第6話 エネルトラ

 ―――拝啓 親愛なるお父様。


「ァァァァ………ァァァァ」


 ―――ジフォルゼは、今


「アアアアアアアアアアア」


 ―――落ちています。


「キャアアアアアアアアアアアッッッッッ!!!」

 「門」の向こうには、確かに空間があった。ところが法則が無かった。落下してはいる。だが下に落下しているのか上に落下しているのかそれとも右か左か、ジフォルゼにはもう全く分からないのだ。とにかく強大な力が自分を彼方へぶん投げている。頭が追い付いたのは、それだけだった。

 空間は様々な色の光が渦巻いているようにも見えた。渦だと思っていたら傍らで稲妻が走る。世界がこん棒で叩かれるようなグワングワングワンという轟音が絶えず響き、非力な小娘の悲鳴などあっさり呑み込まれてしまった。

 行ってきます!と威勢よく飛び込んだ気合はどこへやら。

「おとぉぉぉぉぉぉぉぁさぁぁぁぁぁぁぁぁぁん………!!」


 ―――天界に帰りたいです。敬具




 ――――


 ――――――――――




 ――――――…誰…?

 誰かに呼ばれた気がした。いつもの声とは違う。―――多分違う。思い出そうとしても、もう記憶は霞になり、消えてしまった。

 指先が何かに触れていた。沢山の細く尖ったものだ。その尖ったものは指で押せば曲がる程柔らかくありながら、形を変えない硬さがあった。それらに触れているのは指だけではなかった。掌―――腕―――額―――頬―――胸―――足。そこでやっと、自分は倒れていて、腕を立てれば起き上がれるのだと思い出した。

 酷く重たい上半身を押し上げ、呼吸を吐く。息を吸いながら、両目を開いた。


「――――――――――――。」


 そこには一面緑の世界があった。

 地面は隙間も無いくらい草に覆われていた。地面から伸びる木々はどれも縊れながら力強く天へ伸び、枝を拡げ葉を目いっぱいに茂らせている。葉の間から差し込む日の光が白い帯となり、地面の草に重なって白と緑の美しいコントラストを浮かび上がらせていた。

 美しい。この場に存在するもの全てから、生命力が溢れ出ている。

 ジフォルゼは立ち上がっていた。濃い空気が口から入って肺を満たす。吐き出す間を惜しんで駆け出した。足が絡まった。正面から転ぶ。

 擦った草から匂いが沸き起こる。ジフォルゼは両手をついたまま、地面に蹲った。

 ―――なんて力強いのだろう。これが自然の本来の姿なんだ。

 天界には、もう聖都にもこんなに豊かな自然は無かった。

 涙が出た。納まるまで、ずっと蹲っていた。


 ジフォルゼは大きく深呼吸をし、軽く自分の胸を叩いた。ここで止まっている場合じゃないんだぞ。それでも見とれそうになる自然の誘惑に抗いながら、改めて己の目的を振り返った。


 目的は魔界の調査。


 出発前に、太師より持ち物についての言及があった。初めて起動させる「門」の為、理論上は成功すると考えられても実績は無い。成功率を少しでも上げる為に、「ジフォルゼ」以外の物質はなるべく減らす必要がある。だからといって荷物が何も無い訳にはいかないので、荷物はジフォルゼより先に「門」を通しておくという段取りなった。

 なので、この近くに荷物があると思うのだが。きょろきょろと辺りを見回すと、2m程後ろに茶色のリュックが落ちていた。あれかな?

 リュックを持ち上げた第一印象は、随分軽いな、だった。徐に留め具を外し、蓋を上げる。


 ぼん!


 色とりどりの煙が噴き出し、瞬く間にジフォルゼを呑み込んだ。

「…!」

 庇った姿勢のまま数秒経ってから、ジフォルゼは目を開けた。目の前には落してしまったリュックと自然―――と足元に拡がる青い布。ゆっくりと布を見下ろして、ジフォルゼはあっと声を上げた。

 服が変身を遂げていたのだ。着ていたチュニックが、爽やかな青色のワンピースに包まれていた。ワンピースだけではない。いつの間にか髪の毛までツインテールに結われているのだ。

「わ…すごい!流石太師さま…!」

 暫しクルクル回ってスカートの広がりを楽しんだ。―――と、あるべき重みが腰に無いのに気付いた。

 剣が無い!

