第3話 制裁

 革のベルトを金具に通し、留める。腰に重みが掛かる。ジフォルゼは己の愛剣を見下ろす。彫刻が刻まれた白銀の柄に緋色の鞘に納められた刀身。髪を入れながら帽子を目深に被り、ジフォルゼは歩き出した。


 集合場所には既に多くの王師達が集まっていた。総勢1385名。内、魔法兵士540名・物理兵士845名。物理兵士の中にジフォルゼも数えられる。

 目的の人物を見つけたジフォルゼは、王師達の間を潜り抜け彼の元へ向かった。誰もジフォルゼに目を向けない中でいち早くマーガン大将は気付き、畏まり過ぎない敬礼をした。

「参りました。マーガン大将。宜しくお願いいたします。」

「いえ、とんでもない事でございます。ジフォルゼ様。」

「ジフォルゼ、と呼んで下さい。今日は大将の軍の一員として動くよう、ザオデュエル将軍に言われています。」

「むっっ。いや、それは。」

「マーガン大将。」

「ご、ご勘弁を。」

 何百年も前から父を長として慕ってきた真面目なマーガン大将に、その娘を呼び捨てさせるのは想像以上に酷なのかもしれない。冷や汗で光るマーガン大将の頭を見て、ジフォルゼは強要するのを諦めた。


 ジフォルゼは彼の横に並んだ。王師達の顔を見て、静かに顎を引く。―――疲労している。そこにあるのは過酷な使命への緊張感ではなく、幾千の戦で蓄積した憔悴だった。

「兵の構成に、人間族は少ないんですね。」

「はい。兵の構成は対象国の種族によって組み替えます。ガラドーヤは人間の国なので、極力外しているのです。同種族への攻撃は精神的ストレスがかかり過ぎ、命令が正確に遂行されない恐れがありますし、何より以降の活動に支障を来たす恐れが高いですからね。」

「以降の活動に支障…。」

「制裁後には、必ず精神の異常を発症する者が現れます。それは異種族であってもです。こういった構成で彼らの負担を完全に無くす事は不可能です。しかし僅かな効果でも期待するしかありません。」

 必ず。その言葉はジフォルゼに重く伸し掛かり、王師達を見る目を少し変えてしまった。おそらく今回が初めての制裁だという者は、殆どいないだろう。一度の制裁が彼らの精神を削ぎ、まるで篩に掛けるように脱落者を出す。ガラドーヤの制裁を終え聖都に戻ってきたとき、彼らの顔は今とは違うのだ。


 ジフォルゼの緊張を感じたように、マーガン大将は声のトーンを少し上げた。

「今回ジフォルゼ様と行動を共する者達をご紹介します。トンゴ、エクレーン…それと、おーい!ゾラザンダー!ちょっと来てくれ!」

 マーガン大将は部下の名を呼ぶ。すると、まず近くに居た者たちが反応した。全身を青い鱗に覆われ頭頂部に鮮やかなピンクのトサカを持つヒト型エブロ族と、茶色の毛並みの狼ベラス族。彼らは先程の会議にも出席していた面々だ。

「私の副官であるトンゴと部隊長を務めるエクレーンです。そして今から降りてくるのが、同じく部隊長のゾラザンダーです。」

 ふっとその場に突然影が降った。翼の音に気づき見上げた周囲の王師達が、慌ててすっ飛んでいく。開けた場にその者は窮屈そうに降り立ち、翼を畳んだ。青と橙の鱗を持つ10mのアジャジャラ竜だ。

「ご紹介にあずかりましたアントロギク=トンゴです。」エブロ族はジフォルゼを見つめ、会釈をする。

「エクレーン=マルトーでございます。魔法戦士として参加致します。」とベラス族。

 アジャジャラ竜は巨体を下げて、大きな頭を地面に近づけた。鋭い牙が並ぶ顎を開く。目の端に、マーガン大将やトンゴ、エクレーンが身構えるのが見えた。


「ゾラザ」


 ぶお!竜の口から噴き出した突風が、逃げていた王師達を更に吹き飛ばした。ジフォルゼもマーガン大将に支えて貰わなければ、後ろ向きにすっころんでしまうところだった。アジャジャラ竜はムムッと口を一度引き締め、先程より慎重に顎を開いた。


