第8話 猫

「むん!」


 銀色のスコップを地面に斜めに突き立てる。足で踏んで更に土の奥深くに埋め、柄の持ち方を変え、体重をかけて、地面に向かって押す。するとてこの原理よろしく埋まっていたスコップの先が、地中にあった土と一緒に芋を地上に押し上げた。双子が大喜びで芋の数を数えだす。ジフォルゼは満足げに口角を上げた直後、スコップで真っ二つにしていた芋を見せられて畑に突っ伏する羽目になる。


 収穫を終えた後には褒美があった。ユンチャが用意した大窯でジャガイモを蒸かし、塩をつけて戴くのだ。もちろん塩はハーヘンテイジの海で取れたものだった。それはそれは美味だった。ホクホクという食感と芋の味が口内に広がれば、収穫の疲れなど吹き飛んでしまう。塩をたくさんつけようとする双子を制しながら、ジフォルゼも3つも食べてしまった。


 お腹が満たされたら、毎日恒例の双子との遊びだ。初日こそ双子のパワーに翻弄されたが、今となっては更に翻弄されていた。

 双子はそれでも初日は遠慮していたらしかった。完全に遠慮を無くした双子は全力でジフォルゼへ襲い掛かり、地面に押し倒し肩を捥がんばかりに引っ張り回し、力尽きるまで良いおもちゃにした。


 遊び回り、残った体力で食事とお風呂を済まし、ベッドに入る。明日も頑張って畑仕事しなくちゃ…。気持ちも新たに、ジフォルゼは毛布に蹲った。


 …。


 何か間違ってる。


 ジフォルゼはガバリと起き上がった。


 ハーヘンテイジに到着して、もう5日が経とうとしていた。この頃になると、ジフォルゼは畑仕事も手伝うようになっていた。ユンチャの屋敷の近くに畑があり、料理に使われる野菜のほとんどがそこから収穫されたものだった。

 だがジフォルゼの目的な畑を耕す事ではないのだ。

 暫し考えた後、ローブを纏って部屋から出た。朝が早いユンチャの屋敷は、寝静まるのも早い。なるべく音を立てないように廊下を渡り、外に出た。

 暖かな季節だが夜の風は冷える。玄関を出て扉を閉めてから、ジフォルゼは息を吐いた。


 もう5日が経とうとしている……天界からの指示は無い。


 ジフォルゼにどのような指示を出すか、協議している最中かもしれない。こちらも進展が無い以上やたらと連絡をするのは控えた方が良いだろうと考え、手帳を開くのを堪えていた。…そう、進展が無いのだ。

 ジフォルゼはこうして時間ができると、できる限りハーヘンテイジについて調べた。ハーヘンテイジが村になったのは今から60年前だったという。当時この地に流れ着いた4人の者たちがマコキュア国の許可を得て、自分たちで土地を開拓して村とした。その4人の内の1人の子どもが村長のゲインだという。

 ハーヘンテイジに住んでいる住民の数は67名。ユンチャの屋敷のような集合住宅が他に3棟あり、そこで多くの世帯が共同生活を送っている。その内核家族が7組。単身者がほとんどだ。

 住人たちは野菜や海で釣れる魚や塩を近くの町に売って、肉や服を得ていたようだ。決して贅沢ができる暮らしではないのだろう。それでも日々働いて働いて、この村での生活を送っている。

 分かったのは、ハーヘンテイジが如何に成り立っているか、くらいだった。

「…。」

 ジフォルゼは溜息を吐いた。


 こんな事をしていて、良いのだろうか。


 太師の言う通り、ハーヘンテイジの空気には慣れてきた。けれど、こうしている間にも天界では新しい争いが起こっているかもしれない。悠長に構えている場合ではない筈だ。

 そろそろ行動範囲を広げてみても良いだろう。5日かけて調べたのはハーヘンテイジの村の中のみ。まだ森や海まで調べていないのだ。そこにもしかしたら、事態を進める手掛かりがある―――かもしれない。

