第4話 魔界調査作戦

果てない大海原に大陸を浮かべる世界―――天界、の中央。

世界とは少し次元がずれた空間に、その小さな大陸は存在した。

聖都〈エンディホノム〉。

 聖都は天界の均衡を守る使命を与えられ、実行する力として王師を持つ。多種多様な種族によって構成される王師はこの広大な世界を管理する為に、北・南・西・東の四方に分けられる。各々の軍が持つ莫大な武力と魔力を用いて、安定と秩序を護り続けていた。


 この軍隊は、その長達によって指揮される。


 【使徒】


 元帥     ウェルド=ルンア=テアス=メルオバ=アバンティーフ

 司東王師将軍 レムナフ=アルシュトゥーズ

 司東王師将軍 ニホ・ルテン=オルセニシウス

 司北王師将軍 タンガン=ドク=ザング

 司北王師将軍 空位

 司南王師将軍 ハツオィーロ

 司南王師将軍 ギンヌス=レバリトル

 司西王師将軍 ザオデュエル=レイス=リズカレン

 太師

 そして

 司西王師将軍 ジフォルゼ=ランザート

 この10名こそ、天界を守護する最高権威だった。


「…。」

 それを思い返す度、ジフォルゼは人知れずこっそり唾を呑み込んだ。とんでもない地位に自分はいる。だが間違いない事実で、ジフォルゼには天界の西方の命運が懸かっているのだ。

「…。」


ごくり。


 招集がかけられたのは、日が昇りかけた早朝の事だった。次々に王師達から上がってくる下界の問題への対処に忙殺されていたジフォルゼは、少しでも体力を取り戻そうとベッドに入ったが全く寝付けず、諦めて執務室に戻ろうとしていた。使徒召集の号令に眠気は吹き飛び、寝間着を脱ぎ捨てて使徒の間に馳せ参じたのだった。

 ジフォルゼが到着した時には、なんとジフォルゼ以外の使徒は皆集合していた。新参者が最後の到着なんて、なんて未熟だろう!とジフォルゼは一瞬顔を赤らめてしまったが、誰もジフォルゼを見咎めたりはしなかった。太師は組んだ腕の下で、小さく手を振ってくれた。思わずホッとしたところ、父のザオデュエルに呼ばれて隣に腰を下ろしたのだった。


 十名の使徒―――といっても、実はこの場に居ない者も居る。

 北の将軍は2名の内、1名は4年前に殉死し以降は空位、もう1名の巨人のザングは、2年前に下界統治に向かった切り、彼の王師と共に忽然と姿を消したという。南のハツオィーロは身体が弱く、招集に耐えられない程憔悴しているので欠席だ。なのでこの場に揃ったのは、それ以外の7名だった。


 腰を下ろして呼吸を落ち着けながら、ジフォルゼは何気なく使徒達の顔を見回してしまった。真正面の東の座には、レムナフとニホが居る。


鶯色の硬い鱗に覆われた人狼ニクシ族のレムナフは、ジフォルゼより小柄だ。大きな目と大きな目は愛嬌があり、ぎゅっとしてみたくなるくらいに可愛い。


彼の相方のニホは、テイレナクラ族という大きなキジで、鮮やかな群青や橙色の羽毛を持つ。鋭い眼光がこちらに向けられそうになって、寸前でジフォルゼは視線を反らした。ニホは苦手なのだ。


 反らした先にはウェルドが居る。王師を束ねる長は将軍と称されるが、将軍にも長がいる。元帥だ。つまりウェルド元帥こそ王師全軍の統率者であり、しいては天界全土の支配者なのだ。…見た目はもっこもこの毛に包まれた、羊なのだが。

あの体毛は実にもっこもこしており、温かくて柔らかいのをジフォルゼは小さな頃から知っている。今は昔のように無邪気に抱き着けないが、いつかその機会が再びやってこないかと画策している。


 そして、ギンヌスだ。南に座すギンヌスは銀髪を持つ見た目は人間の男だが、獣人との混血だと聞いたことがある。顔を深く襟に埋めているので表情の全ては読み取れないが、肌色は褪せて疲れがにじみ出ている。にも関わらず銀髪の間から除く両眼は、研がれた刃のように鋭かった。