「ゾラザ」


 王師が更に飛んだ。


「お前もういいよ。ゾラザンダー。俺が代わりに紹介してやるから。」トサカを両手で挟んで守り切ったトンゴが、憐みの視線をアジャジャラ竜へ向ける。「ゾラザンダーです。ご覧のように至近距離で話すのは向いてないんですけど、気は良い奴です。」

「こらトンゴ。そんな雑な紹介をする奴があるか。」

「いや、だってアジャジャラ竜の特性を紹介してもしょーがないし。つかゾラザンダー呼んだらこうなるって分かってたでしょーが。」

「ジフォルゼ様に遠くから声をかけるなど、失礼に当たるだろうが。」

「近くに呼んだら会話にもならないじゃないですか。アンタほんとに頭硬いよなぁ。そんな頭皮だから毛がサヨナラするんですよ。」

「俺はハゲているのではない。剃っているのだ。」

「真面目に返さないでください。」

 大将と副官の砕け過ぎたやりとりに、ジフォルゼは驚きながらもくすりと笑ってしまった。マーガン大将は面目なさそうに肩を竦める。

「仲が良いんですね。」

「彼らは寿命が長い一族なので、付き合いも長いのです。トンゴとは600年の付き合いになりますが、その中ですっかり私への敬意を忘れたのです。」

「一応敬語は使ってますよ。」

「少々癖のある連中ですが、これまで幾度となく戦火を潜り抜けてきた猛者です。実力は私が保証します。」

 癖のある連中に私も含まれているのかしら。エクレーンの不満そうな視線は、マーガン大将には届いていなかった。

「ジフォルゼ=ランザートです。皆さん、宜しくお願いします。」

 ジフォルゼも改めて名乗り直した。歴戦の戦士だけあって、トンゴ、エクレーン、ゾラザンダーの3名には余裕が見えた。彼らの作り出す雰囲気にジフォルゼは感謝した。


「そろそろお父上がお見えになる時刻ですね。―――ああ、見えられた。全軍、倣え!!」

 マーガン大将の号令は大砲のように放たれ、場を静めた。王師達は集合場所の入り口に向かって一斉に礼を取る。マーガン大将は部隊を連れてザオデュエルへ歩み寄り、向かって右側にマーガン大将とエクレーン、左側にトンゴとゾラザンダーが並んだ。ジフォルゼは大将の目配せを受け、大将側につく。ザオデュエルは先程とは違う、白に黄金に見える糸で刺繡を施したローブを纏っていた。正装だ。


「皆、よく集まってくれました。」


ザオデュエルは一同を見つめながら言う。将軍に顔を向けられた王師達の表情が引き締まる。

「シロア領ガラドーヤ国の他領侵犯が確実なものになり、制裁の対象となりました。他領への侵犯は下界の均衡を著しく乱す、決して許されない罪です。我々王師は均衡を乱す者を排除し、世界の安定を取り戻す義務があります。皆が日々の活動で勢力を注いでくれているのは重々承知の上で、更に力を求めたい。」

 父の口調が普段の穏やかなものとは違う。横目で表情を覗き見て、思わず顎を引いてしまった。今まで見たことが無い父がそこに居た。決然とした意志を込め、異論を挟ませない威圧的な視線で王師を見据えている。将軍と視線が合った王師に畏怖が生じる。そこに長と兵士の絶対的な階級差を見た。

「この制裁は、皆にとっては想像を超えた過酷なものとなるでしょう。ですが皆だけを戦わせたりはしません。この私、ザオデュエル・レイス=リズカレンと共に制裁に向かう者があります。」