 …返す返すもここは魔界でも、下界だ。ここに魔王に関する手掛かりがあるとは…。…。

 いいや!ジフォルゼは顎を引いた。何もしないよりはマシだ。日の出までまだ時間がある。それまで、行動を続けるのみだ。


 カラカラ カラカラ

 門の飾りがまた鳴っている。中央に棒状の木の板を6本並べてつり下げ、その左右に幅の違う染布を4本ずつ下げているという簡素なものだった。村長ゲインの親が施したもので、カラカラという音を嫌う魔物を祓うまじないなのだという。

 ユンチャの家の住人の1人は、その音を嫌う。彼は畑仕事を手伝うが、ハーヘンテイジの風が強く吹き、門飾りがカラカラという音だけでなくキーキーと鳴り始めると、ぎゅっと目を瞑って身体を硬直させてしまう。そうなってしまった彼をユンチャが屋敷に連れ戻す姿を何度か見た。

「…。」

 まず、海に向かってみよう。

 聞く所によると、ハーヘンテイジは海に隣接しているが岩礁が多く潮の流れが速い為、漁船は持っていないという。海水浴は勿論禁止だし釣り目的でも近づくのはお勧めしない、と言われていた。何故海には魔除けが無いのだと、真剣な顔でぼやいた住人も居た。

「…。」

 魔物と云えば、海よりこの村を囲む崖ではないだろうか、とジフォルゼは見上げながら思う。上半身を反らさなければ見上げきれない崖の威圧感は昼にもあるが、夜になると更に増す。影によってその全容が包まれてしまう為に想像力を刺激され、巨大蛇が横たわっているようにも見える。しかも左右に1匹ずつなのだ。ヒトによってはよっぽど恐ろしいのではないだろうか。

 …もし、奇襲をかけるなら―――こんなに簡単に制圧できる村も無い。

「―――何考えているんだ。わたしは。」

 ジフォルゼは額に手を当てて、頭を振った。何を考えているんだ。そんな不吉な事を。

 ―――。


 叱咤されるべきは、どの思考についてだ?


 ハァ…。

 溜息を吐く。もう一度、頭を振るう。

「―――。」

 ジフォルゼは不意に振り向いた。

 猫が居た。

 あの猫だ。ハーヘンテイジにやって来た初日に見かけた、赤茶毛の猫。夜なのでやや色が判別しにくいが、顔が同じなので間違いない。

 猫は、またピタリと止まっていた。ジフォルゼと目が合って、驚いたように。やがて前足を揃えて、腰を落とす。尾をシュッと振った。

「…あの。」

 話しかけていた。胸の中に渦巻いていた不穏は、猫と視線が合った途端に霧散していた。

「この間もお会いしましたね。」

 3秒ほど間を開けて、猫は尾を振った。また10秒ほどそのままで居ると、腰を上げてこちらに歩いてくる。ジフォルゼは屈む。50cm程開けて、猫が立ち止まる。ジフォルゼの顔をじっと見つめたまま。ジフォルゼは右手を伸ばした。猫は右手に視線を移し、髭を前方に向けた。一歩、二歩と近づくと、首を伸ばし鼻を指先に近づけた。匂いを嗅いでいる。猫はオシャレに首飾りをつけている。

 触れてみたい。ほぼ衝動的に猫の顎に触れようとした。

 猫が首を引っ込めた。

「あ…。」

 ただ猫は逃げる訳でもなく、間は開けたままだがまだそこに居る。

「ごめんなさい。びっくりさせてしまいましたね。」

 猫は少しして尾を振った。

「ここに住んでらっしゃるんですか?」

 猫はじっとこちらを見つめている。どうやら肯定ではないらしい。

「あの森で?」

 また見つめるのみ。肯定ではないようだ。

「名前は何て言うんですか?」

 猫はじっとこちらを見つめるだけだった。

 やがて尾を振った。

「ニャア。」

 と、言った。

 不思議な猫だ。ニャアと鳴いたのではない。「ニャア」と言ったのだ。

 堕玉胤の持つ言語能力は魔界の民に通じているので、この猫にも通じている筈なのだが―――そこに至って、ジフォルゼは自らの失態に気付かされた。

 普通の人間が猫とお喋りできる訳がない!