 疲れがにじみ出ているのは、ギンヌスだけではなかった。その場に居る使徒は全員、それぞれに違う疲れを抱いている。当然だ。彼らは世界の異常に翻弄されながらも、世界を救う為に奔走し続けてきたのだから。知識も経験もとても敵わない、精錬された軍人達だ。

 ジフォルゼは使徒の間の中央に据えられた石碑を見つめた。3か月前、ジフォルゼの運命を大きく変えた石碑だ。


 使徒は優れた軍人だ。だが選定の時に、決定権は民には無い。


 天界には「意志」が存在する。

 世界は、その意志を受け継ぐ仔として王を創造する。王に最も近い民である使徒は、絶対的な指針であるその意志を何よりも尊重し順守すると云う。


 天界の意志は、年齢経験種族に関係無く、使徒となる民を選定する。そうして選ばれた者の名が、あの石碑に突如浮かび上がるのだ。

 実績のある戦士でも、まして王師でもなかった小娘のジフォルゼ=ランザートが将軍の座に就いたのは、そういう理由からだった。

 どうして世界がジフォルゼを将軍に据えたのかは分からない。だが要因が無い訳でもない。ジフォルゼは堕玉胤だ。

世界は何らかの理由で堕玉胤を欲したのだ。ならその理由が明らかになるまで、ジフォルゼは将軍を全うしなければならない。


「ジフォルゼ。」


 物思いに耽っていて、父の声に思わず肩が跳ね上がってしまった。あまりにもキョロキョロしていたので、見咎められたのかもしれない。ジフォルゼは隣の父をそっと見た。


 …。あれ?お父さん、凄く怒ってる…?


 コツン!ウェルドが蹄を打ち鳴らした。使徒達の視線が彼に集中する。

「さて…、皆揃いましたな。」ゆっくり一同の顔を見回す。「下界鎮静活動に疲れているところ、皆に集まって貰ったのは他でもない。

 皆も知っての通り、下界の衰退は進む一方で回復の兆しは見られない。儂ら王師に衰退を止める方法は無く、混乱する民を抑え続けるのも、もう限界が近い。

 この状況を打開する為に、我々天界王師は、魔界調査作戦を決行する事とした。」

 魔界調査作戦…!

「ジフォルゼ。」

「え、はい。」いきなり名指しされてドキリとした。

「魔界調査作戦を実行するにも、何故それが必要なのか知らなければならない。事の発端は、貴方が生まれる前―――そう、20年前の夜に起こったのだ。」

 場の空気が、スッと引いた。

「あの日の夜は、普段と変わらないただの夜だった。儂らはそれぞれに職務をこなし、また明日に備えようと思っていた。だが突然、身を裂くような激痛に襲われたのだ。

 儂ら使徒にはな、この座に就いたときにいくつかの能力が与えられる。不老。高い回復力。異種族にも通じる言語能力。―――そして、王の危機を察知する能力だ。

 儂らはすぐさま、大君の下へ駆けつけようとした。だが王の許へは行けなかった。「箱庭」への道が、閉ざされてしまったのだ。」


 民は王の御名を呼ぶ事を許されない。代わりに大君タイクンと称する。

 「箱庭」は、聖都の中央上空に存在する小さな島だ。聖都のどこからでも、見える位置にある王の領域だ。


「かつてはな、あの箱庭から天に向かって黄金の柱が上っていたのだよ。」

「「ツエヌウル・メジレアン」ですね。」

「そうだ。ツエヌウル・メジレアン―――王の柱。この世界の全ての生命力は、ツエヌウル・メジレアンから放出されるのだよ。王の創造と共に天を貫き、この世界を支えてくださった。眩い…まさに太陽の輝きを持つ柱だった。…それが、儂らの目の前で、砕け散ったのだ。

 それはな、王が崩御なされたという証なんだ。」

 王の魂が砕け散った。その時に砕けた魂の欠片が、今ジフォルゼの中にある。

「何が起こったのか、儂らの誰一人も解からなかった。何が原因だったのか。誰が…何をしたのか。唯一の事実は、王が崩御なされた事と―――その日を境に、魔界が沈黙した事だけだった。」