「え、え!?」

 ジフォルゼはまたその場で左に2回転右に3回転した。腰に提げていた剣が跡形も無く―――と思ったら、腰帯に見慣れたうさぎのマスコットだけがちょこんと引っかかっていた。いつも鞘に着けてあった、太師と通信用のマスコットだ。

 もしかして。ジフォルゼはうさぎのお腹を押してみた。ぷぃよっ。と鳴く。

 うさぎの口がぱっくり開き、何かを吐き出した。吐き出されたそれは空中で1回転すると、元通りの剣のサイズに戻った。驚いてもう一度うさぎを押してみると、今度はぱっくり開いた口が剣を呑み込んだ。

 成程!これは持ち運びに便利だ!

 剣の所在にホッとしたら、もう1つ帯に着けられているものを見つけた。それは帯飾りにしては紐が長過ぎるので、すぐにネックレスなのだと解かった。

 ペンダントトップはシルバーのプレートだった。プレートには細かい文様が施されている。なんだろう?ジフォルゼは自然に首にネックレスをかけた。今度は特に服が変わった様子は無い。

 さあ次はリュックの中身を確認しよう。ジフォルゼは改めてリュックの中身を覗き込んだ。


 パサ。


 視界の横から桃色の髪束が入り込んだ。―――なんだ?その髪のウェーブは随分見覚えのあるものだった。握り締めても覚えのある感触だ。それを徐々に上に伝っていき、思い切りグイッと引っ張ってみた。頭がグイッと引っ張られた。

「―――!」

 それは、ジフォルゼの髪だった。黄金色が、堕玉胤の黄金の髪の毛が、1本も残さず桃色に染まっていたのだ。

 まさか―――。ジフォルゼはリュックを引っ搔き回し、鏡を見つけた。覗き込むと、目の黄金までが桃色に染まっていた。

 そこに堕玉胤の娘は居なかった。ただの桃色髪の娘が居た。

「―――。」


 普通のヒトだ。


 ジフォルゼは不意に視線を宙へ彷徨わせ、髪を握り締めた手を胸に当てていた。目尻が熱っぽくなっている。唇を引き締めた。

 ジフォルゼの生まれ持つ黄金が、本来は天界の王の色なのだと教えてくれたのは、父だった。10歳の頃だった。父は包み隠さず、黄金は王の持つ色であり、王が何らかの形で屠られたので魂が砕け、民の身体に宿ったのだと言った。当時ジフォルゼはそれをただの知識としてしか受け止めなかった。この黄金の存在意義を知ったのは、その後だった。

 ジフォルゼはザオデュエルに連れられて大聖堂区へ向かった事があった。大聖堂区は王師の活動領域なので、ジフォルゼは立ち入った事が無かった。連れられた時はただ新しい場所に向かうのが楽しくて、ワクワクしていたのを覚えている。

 そこでジフォルゼは司西王師十二大将と対面した。マーガン大将は自宅でも会っていたが、他の大将とは初対面だった。出会えたのが嬉しくて、ジフォルゼはパッと表情を輝かせた。

 次の瞬間、彼らの表情に畏怖が現れるまでは。

 ジフォルゼは初めて、彼らにとって「神」とは如何なる存在なのか、この黄金がどんな意味を持っているのか知った。ジフォルゼは怖くなって、父のローブの後ろに隠れた。

 彼らが求めているのは黄金の色を持つジフォルゼではない。光を司る神なのだ。


 パシッ!