 ザオデュエル将軍の、他に?王師達が疑問符を浮かべている。

 ―――他に。ジフォルゼは驚き、身構えた。


「ジフォルゼ=ランザート将軍。前に。」


 空白のような静寂があった。その空白に飲み込まれるように、ジフォルゼは隊列より1歩前に出て、帽子を脱ぎ去った。


 金髪が解き放たれる。


 どぉっ…!!見えない手で押されたように、王師達は目を見開きたじろいだ。

「静粛に!!」

 マーガン大将の怒号に、何とか彼らは各々の種族の最敬礼を取るのを堪えた。姿勢は堪えても、視線は娘の持つ金色の輝きに釘付けだった。彼らの誰もが、恐らく生まれて初めてこの色を肉眼で見たのだろう。この摩訶不思議な色を。あれが、ジフォルゼ=ランザート様か。誰かが小声で思わず漏らした。

 ジフォルゼは金色の目を彼らに向けた。

「皆さん。わたしがジフォルゼ=ランザートです。」

 娘の声にも王師達はまた動揺した。彼らにとってジフォルゼは、全く未知の生き物なのだ。

「この度の制裁に、わたしも参加します。天界の為、この剣を持って皆さんと共に闘います。」

 娘の口上は誰にも届いていなかった。彼らの注目は相変わらず娘の容姿に向いたままだ。


 ジフォルゼは自分が震えそうになっているのに気付いた。生まれて初めて彼らは金色を見た。金色を多くの者の前に曝したのは、ジフォルゼもまた生まれて初めてだったのだ。


 これが金色に対する彼らの魂に刻まれていた畏敬なのか。


 ザオデュエルが声を張る。

「そしてもう1名。」

 ザオデュエルの隣に青い光が迸った。王師のジフォルゼへの視線が遮られる。

 カッ。一際強く輝いて光が消える。見慣れたローブ姿を残して。

「太師…!」

 心を金色に奪われていた王師達は無防備だった。太師の姿を見るや否や、彼らは動揺を堪え切れず隊列を崩した。目に浮かぶのは驚愕、恐怖。中には露骨に震え上がる者さえ居た。マーガン大将の怒号にも彼らは応えられなかった。

 王師達の注目が離れ、ジフォルゼはやっと汗を拭えた。だが王師達は、何故太師にあれほど動揺するのだろう。太師は王師達を見やり、僅かに口角を歪めていた。

「太師もまた制裁に力を貸してくれます。」

 あ、お父さんさっきに光で目がチカチカしたままだ。

「我ら使徒3名がこの制裁に出ます。」

 ザオデュエルは目のチカチカを悟られないよう瞬きを堪えながら、改めて王師達を見回した。王師達は使徒達を順々に見遣る。3名の使徒が加わり王師達の士気が上がる。場にあるのがそんな単純な気持ちの揺れ動きではないのが、ジフォルゼにも解かった。


 ザオデュエルはスッと右手を掲げた。上げられた手に1名が気付き―――10名―――100名―――やがて全員が気付き、押し黙る。簡単な動作だけで場を掌握してみせた。


「我ら王師は王の刃。」


 朗々たる声が響く。


「この剣、この牙、この言の葉、全てに王の意志が宿る。王に捧げられたこの身命は誇り高く、何者にも脅かされない。―――この身が穢れる事は許されない。この魂が濁る事は、許されない。」


 掲げた手を下す。

「これは王師全軍に伝えられている言の葉です。何度も耳にした者もいるでしょう。これよりの制裁で心が揺れる事があるでしょう。ですが、王師は王の意志を受け継ぐ軍隊。天界の加護は我らにあるという事を忘れてはなりません。」

 ザオデュエルは言う。

「またガラドーヤも天界の民であるのを忘れてはなりません。彼らに与えるべきは尊厳のある滅び。その魂は決して穢してはなりません。」

 言い、言葉を続けた。


「そして、皆生きて聖都に帰りましょう。」


 生きて帰る。言葉が形になって、心に降りたようだった。


「さあ出発だ!聖門塔へ向かえ!!」

 動揺や驚愕に忙しかった王師の表情が引き締まった。隊列ごとに踵を返し、聖門塔へ移動を開始する。何名かは踵を返す直前、もう一度だけ金髪を見ておこうと思ったのか、ジフォルゼに視線をくれたが。