「…、それまでは魔界との交流はあったのですか?」

「あ、ああ。世界は違えどな、儂らは互いの世界を行き来したりしてな…そんなに頻繁でもなかったが……雑談に興じるくらい……な。」

 ウェルドは尻すぼみになり、言葉を濁した。彼の口を閉じさせたのは、邂逅だろうか、場の雰囲気だろうか。空気が一層凍てつくのを、ジフォルゼは肌で感じた。

 世界が誕生した時に、天界と同時に誕生した魔界。天界とは別次元の民とよく交流していたというのは、今一ピンとこない感覚だった。

 ウェルドは気を取り直す為、頭を大きく振った。

「何故魔界が沈黙をしたのか。それは魔界が大君崩御に関する重大な事実を知っているからだと、儂らは結論付けたのだ。」

 どうして魔王が神を手にかけたのだ、とはっきり言わないんだろう。状況から見るに、他に可能性は無いと思うのだが。

「ジフォルゼ。貴方に、魔界へ侵入してもらいたい。」

「はい。」


 …。…………。


「はあ?」

 口を手で覆ったが出てしまったものは引っ込められない。だが、今、なんて?

「落ち着いて、落ち着いて。驚くのも当然だ。」

 向こうで太師さまが笑ってる!

「ジフォルゼ。魔界が沈黙して以降、儂らは魔界へ行けなくなった。どんな術を行使しても、魔界への「門」は開かれなかったのだ。だから何の調査もできなかったのだよ。けれど、貴方だけは違う。

 貴方の中の神の魂の欠片が、魔界への道を切り開く鍵になるんだ。」

 神の魂の欠片―――魔界への道―――それが、わたしの役目……

「―――そう、でしたな。太師。」

「理論は構築したって、何度も説明したはずだけど?」

「あ、ああ…。」

 つっけんどんに言い返されて、ウェルドは怯んだ。

「魔界がどんな状況か、全く分からない。だが―――引き受けてくれるか?」

 世界の滅亡に、何もできない王師。

 それを阻止する術が、魔界にある。

 魔王さえ討つ事ができれば、天界は救われるのだ。

 なら躊躇う必要なんて、無い!

「わたし」


「異議有り。」


 異論は、隣から発せられた。手袋を嵌めた左手をスッと上げ、ザオデュエルはウェルドを見据えた。

「ザオデュエル…。」

 お父さん。呼ぼうとしたジフォルゼを遮るように、ザオデュエルは立ち上がった。

「私は、本作戦に異議を唱えます。前提に問題がある。ウェルド。魔界がどのような状況か分からないと言いましたが、その言葉以上に危険な任務だと解かっているでしょう。状況が全く分からない場所に、ジフォルゼをたった1人で送る。それはジフォルゼに何が起こっても、私達は何の援護もできないという事です。」

 たった1人。思わず、声が出そうになった。

「太師の話では、最低限通信はできるとの事でしたが、それが一体何の役に立つのです。もし想定外の事態が起きた場合、ジフォルゼは自分で判断し、自分の身を護らなければならない。ジフォルゼはまだ将軍に上がったばかりの未熟な身です。このような無謀というしかない作戦に向かわせるのは、納得できません。」

「ザオデュエル。」

 父の異論に向かったのは、ウェルドではなかった。南の座、ギンヌスは褐色かちいろの眼光を向ける。

「この件は、そなたとも幾度となく話し合ってきた筈だ。」

「…してきたよ。けれど私は一度だって首を縦には降らなかった。そうでしょう。ギンヌス!」

 眼光が、光った。

「―――これに天界の命運が懸かっている。私情を挟めば許さぬぞ。」

 それは殺気にも似た―――否、殺気そのものだった。ザオデュエルとギンヌスは互いに一切引かず睨み合った。

 息を吸った。


「ザオデュエル将軍。」

 弾かれたようにザオデュエルが振り向いた。すぐに察したのだろう。左目が、言うな、と警告した。

 ジフォルゼは立ち上がった。

「20年前、大君は謎の死を遂げられて、魔界も謎の沈黙を続けている。ならば、魔界が何らかの事情を知っていると考えるのは順当だと思います。そして魔界の動向を知る手立てがあるのなら、どんなリスクがあろうと実行するべきです。それが天界の救済に繋がるのなら。」