 ジフォルゼは両頬を叩いた。痛みを使って、現実に戻る。

 何度目の当たりにしても慣れる事の無い、神の再降臨の願いと堕玉胤への絶望。以降彼らはジフォルゼを普通の娘のようにして接してくれたが、本当の意味で「普通の娘」として扱ってくれる事は無かった。彼らは天界の民として、魂に刻まれた畏敬には逆らえない。決して抗えない衝動だ。ただの娘として接してくれたのは、父以外では太師だけだった。

 もしわたしがただの人間だったなら、今とは違う視線を受けていたのだろう。想像しない事は無かった。

 けれど、堕玉胤でなければ、父とも太師とも出会えていなかったのだ。それは、揺るがしようのない事実だった。


 堕玉胤なのがわたし。黄金を持っているのが、わたし。

 それが、ただのわたしなのだと、思う。


 だからこの黄金の重みに自らが負けてはいけない。そう思って生きてきた。


 頬から両手を離す。…、少し、強く叩き過ぎてしまった。

 ジフォルゼはリュックの中を検めた。小さなリュックの中には驚くほど多くの荷物が納まっていた。旅用のローブに地図に手帳に救急セット…それに説明書の付いた洗濯用キットと下着が数枚と生―――生活必需品。あと、お金の入ったお財布。暫く旅をしても困らない程に、物がぎっしりと詰め込まれていた。ジフォルゼは底知れぬ太師の愛情を感じた。

 リュックを背負い、ローブを上から被る。首下の留め具を付けて、準備完了だ。

「よし!」

 掛け声を1つ。ジフォルゼは森の中を歩き始めた。




〝魔界に降りたら、まずハーヘンテイジという集落を目指すんだ。〟

 太師が言っていた集落の場所はすぐに分かった。開いた地図にはこの土地の全体図が浮かび上がっており、目的地に「×」印がついているからだ。更に親切にジフォルゼの現在位置を「●」で教えてくれていたり、拡縮が自在なので、迷う事はまずあるまい。

 一体どんな集落なのだろうか。そして行ったとして、何か特別な場所なのだろうか。

「~♪」

 ハッとしてジフォルゼは鼻歌をやめた。いけないいけない。これは重要な任務なのだ。

 太師はハーヘンテイジで指示を待てと言っていた。けれどジフォルゼは単身なのに、どうやって指示を受けるのだろう?

「~♪」

 ハッとしてジフォルゼはまた鼻歌をやめた。ダメダメ。真剣にならないと。

 …でもこれこそ抗えない衝動だと思う。

 なにせ自分は豊かな自然の中に居る。図鑑でしか見た事の無かった植物達で溢れている。歩けば靴の裏で草がリズムを鳴らし、絶えず風に揺られて木々の枝葉が歌っている。

 これがワクワクせずにいられるだろうかっ。

 任務なのだ!30回目になる気合入れをした。ぐっと視線を上げ

「まあ!なんて立派なジョウノウバ!」

 大樹に張り付いた大きな蔓を発見した。

 ジョウノウバは紫のふっくらとした捕虫袋を持つ食虫植物だ。図鑑では掌程の大きさだと書いてあったが、樹に張り付いているのは頭の大きさ程もある個体だった。

「あんなに大きく育つなんて知らなかった!どれだけ大きいんだろう!」

 木に登ればもっと近くに見えるかもしれない。ジフォルゼは駆け足で樹へ向かった。


「危ない!!」


 左手を引っ張られた。気配は無かった。ジフォルゼは考えるより先に身を翻し、その者を押し倒して上に覆い被さった。


 子どもだった。


「………。」

 子どもだ。年は10歳くらいだろうか。性別は男。種族はヒト型―――尖った長い耳を特徴に持つヒュッテメグ族だ。明るい茶髪。眼鏡をかけた両眼は少し吊り上がり気味で、眼の色は深緑だった。耳を飾る棒状のピアスが光を照らし返す。少年は驚いた表情のまま、ジフォルゼを見上げていた。