 そんな王師は慌てて顔をジフォルゼから避けた。ジフォルゼ自身は気配を感じて、そっと顔を後ろに反らす。太師だ。

「…もしや先程のは、わたしから視線を外す為に?」

「ワタシは実は派手好きでね。」

「それは、無理のある嘘です。」

「やっぱり?」

 首を傾ける太師に、ジフォルゼはくすりと唇をすぼめた。

「王師というのはどこも大差ないね。使徒と見れば崇め奉り媚び諂い、ワタシと見れば戦き恐怖する。訓練が足りないんじゃない?マーガン大将。」

「…面目無い。」

「太師さまを恐怖、する?」

「名誉な事だが、ワタシはとても不人気なんだ。」

「な、何故でしょう。」

「さあ知らない。どうせつまらない理由でしょ。」

 太師は心底興味が無いと頭を振り、ジフォルゼを改めて見た。

「キミは領境の最前線。ワタシは首都破壊を終えてから、そっちに合流しろって。すぐ行くよ。」

「はい。御武運を祈っています。」

 太師は笑って、踵を返しザオデュエルの元に戻る。ザオデュエルは向かってくる太師より、じっとジフォルゼを見つめていた。まだ納得していないのだ。

 ジフォルゼは拳を突き上げた。

「行ってきます!」

「―――はい。行ってきます。」

 各々別の戦場に。先頭を行くマーガン大将の後に続く。




「スファ!」

 ジフォルゼは空に向かって声を放った。空が声を飲み込むのと同時に、大きな影が視界へ飛来する。先が鮮やかな朱色に染まった翼を翻し、長い首を地面へ向けまっすぐとジフォルゼの元へ降りてくる。纏った鎧が太陽に輝く。砂塵を巻き上げ降り立ったのは、身の丈4mもある怪鳥テオガドアールだ。

 ジフォルゼは彼女の背中に向かって助走し、大きくジャンプして飛び乗った。テオガドアール用の鞍に足と腰を据え、嘴に繋がる手綱を握り締める。

「準備はできた?」

「うん、行こう。」

 スファはクッと首を空に向け、巨大な翼を広げ空へ飛び立った。地面がぐんぐん遠くなっていく。ある一定まで上昇して気流に乗り、まっすぐと聖門塔へ向かう。


 聖都は小さな大陸である。その際は海に繋がっているため、空を飛べない王師達の為に魔術の橋が用意されていた。眼下に橋を進む王師達を見ながら、ジフォルゼはスファを駆り、空を行く者達の先頭に追い付いた。マーガン大将達に合流する。

「マーガン大将。」

 テオガドアールでできる限り接近しながら、ジフォルゼはマーガン大将へ声をかけた。馬を走らせながら、マーガン大将がこちらを見上げる。

「父は…いえ、ザオデュエル将軍は、いつも「生きて帰ろう」と声をかけるのですか?ただ王師達の士気を煽るだけじゃなくて、あのような言葉をかけるんだなって…少し意外で。」

 ああ、とマーガン大将は微笑んだ。そうして、少し複雑な表情を作った。

「「生きて帰ろう」…西方軍だけでなく、王師全体の、合言葉のようなものなのです。」

「合言葉?」

「はい。勝利するよりも、武勲を上げるよりも、生きて聖都へ帰ろう、と。王師であるよりも、己の命を優先せよという意味であると私は捉えています。…。王師の身である我々には、とても有り難い言葉なのです。」

 どうしてマーガン大将は歯切れが悪いのだろう。ジフォルゼは前を向いてしまった横顔を不思議そうに見つめていた。


 空へ伸びる聖門塔が近くなっていく。視界に影が差したので見上げると、父の隊がマーガン隊を追い抜いて行くところだった。そうして全軍の先頭に立ったザオデュエルは、徐に両手を聖門塔に掲げた。


 フォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォッッ


 聖門塔が開門の声を上げた。管楽器が鳴らすような重低音。腹の底を撫ぜられるようで、ジフォルゼは思わずお腹を摩った。

 聖門塔の文様が一際強く輝き、虹色に輝く。ザオデュエルと隊が門へ潜っていく。マーガン大将の掛け声を受け、ジフォルゼ達も門へ突き進んだ。この先に、下界があるのだ――――――