 胸に拳を突きつける。

「わたし、魔界に行きます。行かせてください!!」

 父の顔が悲痛に歪んだのを、見た。

 いくら未熟だろうが、ジフォルゼは将軍だ。将軍には、将軍の発言権がある。当事者であるジフォルゼが受諾した以上、異論の発言の効力は弱まる。

「宜しいか?」

「はい。」

 ウェルドに強く頷いた。

 色々な感情を纏めるべく、ウェルドはうむと唸った。

「ザオデュエル。承知して下され。」

「…。」

「これが天界の為なのだ。」

「…。」

 父は頷かなかった。ローブを抑える手に、力が籠っていた。


「他に意見が無ければ、解散とする。詳細は後日改めて伝えよう。」

 意見は上がらなかった。ウェルドは一同を見回して頷き、ちらりとギンヌスを見遣ってから、踵を返した。

 ハア!ジフォルゼは胸に当てたままになっていた拳をようやく開いた。心臓がどきどきしている。天界の為に魔界に行く…。なんて決心をしたのだろう。まだ興奮が冷めない。

 正面のレムナフが、パッと立ち上がった。彼は軽い足取りでやってくると、ジフォルゼを見上げた。

「やあ、ジフォルゼさん。突然の事で、驚いているんじゃない?」

「あ、はい。」

「なんとなく察してると思うけど、実はこの作戦を、僕らは知ってたんだ。」

 そう言えば、ギンヌスは何度も話し合ってきたと言っていた。

「そんな言い方をすると、まるでいたずらにジフォルゼを除け者にしたみたいじゃないか。」

 レムナフは今度はピョンと飛び上がって驚いた。空中で反転して太師を見上げる。

「び、びっくりしたなぁ。太師。」

「ワタシ如きに武人が驚いてどうするんだい。」

「僕だって偶には気配を読み違えるさ。」

 太師は軽く肩を上げてみせた。ジフォルゼへ顔を向ける。

「事が事だけに、簡単に情報を開示する訳にはいかなくてね。それに要の魔界への魔法陣構築に手こずってた。遂にできたのがほんの2か月前なんだ。」

「太師さまが手こずられたのですか?」

「評価してくれるのは嬉しいけど、次元越えの魔法陣っていうのは朝飯前とはいかないんだよ。魔界が沈黙する前からでもね。1回やったら3日寝込むくらい消費したものさ。」

「こ、今回は大丈夫なんですか!?」

「ゆっくり眠らせてもらうよ。大丈夫。下界の応援には行けなくなる、とはもう伝えてあるから。」

「太師の助太刀が無くなるのは痛いけど、魔界を優先してほしいからね。」

「便利遣いは楽じゃないんだ。」

「いや、本当に助かってるよ。」

「ワタシが居なくても、他の賢師が手伝ってくれるだろうけどね。」

「…いや。まあ。頼りにしてる。」

 王師の中に、四方軍の中から選りすぐりの魔術師を集めた組織として賢師がある。太師はそこの長だ。ただ曲者揃いなのだと聞いた事があった。

「ただ正直に話すと、術の構築はできたけど、キミを送る時が初始動になる。危険性が無い訳じゃ」

「でも太師さまは、ほぼ大丈夫だと踏んでるのでしょう?なら、大丈夫です。」

「…キミはもっとワタシを疑うべきだね。嬉しいけど。」肩を揺らす。「だから術の安定を図る為にも、荷物は最小限にしてもらわなくちゃいけない。また後で内容は伝えるよ。」

「天界との通信はできるんですか?」

「うん。大丈夫。」

「なら全然平気ですね!」

「重大な任務なのだから、浮足立ってはいけません。」

 鋭い声が割り込んだ。ニホだ。

「ランザート将軍。この作戦は大変な危険を孕むこそ、貴方自身がそれを自覚しなければならないのよ。魔界に行ったらもう誰にも頼れないの。貴方が考えて最善を選ばないといけない。そんな浮足立っていては、任務を全うするなんて不可能だわ。」