「わっ!わっ!今のは聞かなかった事で…わっ!」

 ジフォルゼは口を押えた。この言語能力は自分で制御できるものではない。ジフォルゼの意思を無視して先方に言葉の意味は通じるし、その逆でどんな言葉もジフォルゼは理解できてしまうのだ。

 つまり時はすでに遅し。何をどう取り繕っても、ジフォルゼは猫と会話ができる人間なのだった。―――否、1つだけ言い訳ができる。

「あの、わたし魔法で猫語が話せるのですよ。」

 これだ。会心の一撃をジフォルゼは力強く言い切った。

 猫は、じっとジフォルゼを見ていた。

 じっと。

 じっと。

 じっと。

「――――――フッ。」

 鼻で笑われた。

 今のは確実に、嘲る意味で笑われた。ジフォルゼは頭を抱えてしまった。

 以降猫は黙ってジフォルゼを見つめているだけだった。お喋りはしてみたいが、する訳にもいかない…。触りたいが、避けられてしまう…。そうである以上、ジフォルゼは自分の調査を優先させるべきだろう。後ろ髪を引っ張られる思いで立ち上がり、背を向けた。

「では、また。」

 短く挨拶をして、海に向かって歩き出した。

 振り向いた。

 猫がついて来ていた。

「…?」

 気の所為かと思って、10m程歩いてからもう一度振り向いてみた。居た。

「…ついてくるんですか?」

 猫は黙って尾を振るう。

「海を見に行くので、危ないですよ?」

 尾を振るう。

 ジフォルゼは首を傾げながら、少し愉快に思った。1人で行動するより、誰かと一緒に居た方が心細く無い。

 暫く歩くと足元の地面は、土からゴツゴツとした岩場に変わっていった。大小さまざまな岩が転がっていて、人が歩いて行けるような道は無い。ジフォルゼは多少夜目が利くので、ゆっくりと確認しながら歩いて行く。猫は身軽なもので、岩から岩へジャンプしながら進んでいた。

 前方からする波の音が大きくなっていき、それに伴い潮の匂いも強くなった。ジフォルゼはある程度進むと足を止め、右足を暗闇へ伸ばしてちょいと地面を叩いてみた。

 ぱしゃっ。海水が跳ね返る。

 どうやらここが陸地と海の境界線らしい。顔を上げて海を見つめる。

 真っ黒だ。空にはポツポツと星が瞬いているが、海は一切の光も反射せず完全に影に包まれていた。だが漆黒のそれは確かに蠢き、岩礁に波を叩き付け飛沫を上げている。陸上に寝そべる巨大な影の化け物―――

 ―――のようだ、と物語で語られる気持ちも分かる。一方で目の前にあるのは海の夜の姿。ただそれだけだ、という見方もできる。

「…。」


 漆黒は魔王の象徴だ。


 王はそれぞれに唯一の色を持って創られる。神の黄金に対し、魔王の漆黒。つまり魔王は漆黒の体毛と瞳を持っているのだ。魔王は間違いなくこの世界に君臨している。夜の世界が影に包まれるのが当然のように、その両手で世界を包んでいる。

 ジフォルゼは奴の掌の上に居るだけかもしれない。

「…。」

 嫌悪と憎悪が鳩尾を震わせる。この瞬間、ジフォルゼは純粋に魔王を憎む。故郷の天界を陥れた魔王を。

「…。」

 ジフォルゼはその場に腰を落とし、膝を抱えていた。海が近くなって、顔に容赦なく飛沫が当たる。それでもそのまましゃがんでいた。


 ひたっ。

 猫がジフォルゼの目の前に飛んで降りてきた。ジフォルゼは驚いて尻もちをつきそうになる。猫はそのまま暫しまたジフォルゼを見つめていたが、スッと前足を上げジフォルゼの膝に寄りかかった。重みが膝に乗る。

