第5話 出発

 快晴だ。青い絵の具を原色そのままでぶちまけたように、真っ青な空だった。カットソーにタイツという軽装の上に、革製のベルトを通す。カチャリと金具を絞める。鞘に収まった剣をベルトに吊るし、軽くジャンプ。具合を確認し、部屋を出た。

 階段を下り、リビングに出る。敷かれた柔らかいカーペット。食卓に、向かい合って据えられた椅子。太陽の光を取り込む大きな窓からは、家の隣に立つ大樹が見える。太陽の光は大樹を通り、緑色に染まる。枝の1本に結び付けられたブランコは、幼い頃ジフォルゼがねだったものだ。今もこっそり、漕いでいる。

 リビングを出て廊下を進む。玄関でブーツを履き、突き当りの扉のノブを、力を込めて捻った。


 爽やかな風が金髪を撫ぜる。


 ジフォルゼは家を出た。待っていたザオデュエルに、にっこりと笑う。

「お待たせしました。」

 父は微笑み、ジフォルゼの顔から足先までをゆっくり見た。それから、もう一度微笑んだ。

「行こうか。」

「はい!」

 ジフォルゼはザオデュエルと並び、歩き出した。

「よく眠れたか?」

「いいえ一睡もできませんでした。」

「えっ。」

「嘘です。ばっちり眠りましたよ。」

「…親をからかうんじゃありません。」

 ジフォルゼはくすくす笑って誤った。ふと、家にも挨拶をすべきだと思い至った。くるりと振り向き、息を吸った。

「―――――――――。」


 家が遠くに見えた。まだ数歩も進んでいないのに。


「…。」

 ジフォルゼは家に背を向けた。たった数秒でも空いてしまった距離を詰め、父の肘を掴んだ。

 父は驚いて、振り向いた。顔を俯けた娘を見下ろす。柔らかく微笑むと、普段は取らない手袋を外し、ケロイドの残る左手でジフォルゼの手を取った。温かい手。2人は手を繋いで歩いた。


 出発地は太師の塔だ。賢師の拠点は別にあるが、太師ののっぽの塔はジフォルゼ達の家に近い。昔から何度も通った道を、2人は進む。まるで一歩一歩確かめるように、時間をかけて。不意に父がジフォルゼをそっと呼んだ。顔を上げると、塔の前で彼らはジフォルゼを待っていた。

「皆さん…!」

 太師は勿論の事、ウェルドにレムナフの一歩後ろに、スファとなんとマーガン大将をはじめとする司西王師全大将が勢ぞろいしていた。大将達は皆顔を真っ赤にしてジフォルゼを見つめていた。

 ジフォルゼは唇を強く引き締め、まずウェルドとレムナフの許へ向かった。

「見送りに来て下さったんですか?」

「ああ。」

「当然じゃないか。と…ニホさんは下界の用事でどうしても外せなかったんだけどね。ギンヌスさんもきっとそうだと思う。」

 ウェルドは首を伸ばし、ジフォルゼの手を軽く突いた。

「気を付けて行くんだよ。皆が貴方の無事な帰還を待っている。」

「ウェルドさん…。ありがとうございます。」

「そうさ。君は僕らの中で一番若いけど、それだけ活力に溢れてるって事さ。僕は君が無事任務をこなしてくれると信じてる。僕らの分まで、頑張って来てほしい。」

「はい!」

「さあ、大将達のところに行っておあげ。彼らは儂達よりずっと前から待っていたのだよ。」

 頷いて、ジフォルゼは西の大将達を向いた。感極まった大将達はジフォルゼに押し掛けようとした。

「待たんかあああ!!」

 間に割って入ったのは、マーガンだった。同僚大将達が殺気立つ。

「マーガン何のつもりだ!」

「死ね!」

「死ね!ハゲ!」

「俺は禿げてはいない!剃っているのだ!」負けじとマーガンも怒号を上げる。「一斉に殺到してこれから出発されようとする大事な御身に、お怪我などあったらどうする!」

「ケガなんかさせる訳が無いでしょ!」

「そうだ!このハゲ!」

「だから大将を代表して、この俺がご挨拶すると言っているのだ!」

「ふざけんな!このゆでたまご!」

「誰がゆでたまごだ!!」

 大将達はギャーギャーと言い争いを始めた。熱気に当てられながら、ジフォルゼは驚いていた。たった3か月前に将軍になったジフォルゼだ。しかも軍人としての経験も無い素人だ…なのに彼らは見送りに来てくれた。顔に力を込めて、口角を必死に上げる。