「…はい。分かっています。」

「分かっていないわ。」語調を強め、ニホはにじり寄った。「良い機会だからはっきり言いますけど、貴方はまだ子どもなの、考えが浅くなりがちなのよ。今まで命があったのは太師や大将達に護られてきただけよ。それが無くなるという事がどういう事なのか、解かりますね?今まで通り考えなしに動いてはいけないという事よ。貴方に求められるのは将軍としての判断力なの。」

「…。わかって」

「解かっていないわ!」

 ニホの声が裏返ったところで、レムナフと太師が目配せするのが見えた。レムナフが眉をハの字に下げ、ジフォルゼとニホの間に割り込む。

「まあまあニホさん。ジフォルゼさんにも整理する時間が必要だという事ですよね?まだ命令が発動された直ご」

「邪魔しないでちょうだい、レムナフ!直接言う必要があるのよ!」

「ま、まあまあニホさん。そう矢継ぎ早に言ってもジフォルゼさんのプレッシャーになるだけで」

「貴方にも問題があるのよレムナフ!」

「ええ!?僕ですか!?」

「使徒として経験があるのに無暗に煽る事ばかりして!だから―――」

「分かりました!分かりました向こうでゆっくり聞きますから!」

 そうしてニホはレムナフに引っ張られて行った。使徒の間を出て行っても、まだニホの残響が残っている。ジフォルゼは眉間に皴を寄せぐっと耐えるしかなかった。

「流石のニホだね。」

「…はい。堪えます。」

 太師はくすくすと笑った。

 だからニホは苦手なのだ。…言われている内容が否定できないのが、尚辛い。将軍としての自覚―――行動の自覚。

「わたし、魔界に降りたら何をしたら良いんでしょう…?」

 魔界の動向を探る為なのだが、魔界に行ったからといって、それではと謎が明かされる訳ではない。何らかの行動をとらなければならない訳だが。

「待てば良い。」

 ギンヌスだった。ギンヌスは出口に向かいながら、言う。

「時期に動く。」

「…時期に?」

 一体、何が?問う間もなく、ギンヌスは使徒の間を後にした。

 ジフォルゼはギンヌスと話した事はほとんど無い。今の言葉の真意は解からないが、彼は「天界王師にギンヌス=レバリトル有り」と言わしめる使徒きっての実力者だ。何らかの背景があっての発言だとは思うのだが。