 ジフォルゼは我に返った。慌てて、握り締めかけたうさぎから手を離した。

「ごめんなさい!ケガはないですか!?」

 地面に押し倒した時に掴んだ肩を握り直し、少年を起こす。ジフォルゼは動揺したのだ。反射的にこの子どもに刃を突き立てようとした。いくら条件反射とは言え、過剰防衛だ。

 少年はまだ両目を見開いたまま、ジフォルゼをじっと見つめている。もしかして頭を打っただろうか。ジフォルゼは手を伸ばし、彼の頭の後ろに触れようとした。

「大丈夫ですか?強く打ちましたか?」

 指先が少年の髪に触れようとした。


「けっ、怪我なんか、あるもんか!!」


 少年が叫びがジフォルゼを打った。

「こんな所でいきなり引っ張られたら驚いて当然だよ!寧ろ迂闊だったのはそんな事した、オレの方なんだから!!―――あ。でも、ただビックリさせようとして引っ張ったんじゃないんだよ!!」

 少年は怒涛の如く喋りだし、立ち上がった。そしてジフォルゼが歩いて行こうとしていたところへ走り出す。

 ジフォルゼは驚いたまま動けない。

 少年は地面に屈んで、一面を覆う草に手を突っ込んだ。彼の手が草に完全に埋まる。ブチッと地面の深いところで植物が抜ける音がした。そのまま引っ張ると、丈2mはあろうかという背の高い植物が現れた。

「こいつはニセミノダケって言ってね。密集して生える習性があるんだけど、質が悪いのが密集しすぎて地面の起伏を完全に覆い隠しちゃう所なんだよ。だからここにはかなり深い段差があるのに、全く平坦な地面に見えちゃう。うっかり踏み込んで落ちてケガをする危険性もあるのさ。」

 少年は彼の背よりずっと高いニセミノダケを振り回して、こちらを振り向いた。

「だから咄嗟に引っ張っちゃって―――あ。」

 少年が見たのは、ポカンとしているジフォルゼの姿だった。少年は慌てた。

「ご、ごめん。おかしいよね。いきなり現れて引っ張ったりして、ああ、こんなに変な事、ばっかり喋るなんて……。た、ただ、オレは…悪気があったんじゃないんだって、それだけは、伝えたくて……。」

 少年は口ごもって押し黙った。顔を歪めて俯く。

 ジフォルゼは小さく笑った。

「護ってくれたんですね。ありがとうございます。」

 彼が止めてくれなかったら、ジフォルゼは落ちてケガをしていただろう。必死に弁解しようとする彼が、ジフォルゼの警戒心を完全に溶かしていた。

 彼の顔がカァッと真っ赤に染まった。後ずさる。

「ま、護ってくれたとか…!大げさだなぁ!そんなんじゃないんだ!」

 後ずさって後ずさって、ニセミノダケの群生地まで入って体勢を崩した。ジフォルゼは大慌てで手を伸ばした。

「そっちは駄目!落ちちゃう!!」

 手を伸ばし、今まさに落下しようとする少年の手を左手で掴んだ。同時に前に出した右足で地面を思い切り蹴って、体重をかけて引っ張った。

 少年の小さな体がこちらに傾ぐ。もう片方の手で彼の肩を掴んで、抱えるようにして後ろに倒れ込んだ。

 今度はジフォルゼが下に転がる番だった。少年はひゃっと叫んで飛び上がった。だが今度は手を掴んだままだったので、後ずさりはできなかった。

「わ、わ…!お、落ちかけたの、オレ、だけど!でも、だ、抱き締める、なんて、オ、女の子なんだから」

「あ、あ、大丈夫です。わたしは、あの、大丈夫ですから。えっと…深呼吸しましょう。吸って―――吐いて―――吸って―――吐いて。」

 ジフォルゼと少年は互いを落ち着かせる為に深呼吸を繰り返した。やがて同じタイミングで呼吸が整う。少年はまだ顔を真っ赤にしながら、自分の手を握り締めているジフォルゼの左手をじっと見つめた。そうして、唐突に問う。

「……ねえ。これから、どこかに行くんじゃない?」

 !「はい。」

「なら、オレ案内してあげるよ!」

 少年はパッと立ち上がって、両手を広げた。

「この森にあまり慣れてないんでしょ?さっきみたいなトラップに引っかかったら危ないじゃない。オレはちょっと詳しいんだ。だから安全な道で案内できると思う。ねえ、どう?」