「ジフォルゼ。」

 つんつんとつむじを突かれた。見上げるとスファが居た。

「寂しいよ。ジフォルゼ…。できれば私も貴方と一緒に魔界に行きたい。でも、駄目なんだって。私が小さな小鳥なら、貴方のポッケに入ってしまえたのにな。」

「スファ…。」

「大人しく天界で待ってる。大将達も居るけど…」ちらり。「私が乗せるのは貴方だけだからね。」

「うん。…うん、スファ。行ってくる。」

 伸ばされた首をジフォルゼは抱えた。硬い羽毛が顔に当たったが、構わず力を込めた。

 スファを離して、太師を向いた。何かを言う前に、太師は肩を上げた。

「いつも言ってるでしょ。堅苦しいのは苦手だって。」

「…でも。」

「ワタシとは通信できるよ。」

「…でも。」

「声が繋がるって結構重要だと思うけど?」

「…。」

「…。」

「…。」

「…。」

「…。」

「分かったよ。おいで。」

 ジフォルゼは遠慮なく太師に抱き着いた。太師は数歩たたらを踏みながらも、ジフォルゼを受け止めた。

「女の子なんだから、慎まなくちゃダメでしょ。」

「はい…!」

「…。全くもう。」

 太師は力を込めてジフォルゼを抱き締めた。勇気付けるように、ぽん、ぽんと頭を撫でてくれた。

「――― ―――。」

 いけない。呼吸が乱れそうだ。

 太師から離れる前に、大きく深呼吸をしてから、ザオデュエルを向いた。微笑みを浮かべ、呼んだ。

「おとう」

 父は背を向けて

「……………さ、ん。」

 泣いていた。


 ―――うわ。もう、駄目だ。


「―――ハァッ!」

 息が乱れる。喉の奥から沸き上がった熱が、涙と一緒に目から零れ落ちた。一粒零れると止められなかった。喉がひっくり返って声が上擦った。言葉にもならない。ジフォルゼは必死に、必死に父を叫んだ。

「お、とうさん…ん!!」

 父が振り向いた。顔を真っ赤にして、涙をボロボロ零して、駆け寄った勢いのまま、ジフォルゼを抱え込んだ。

「お父さんは、やっぱり嫌だよ…!!お前を魔界に行かせたくない…!!」


 考えなかった訳は無い。

 もう二度と、天界には帰って来られない可能性を。

 本当は怖くて怖くて仕方がなかった。たった1人で未知の世界に旅立つ。どこにどんな敵がいるか分からない。生きて戻って来られる保証など、どこにも無いのだ。朝起きたベッドにもう眠ることは無い。家の戸を潜るのは最後だ。―――父にはもう二度と会えないかもしれない。この別れは、永遠の別れかもしれない。


 ―――でも。それでも。


「行かせてください…!」

 ジフォルゼは、父を抱き締めた。腕の中で、思う存分泣いた。不安をそぎ落とすように。


 ―――それでも、ジフォルゼは魔界に行く。皆の希望が懸かっている。ジフォルゼにしか成せない使命が、あるのだ。


 父の肩口で涙を拭い、顔を上げた。

「もお。心配性なんだなぁ、お父さんは。」

 まだ涙の止まらない父を見上げ、笑った。

「わたしは、必ず帰ってきます。だから、お父さんは元気で待っててくれなくちゃ、だめなんですよ?」

 ザオデュエルは瞼を押し上げた。何かを抑え込むように震えながら目を閉じ、ジフォルゼを思い切り抱き締めた。

「当たり前だ…!!」

 きっと父は、まだ止めたいのだろう。ジフォルゼを抱える腕には、痛いくらいに力が込められている。


 ああ…。ジフォルゼの胸に、火が灯ったように決意が生まれた。

 絶対に生きて天界へ帰ってこよう。


 灯った火が不安を焼き尽くし、更に燃え上がったようだった。父から離れたジフォルゼは、もう怯えたりしなかった。

「準備は整ったかい?」

「はい!」

 太師は石板を敷き詰められた広場の前に立った。複雑で細かな魔法陣がびっしり刻み付けられている。

「これが、魔界への魔法陣…?」

「そうだよ。ジフォルゼ。キミに協力してもらいたい事があるんだ。」

「協力?」

「ワタシが合図を出したら、その、キミの血を魔法陣へ落として欲しい。」

「!しょ、承知しました!」

「指先から一滴で良いから!」

 思い切り手の甲を切ろうと思っていたのを止められながら、ジフォルゼは魔法陣と向き合った。何の変哲もない図だが、ほのかに脈を打っている気がする。

 呪文詠唱などするのかと思った。だが太師はじっと魔法陣を見据えたまま、動作しない。静寂のまま、5分が経とうとした。

「今。」

 ジフォルゼは剣を少し引いて、刃に中指を押し当てた。チリッと走る痛み。にじみ出た真っ赤な血を、魔法陣に落とした。


ドックンッ   魔法陣が、蠢いた。


 蒼い光と風が吹き出した。足で踏ん張らなければ転んでいたかもしれない。ゴゴゴゴゴ…地鳴りが始まる。光の放出量はどんどん多くなり、魔法陣の上空に文様が浮かび上がり始める。ドームだ。シャボン玉のように表面に文様を蠢かせながら、光のドームが形成されていく。

「おお!」

 ウェルドが思わず声を上げた。レムナフも大きな目を更に見開いて、食い入るように魔法陣を見据えている。

 暴風を撒き散らしながら、ドームの膨張が止まった。

「成功だ。魔界への「門」が開いたよ。最後の鍵は堕玉胤の血だったんだ。」

 切った指に絆創膏を貼ってから、太師はジフォルゼの背を押した。

「良いかいジフォルゼ。魔界に降りたら、まずハーヘンテイジという集落を目指すんだ。そこで指示を待つんだよ。」

ジフォルゼは頷き、魔法陣へ歩みだす。

 不思議な感覚だ。吹き出す風に、嗅ぎ慣れた天界の匂いではないものが混ざっている。これが魔界の匂いなのか。ジフォルゼは顎を引き、「門」へ接触しようとした。


「ジフォルゼ!!」


 父だった。暴風にローブをはためかせ、前屈みになりながら、叫ぶ。

「忘れないでくれ!この先、どこに居ようと!何があろうと!」

 必死に叫ぶ。

「お前は、私の娘だ!!」

 ジフォルゼは、強く頷いた。右手を高く掲げ、思い切り振った。

「行ってきます!」

 身を翻し、「門」へ飛び込んだ。


 ―――わたしは、魔界に行く。

 そして

 天界を救ってみせる!

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