「…何が動くんでしょう。」

「さあ。」

 太師は素っ気なく首を傾げた。

「さてと。ワタシ達も出ようか。」

「はい。…。」

 ジフォルゼは父を見つめた。父はじっと、じっと石碑を向いていた。背中の向こうの表情は解からない。

「行きましょう。…お父さん。」

「…ああ。」

 ザオデュエルは静かに頷いた。



 木々の下に敷かれた石畳を通って家に向かう。ジフォルゼはザオデュエルと太師の後ろについて歩いた。

 ザオデュエルは使徒の間を出てから、一言も何も言わない。

 …お父さん。まだ納得してないんだろうな…。

「太師。」

 ザオデュエルは唐突に口を開いた。

「どうして、こんな事になってしまうんでしょうか…。」

 ザオデュエルの声は低く、複雑な哀しみが込められていた。

「あの方が、天界を陥れるなんて―――」

「「あの方」って、魔王の事ですか?」

「こらあ。」

 ザオデュエルはぐるりと振り向いてジフォルゼを叱った。人差し指を立てる。

「そんな不躾にお呼びするんじゃない。胎皇タイコウとお呼びしなさい。」

「…はい。ごめんなさい。」

 自世界の王を大君と称するのと同様に、他界の王にも呼び名がある。天界の民は魔王を「胎皇」と称するのだ。だがジフォルゼはとてもじゃないが魔王を敬いたくないのだ。

 唇を尖らせる娘を困ったように見つめてから、ザオデュエルは長く息を吐いた。そうして、ぽつりと話し始めた。

「ジフォルゼ。天界は、かつて胎皇に救われたんだ。太師も覚えているでしょう。私は、一度たりとも忘れた事はありません。


 イァザ=ガナブォールの大災厄を。」


 ジフォルゼはふと顔を上げた。ザオデュエルと太師の間に、厳粛な空気が流れている。

 太師は少し間を開けて、答えた。

「…、ワタシが太師になる前の話だけどね。」

「あはは、そうでしたっけね。

 もう75年も前になります。西方のイァザ=ガナブォール領に突然正体不明の化け物…化け物と呼称するしかないあの生物が出現しました。天界王師だけは危ういと判断した大君は胎皇に助力を求め、胎皇は魔界王師を引き連れて化け物に立ち向かって下さった。ですが…大地も、民も、王師も多くが嬲り殺されました。私もその時に酷くやられ…。誰もが死を覚悟しました。」

 ザオデュエルは布に覆われた右半面を手で押さえた。ザオデュエルの身体は左半面以外、イァザ=ガナブォールの大災厄で損傷したという。布の隙間から時々覗く彼の右半面には、酷いケロイドが残っている。

「けれど、胎皇は―――胎皇だけが、最後まで生を諦めるなと命じ、戦い続けて下さった。あの方が居なければ、私達は生き残れなかったでしょう。」


 イァザ=ガナブォールの大災厄。聖都に住まう者に、この伝説級の事実を知らない者は居ない。魔界の援軍を受け辛くも化け物を倒したが、イァザ=ガナブォール領は穢され、今も民が踏み入れられない死地と化した。


 父は昔から、この話をする度に胎皇に救われたのだと言って聞かせる。だからジフォルゼも魔王は心優しい王なのだと無邪気に信じていた。だが20年前の状況は、雄弁に魔王の関与を物語っているではないか。

 魔王はかつての信頼を踏みにじったのだ。

「…そんな胎皇が、何故…。」

「…。それをハッキリさせる為じゃないか。」

 太師はザオデュエルを振り返った。太師のローブが風を孕みふわりと揺れる。

「約束するよ。ザオデュエル。ジフォルゼは必ず、ワタシが護ってみせる。」

「太師……。」

 ザオデュエルは、情けなさそうに眉を下げた。姿勢を正し、ゆっくりと頭を下げる。

「娘を、頼みます。」

 ジフォルゼは2人の様子を、少しぼんやりとした気持ちで見つめていた。


 2人ともジフォルゼを心配している。2人がどれだけジフォルゼを想ってくれているのかは、よく解かる。

 なのに。

 なのに、ジフォルゼは彼らの抱えた思いの半分も知らない。そんな予感がした。



 魔界への出発は、招集から2週間後とされた。そして2週間は、あっという間に過ぎた。

 出発前夜。ジフォルゼはやっとベッドに腰を下ろした。今日は1日自宅で待機するようウェルドから通達されたのだが、これがやる事に困った。仕方なしに部屋の掃除をしていたのだが、本を本棚の右に揃えて満足したと思ったら、今度はサイズで揃えたら綺麗だろうと気付いてしまい、否、それよりも色別で揃えた方が遠目で見た時になんとも芸術的だと思いついてしまい、結局満足した並びになるのに6時間もかかってしまった。たっぷり睡眠を取らなければならないのに、日も変わった。何をやっているんだろうと思いながらも、今もベッドのウサギのぬいぐるみの位置が決まらない。

 緊張しているんだろうな。きっと心が自らの緊張を把握できない程に。明日の夜、ジフォルゼがこのベッドで眠る事は無い。

「…。」

 喉が渇いた。冷たいお水を飲んで、一度はベッドに潜り込んでみよう。ジフォルゼは決心し、自室を出た。

 ジフォルゼの家は2階建てで自室は2階にあり、1階にはザオデュエルの部屋とリビングがある。ジフォルゼはなるべく音を立てないように階段を下りた。階段の終わりから続くリビングの床が見えた時、ハッとして立ち止まった。


 父が居た。


 父はリビングの真ん中で、背中をこちらに向けて座り込んでいた。リビングの壁いっぱいにはめ込まれた窓から差し込む月の明かりが、彼の背に濃い影を落としている。ジフォルゼは父があんなに背中を丸くしているのを、初めて見た。


 お父さん…。


 お父さんはあの背中の向こうで、どんな顔をしているんだろう。

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