 猫の顔が間近にあった。小さい鼻を引くつかせ、スンスンと匂いを嗅いでいる。やがてフルッと頭を振るい、嗅ぐのをやめた。

そうして至近距離からジフォルゼを見た。


丸い赤茶色の瞳は水晶玉のように澄んでいて、そっと意志を秘めている。そう、猫は何か意志をもって、ジフォルゼを見つめている。吸い込まれそうで、視線を外せない。

そうしてまた、ジフォルゼの中の不穏が溶けて消えてしまう。


「…不思議ですね。貴方は…。」

 猫は前足を地面に下した。座ったまま尾を振った。

 猫が海を向いた。

 同時にジフォルゼも海へ顔を向けていた。荒い波の音と潮の香。今、違う匂いが混ざっていた。

「…火薬…?」

 ジフォルゼがその匂いを違える訳が無い。

 猫が岩へ飛び上がった。あっ!と声をかける間もなく次々に岩を飛び渡り、村の方へ駆けて行ってしまった。

 始終不思議な猫だった。何を考えているかは、結局解からなかった。

「…。」

 ジフォルゼはもう一度海を見た。岩礁と波がぶつかり合う海。動くものはどこにも無い。

 何故こんな所で―――火薬の匂いはどこから漂ってきたのだろう。



 日が昇るまで海岸を調べたが、火薬の匂いの出所は特定できなかった。それが余計に胸に引っかかった。だがこれ以上時間をかけると、ユンチャがジフォルゼ不在に気付いてしまう。調査を切り上げ、駆け足で村へ戻った。

 朝食を食べ畑仕事を終えると、双子の目を搔い潜り村長の家に向かった。ノック3回でゲインは出てきた。

「夜釣り?いえ、最近そんな事をしてるって話は…聞かないけどなぁ。」

 夜に海辺で活動する住民が居るか、という問いに、不思議そうな顔をしながらゲインは答えた。

「この辺りは海流が激しいし…まして、夜でしょう?海の中にも岩がゴロゴロしているから、危なくてとてもじゃないけど船なんて出せませんよ。」

「ハーヘンテイジから一番近い、集落はどこにありますか?」

「ん?そうですね…森を北東に1日程歩いて行くと、ベンジャクという街がありますよ。商業の街ですね。…それが?」

「…そこに軍隊などはありますか?」

「ええ?」

「ちょっと気になって。」

「うーん。常駐の警護隊が居ますけどね。軍隊というより小隊といった感じ、かな?」

「…。なにかこの辺りの情勢を知れる書類をお持ちではないですか?」

「え?あ、新聞ならありますけど。読む?」

 溜めてあった新聞を頂戴して、村長の家を退出した。ゲインはどこまでも不思議そうな顔をしていた。

 再び双子の巡回を掻い潜り、自室に飛び込む。新聞を広げるのと同時にバックの中を漁り、手帳を取り出した。手帳の表紙を開いて、新聞に向ける。すると、表紙の裏に文字が浮かび上がった。

 翻訳魔法だ。

 ジフォルゼは多種族の言葉を聞く事はできる。だが文字は読めないのだ。聖都では「統一言語」という1つの言語を共有しているので資料も読めるが、下界からそのまま引き上げてきた資料は文字の勉強をしていないと読めない。翻訳が欠かせないのだ。

 翻訳を介して新聞を読む。記事の全てに目を通し、ハーヘンテイジ―――マコキュアや周辺諸国の状況を頭に叩き込む。そしてそれは4日前の新聞にあった。


「セツオト国―――トウ村、盗賊団に襲撃される。」


 4日前の未明。トウ村近隣のソハ村に第一報が入った。セツオト国騎馬隊がトウ村へ向かい、村の惨状を確認した。住人1573名の内、死者は44名(子ども含む)。負傷者28名。いずれも刃状の武器による攻撃を受けており、数十か所の刺傷痕がある遺体も確認された。金品食料強奪も確認され、セツオト騎馬隊は近頃村々の襲撃を繰り返している盗賊団の犯行であると判断し、一行の行方を捜査している。

