこの小屋がお前の寝床となる。外へは出歩くな。良いな?」
「―――はい。」
猫の尾がゆっくり揺れた。
「手の中の物を返してもらおうか。」
手の中。ジフォルゼは完全にその存在を忘れていた。指に絡まるネックレスを見下ろして、ゆっくりと魔王に差し出す。猫が腰を上げた。静かな動きで歩み寄ると、小さな頭をジフォルゼの手に近づける。前を向いた髭が指先に揺れた瞬間、僅かに挙動してしまった。反応を見逃したのか、猫はネックレスの鎖を咥えて首を引いた。漆黒の体毛が赤茶に染まり、赤茶の髪が黄金に戻る。
赤茶毛の猫はジフォルゼを見据えた。
「魔界へようこそ。ジフォルゼ=ランザート。」
小さな身を翻し、扉のノブを飛びついて回して猫は部屋から出て行った。パタン。部屋にはジフォルゼだけが残された。
捕まった。
ジフォルゼは立て続けに咳き込んだ。緊張感と恐怖が一気に解放されて首を絞めた。手探りに掴むものを探してかけ布団にしがみ付いた。息がうまくできない。解放された震えが全身を包み込んだ。
この場は切り抜けられたらしい。だがこれからどうすれば良いんだ。魔王に見つかり拘束された。最悪の事態になってしまったのだ。
天界に連絡を―――!ジフォルゼはハッと顔を上げ、辺りを見回した。
無い。リュックが無い。
すぐさま自分の身を見下ろした。盗賊団と戦った服装はそのまま―――服などどうでもいい!一番必要なもの―――ジフォルゼは、帯飾りのうさぎを思い切り握り締めた。
剣は出てこなかった。
「――――――。」
天界へ連絡は取れない。武器も無い。
ジフォルゼの身を護るものが、何も無い。
どう、しよう・・・・・・
心がガラガラと音を立てて崩れていくようだった。己の身を掻き抱く。生き延びて、次はできた。でも、取る手が何も無い。考えなくちゃ―――怖い―――考えるんだ―――怖い、怖い……!!ジフォルゼの小さな心は圧し潰されようとしていた。
キィ
ノブが回った。ジフォルゼは反射的に顔を上げた。
ノブが回る。扉が、引かれる。―――ジフォルゼは扉の下を見えていた。あの猫が、そこから姿を現すと思ったから。
床を蹴るヒトの足が見えた。小さな足だった。
ジフォルゼは更に顔を上げ、両目を見開いた。
「ジフォルゼちゃん!」
彼は叫んだ。明るい茶髪―――尖り耳と、眼鏡の奥の深緑の瞳。少年は部屋の中に飛び込み、ジフォルゼへ駆け寄った。
「―――エネルトラ、君・・・?」
エネルトラだった。姿を現したのは、間違いなくハーヘンテイジの入り口で別れた、エネルトラだった。
エネルトラは顔を真っ青にしながら、ジフォルゼの前で膝をついた。じっとこちらを見上げる。
「ジフォルゼちゃん。大丈夫?ケガは無い?―――あ、首に痕がついてる・・・・・・。何があったの?」
エネルトラはジフォルゼの首を覗き込む。近づいた彼を、思い切り抱き締めた。甲高い悲鳴が上がる。
「……エネルトラ君、何で、ここに・・・・・・?」
もう堪えられない。ブルブルと声を震わせながら、ジフォルゼは問う。硬直した彼を少し離し、顔を真正面に見つめながら、聞いた。
「まさか、連れてこられたんですか……!?」
少年の瞼が押し上げられる。瞳孔が縮まるのが見えた。驚愕に小さく開いた口からは言葉が出てこない。
「―――ごめんなさい・・・!」
ジフォルゼはもう一度、力任せにエネルトラを抱き締めた。また悲鳴が上がった。
エネルトラが連れてこられた―――なら、原因はジフォルゼにあるのだ。ジフォルゼに関わってしまったから、魔王に捕まってノルトシカに連行されてしまったのだ。
「……、ジフォルゼちゃん、オレは…平気だよ…。ジフォルゼちゃんの方が怖がってるみたいだ・・・。」
「わたしが、護ります。」
「…。」
「わたしが、エネルトラ君を護ります。必ず下界に帰します。」
ジフォルゼは震えながら言った。残された精神力を全て使い、誓った。
「だから、わたしに貴方を護らせて・・・!!」
崩れかけた心の揺れが収まる。両腕から伝わってくる少年の体温が、冷えた体を温める。それは間違いなく生きたヒトの感触だった。
この子は生きてる・・・。まだ、護れるんだ。
決意の火が心に灯る。魔王と対峙を経て、ジフォルゼの「次」は繋がった。手に入れたこの「次」で、己の過ちに巻き込まれた少年をあるべき場所に帰さなければならない。
もう、ハーヘンテイジの二の舞にならないように。今度こそ、護り通す。
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