 ジフォルゼは少年を見つめた。答えはすぐに出た。彼からは全く悪い印象が感じられなかったのだ。

「なら、お願いしてもいいですか?ハーヘンテイジという集落に行くんです。」

「ハーヘンテイジね。知ってるよ。ついて来て!」

 少年はジフォルゼを連れて歩き出した。


 5歩ほど前を行く少年の後を歩む。前から見た時は気付かなかったが、彼は茶髪を頭の後ろでちょこんと結っていた。

「ねえ。」

 彼はまた振り向いた。

「はい。」

 ジフォルゼはにっこりと微笑んだ。

 少年の顔が真っ赤になる。

「~~~~~っ。」

 正面に顔を戻し、両手で覆う。

 そんなやり取りがこれまでに3度あった。

 ジフォルゼは手を後ろで組んで、少年の様子を窺う。…どうしたのだろう。ただ、なんだかわたしとお喋りをしたがっているようにみえる。少しの好奇心を込めながら、ジフォルゼは問う。

「名前、なんて言うんですか?」

 少年が立ち止まった。

「え?」

「わたしはジフォルゼ=ランザートです。貴方の名前はなんて言うんですか?」

 お喋りをするなら、互いの名前を知っていた方が良い。そんな気持ちだった。

 少年はゆっくりとこちらを振り向いた。ジフォルゼへ顔を上げる。彼の深緑の眼差しが、まっすぐにジフォルゼを見る。―――その瞬間、何故か心臓が手で包まれたように、ドクンと高鳴った。


「…ジフォルゼ、ちゃん?」


 彼が名を呼ぶ。

「…はい。」

 応える。包まれた心臓が、今度は熱を持って鳴った。

 少年の吸う息が、少し震えた。彼は前屈みになって、何かを押し出そうとするように胸を押さえた。か細い声はやがて言葉になる。


「……オレ、オレは……。……エネルトラって、名前なんだ。」


 彼は―――エネルトラは自分の名前を告げた。

「エネルトラ君?」

 ジフォルゼが呼ぶと、彼は今までよりずっと顔を真っ赤にした。耳まで真っ赤だった。くしゃっとなった顔を両手で隠して深く俯いてしまった。

 エネルトラ。目の前の彼の姿と名前が、不思議と心の中で重なる感覚があった。どうしてこんなに彼の名前を呼べたのが嬉しいのだろう。俯く彼の名前をもう1度呼ぼうとした。

 エネルトラがジフォルゼの両手を掴んだ。

「ジフォルゼちゃん!ちょっと寄り道してもいい?ジフォルゼちゃんに、見せてあげたいものがあるんだ!」

 ジフォルゼは迷わなかった。

「はい!」

 エネルトラの顔がぱあっと明るくなった。ジフォルゼの手を引く。

「こっちだよ。」


 2人は並んで歩いた。だがやがて駆け足になって、森の中を走っていた。まるで気持ちが身体を引っ張っていくようだ。身体が軽い。どこまででも駆けて行ってしまいそうだ。ジフォルゼは無意識に声を上げて笑っていた。そんなジフォルゼを見上げて、エネルトラも笑った。

「何があるんですか?」

「もちろん着いてからのお楽しみ、きっと気に入るよ!ジフォルゼちゃん、あそこから飛び降りるよ。」

 前方の地面は唐突に途切れていた。崖があるのだろう。ジフォルゼは驚いてエネルトラを見下ろす。彼は片目を細めてみせる。

「オレを信じて!」

「―――はい!」

 2人は同時に踏み切って、崖から飛び降りた。ジフォルゼはハッと目を見開いた。崖の下はアガラオオバ―――人の身の丈よりずっと大きな葉を持つ植物の群生地だ。アガラオオバは大きな葉と太く丈夫な茎を持つ植物で―――葉は着地した2人分の体重を受け止めて大きく地面に向かってしなり、しなり切って手に入れた反動で2人を空へ弾き飛ばした。