 盗賊団が捕縛もしくは討伐された記事は無い。セツオト国トウ村は、ハーヘンテイジから南に500kmの位置にある。

 ―――これだ。

 深夜に、ヒトの立ち入らない海辺で、火薬の匂いがした。確定ではないが、可能性として考慮する必要がある。

「…。」

 新聞に覆い被さるように四つん這いになっていた。ドスンと腰を落とす。今日も海風が強く吹いて、窓をガタガタと鳴らす。

「キャー!!」

 子どもの悲鳴。ジフォルゼは窓に飛び掛かりながら開けた。目の前を白い布が飛んでいく。

「サクタのぱんちゅー!!」

 声は、下の洗濯場からだった。見上げるユンチャの隣で、プルピアとサクタがキャーキャーと悲鳴を上げている。サクタと目が合った。

「シーフィ!捕まえて!!」

 ジフォルゼは―――破顔した。


「了解です!」


 窓枠から身を乗り出し、屋根のヘリを掴んで屋根に上がる。そして飛んでいくサクタのパンツを追いかけて走り、屋根から離れていこうとするのを大ジャンプしてキャッチした。ユンチャがギャー!と悲鳴を上げた。ジフォルゼの足元には、もう屋根が無い。

 ジフォルゼは空中で身体を何度か捻り、勢いを殺しながら最後は両足で地面に着地した。洗濯場へ向かい、全速力で駆けてきたユンチャにぶつかりそうになった。

「シーフィさん!え!?貴方、無事なの!?足!?あるわね!?」

「はい。大丈夫です。」

「やだ、もぉー…心臓飛び出るかと思ったー…。もー、本当に、大丈夫なの?」

「はい。高いところは得意なのです。」

「高いところって……あー、びっくりした。」

 胸に手を当てて背を丸めるユンチャの隣を、双子が駆け抜けて来る。すぐにジフォルゼに飛びついた。

「シーフィかっこいい!」

「すごいすごい!」

「サクタ君、これ、パンツ。」

 サクタはパンツを地面に叩き落した。

「シーフィだいすき!かっこいい!」

「プルピアも!プルピアもだいすき!」

 両脇から、容赦なく。双子はジフォルゼに抱き着いた。柔らかくて、なんと、暖かいのだろう。

「…。」


 ……ああ。


「シーフィ!サクタもジャンプする!」

 双子は無邪気に大宣言した。

「プルピアもジャンプする!」

 当然

「馬鹿な事を言うんじゃないの!!」

 その後30分にわたってユンチャにこっぴどく叱られた。主犯であるジフォルゼもご一緒に。

 ユンチャが言った。


 パンツなんてどうでも良いんだ。


 あんた達さえ、無事なら。



 部屋に戻り、荷物を纏めた。広げっぱなしだった手帳や日用品をバックに押し込み、借りていた普段着から村に着てきたワンピースに着替え、脱いだものを丁寧に畳んだ。旅用のローブを纏い、部屋を出る。

 部屋を出ると、ユンチャの屋敷の日常が音を奏でる。ユンチャは昼ごはんの準備をしているのだろうか。他の住人はそれぞれに屋敷の手伝いをしながら過ごしているのだろう。誰の目にも触れないよう気配を消し、屋敷を出た。

 屋敷を出ると双子の遊び声が聞こえた。駆け回る足音も聞こえる。ジフォルゼは背を向けて歩いた。門飾りが揺れる門の脇を飛び越えて、森へ入った。

 急がなくちゃ…!

 地図を片手に森の中を駆ける。

「ニャア。」

 頭上で声がした。ジフォルゼは思わず足を止め、木の上を見上げた。あの猫が居た。

 猫は、「ニャア」と言ってジフォルゼを止めた。赤茶色の目で見下ろしている。

 ジフォルゼは言った。

「貴方ともここでお別れです。―――お元気で。」

 頭を下げ、また駆け出した。猫が暫くこちらを見つめている気配もあったが、走った。

「急がなくちゃ……!」


 崖の間にひっそり佇む村。ハーヘンテイジ。この村を落とすのは、容易い。

 海から攻めるのも良いだろう。魔法を使える者が居れば、岩礁がいくらあろうと海を渡り踏み込める。

 森から攻めるのも良いだろう。森に火を放てば住民はいとも簡単に逃げ場を失う。

 海と森を抑えれば、簡単にハーヘンテイジは袋の鼠だ。

 否。

 労力を抑えられるのなら、抑えた方が良いだろう。

 海と森を抑えるには人数が居る。それより容易く、ハーヘンテイジを落とす方法がある。

 頭上だ。

 初級魔法が使えればいい。もしくは爆弾が10弾あればいい。それを油樽と一緒に無造作に屋根の上に落とすだけで、ハーヘンテイジは燃え上がる。

 4日前に大暴れしたばかりなのだから、体力は温存したいだろう。

 ハーヘンテイジには北と南に崖がある。トウ村はハーヘンテイジの南。火薬の匂いが乗ってきたのも、南風だ。

 スファが居れば、高い崖など一瞬に登ってしまえる。だが魔界に彼女は居ない。


 もし、推測を誤っていたら。

 もし、盗賊団による奇襲など杞憂だとしたら。それはそれで構わない。最も望ましい誤りだ。

 もし、襲撃開始が海や森なら。もし、北側の崖だとしたら。

 南の崖にさえ辿り着いてしまえば、そこから飛び降りれば良い。崖の上からハーヘンテイジまで落下して数秒。間に合う。

 もし、推測通りに南の崖から襲撃があるのなら――――――


 全速力で森を走り、崖に向かう道を登り、ハーヘンテイジの真上に着いた頃には、真上まで上がった太陽がやや傾いていた。遠くを鷹が飛んでいる。息を整えながら辺りを見回す。崖の上は下の森に比べて、木はまばらで硬い地肌が剥き出しになっている。比較的に見晴らしが良い。そこにヒトの気配は無かった。

 だが、火薬の匂いが残っている。

 ジフォルゼはハーヘンテイジを見下ろした。

 まるで模型の街だった。どの建物も掌より小さく、先程までそこに居たのが噓のようだった。


 嘘だったのだ。

 シーフィ=ランという存在は、嘘の塊だ。

 彼らはシーフィ=ランを快く迎え入れてくれた。自分たちと同じ難民だと信じ、住処を貸し食事を与えてくれた。この存在に全く疑いを持たなかった。

 だが違うのだ。ジフォルゼは難民などではない。


 ジフォルゼ=ランザートは、彼らの―――魔界の民の、敵だ。


 世界に広がる広大な自然。この世界がこんなにも豊かなのは、王たる魔王が君臨しているからだ。

 魔王が討たれれば、魔界は天界と同じように世界の均衡を失い、枯渇する。

 この豊かな自然は全て失われる。

 ジフォルゼが魔界に居るのは、この世界を滅ぼす為なのだ。


 ―――なら、どうすればいい!?


 魔王を討たなければ、天界は滅びてしまう。神を失って、どれだけの地や海が穢れ、どれだけの民が死に絶えたのか。天界を救う為ならば魔界などどうなっても良いと言う事だってできるだろう。天界の苦しみを思い知れと言う事だってできるだろう。


「―――くぅ…っ!」


 そこに住まう民を、知っていなかったら。


「―――言える訳、ないじゃないか………!!」


 世界は王の存在により維持される。だが民は王が実在している事を知らない。

 魔界の民も天界の民も同じなのだ。世界の上で、自分が立っている環境の中で、必死に生きている。

 そんな民から、この世界を奪う事など許される訳がないではないか。

 ジフォルゼは魔王を憎んだ。

 どうして王と世界がこんなにも繋がっているのだ。ジフォルゼは魔界の民を犠牲にはできない―――魔王を倒せない。ならば天界は諦めるしかないという事なのか?


 誰か―――誰でもいい。教えてくれ。


 どうすればいい?


 大きな矛盾が小さい身体を引き裂こうとしている。軍人に何より必要な決断を下せない愚かな将軍がそこに居た。

 そしてこの矛盾を消化できないまま、行動を取るのだ。

 日が傾き空が赤色に染まる頃。南の崖の上に、いくつかの気配が現れていた。日の光が、彼らの身に付ける錆びた鎧を鈍く輝かせる。潮風に乗って漂う、火薬と塵―――まだ新しい血の匂い。

 数は30名。先頭の者が崖に立つ娘を見つけ、足を止める。

 ジフォルゼはローブを脱ぎ、リュックを投げ捨てた。

 両足を開いて重心を落とす。右手を帯留めのウサギに当てる。


 もし、推測通りに南の崖から襲撃があるのなら――――――


 ハーヘンテイジに知られる前に、襲撃を阻止する。

 男達が剣を抜く。地面を蹴り、娘に躍りかかる。

 ジフォルゼは剣を抜いた。



 さあ、来い!!

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