「わっ!」

 空中でバランスを崩し掛けたエネルトラを、今度はジフォルゼが引っ張った。空中散歩はお手の物。2人は大樹の幹に沿って上空へ舞い上がり、やがて1本の丸太のような枝に降りた。

 エネルトラはジフォルゼの手を離した。枝葉の隙間に向かって駆け出す。

 ジフォルゼは慌てて追いかけた。

「エネルトラ君!待って!」

 枝葉の向こうから強い光が差し込んでいる。ジフォルゼは片目を細めながら、光の中に飛び込んだ。


視界に世界が広がった。


「――――――。」

 森の向こうの空は、太陽が傾いてほんのり朱色に染まっていた。青と赤と黄金色のグラデーションが、眼下一杯に拡がる海に反射して、まるでこの色の世界が最果てまで続くようだ。遠くの水面が宝石のように輝いている。宝石は絶えず瞬き、海がそこに存在することを色の世界へそっと告げていた。

「…綺麗…。」

 言葉にできたのは、それだけだった。

「でしょ?」

 エネルトラは隣の枝に居た。頬を滴り落ちる汗を拳で拭う。

 ジフォルゼは世界を見つめていた。美しい世界はどこまでも遠くまで続いている。際限など無い。まるで当たり前のように存在し、全ての生命を包み込んでいる。紛れもなく、豊かな世界がそこにあった。

 微笑みかけた。上がりかけた口角が止まった。


 この世界の中央に魔王が居る。

 この美しい世界は、天界にだってあったものだ。


「―――ジフォルゼちゃん?」

 黙ったままのジフォルゼへ、エネルトラが声をかける。ジフォルゼは彼を振り向いた。

「行きましょうか。」

「えっ。」

 ジフォルゼは踵を返し、枝を戻り始めた。エネルトラが後を追いかける。

「ジフォルゼちゃん、もう良いの?もう少ししたら日が傾いて夕日がもっと綺麗なん―――」

 ジフォルゼは止まらなかった。

「―――分かった。行こうか。」

 2人は大樹を下りた。森の中を集落へ向かった。


 巨大な岩の両壁に挟まれた集落に到着した時には、もう日は完全に沈み世界は夜に包まれていた。集落の入り口には木で作られた簡単な塀と門が立っていた。腰ほどの高さしかない門を支える2本の支柱の間には、4m程の高さのところに布で作られたらしい飾りが下げられており、それが風に吹かれてカラカラ、キィキィと音を立てている。集落にはまばらに数軒の四角い建物があり、窓からは室内の明かりが漏れていた。当然だが誰かが住んでいるのだ。

「ここがハーヘンテイジ?」

「そう。見てごらん。あそこの青い家が、村長の家さ。」

 エネルトラが指さした先に、暗い色の屋根を持つこじんまりとした家があった。確かに日の下では青い屋根なのかもしれない。ジフォルゼがじっと村長の家を見つめていると、隣でエネルトラは一歩後ずさった。

「案内はここまでだね。」

 ジフォルゼはハッとして振り向いた。エネルトラはもう森の入り口まで下がっていた。

「じゃあね、ジフォルゼちゃん。」

 エネルトラはパッと笑って、そのまま身を翻して森の中へ駆けて行った。

「エネルトラ君!待って!」

 だがジフォルゼの声が届いていないのか、エネルトラの小さな姿はあっという間に森の影に包まれ見えなくなった。追いかけて行ってもジフォルゼには知らない道であり、今は夜だ。追いつくのは難しいだろう。

 …行ってしまった。まだ、お礼も言えてないのに。ぽっかりと胸に穴が開いたように、寂しさが身体を支配した。緊張しきっていたジフォルゼの心を慰めてくれた少年。

 もう、二度と会えないんだろうな。

 気付いてしまうと、涙が込み上げてきた。ジフォルゼは首をぶんぶん振って、集落を振り返った。

 前に進もう。ここから魔界調査が始まるんだ。

 ジフォルゼは前方を見据え、歩き出す。荒く削られた門に手をかけ、押し開いた。

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