「!?」


 門を超えた瞬間、ジフォルゼは小さく声を上げて仰け反っていた。背中の異変にスファは気づく。

「どうしたの?」

「―――なんて、枯れた大気……。」喘いだ。「スファも、分かるでしょ…?」

 スファは首を傾けた。「聖都より寒いなって思うけど、そこまで。」


 いいや、これは死の匂いだ。


 太陽に煌々と照らされた世界。聖都と変わらないのは光の強さだけで、青い空も、白い雲も、茶色い地面も、ジフォルゼには全く色の無い世界に見えた。あの溢れるような生気が、下界には無い。目の前にある光景―――物質の全てが、今まさに死に引きずり込まれようとしている。巨大な1つの躯だ。

 全身に鳥肌が立っていた。幼い頃から、ジフォルゼには下界への憧れがあった。下界はどんな世界なのだろう。何があって、どんな民が生きているのだろう。憧れは期待で好奇心だった。きっと素敵な世界に違いないと思っていた。

 この世界は違う。心を鷲掴みに潰されそうで、ジフォルゼは己の身を掻き抱いた。―――コワイ。死の気配がジフォルゼにも入り込んでくるみたいだ。

「ジフォルゼ様っ。」

 大将の声に、何とか顔を上げた。玉のような汗が顎から滴る。ジフォルゼは首を振る。

「大丈夫です。領境へ行きましょう。」

 声が震えていた。口元を引き締め、ハッキリと頷いてみせた。


 マーガン大将は頭上のザオデュエルに合図を送り、隊を引き連れてガラドーヤ軍が侵攻している領境へ進路を向ける。

 聖門塔は下界の出口を任意で決められる。ここは既にガラドーヤの上空だ。ジフォルゼはまだ気分が優れなかったが、今度は意識してガラドーヤの地表を見下ろした。

 建物が見える。黄土色―――レンガでできた建物だ。それが何千棟も、街道にそって規則正しく建ち並び、街を形成している。こんなに建物しかない光景をジフォルゼは初めて見た。一際大きな建物は、恐らく役所なのだろう。

「―――。」

 人間がいる。ジフォルゼと同じ形をした人間の男が、褪せた緑色の服を着て、靴を履き、街道を歩いている。街の中で動いているのは、全て人間だった。建物と違い規則を守らず、まっすぐ、斜めに、街道を歩いたり走ったりしていく。町全体が蠢いている―――生きている。


 大体は聖都と変わらないよ。


 不意に太師の言葉が脳裏に甦った。


 10分も進むと、建物はすっかり無くなった。代わりに拡がったのは、荒れ地だった。かつては草原だったのかもしれないが、禿げあがり茶色の肌が剝き出しになった大地は、無残だった。野を歩く動物の姿も見えない。これではなんの食物も育てられなかったのだろう。

「大将。見えました。」

 トンゴが短くマーガン大将に声をかける。マーガン大将はある一点を見下ろし、重く頷いた。その先をジフォルゼも見遣り、顎を引いた。

 ガラドーヤの行軍だ。茶色のローブを纏った兵士の行軍が、蛇のように伸びている。同じ色の布を被せた一際大きな塊が、軍議で聞いたイーヴィリィの戦車だろう。

「数は報告を受けていた通り4668名。一隊で移動しているみたいですね。領境まで他の国が無いからって、派手な移動ですよ。丸見えです。」淡々と観察している。「あと1時間の距離ですね。」

 マーガン大将は頷き、ガラドーヤの軍を追い越した。


 移動を続ける事更に15分。マーガン大将は下降の合図を出した。空中を伸びていた魔法の道を走っていた王師達が、地面に向かって下降を始める。スファは体を傾けて大きく円を描きながら旋回を開始する。頭の上では、巨大なゾラザンダーが器用に空中停止していた。

「ここが、シロア領境から100mの地点です。迎撃隊の布陣位置となります。」肩につけた通信機からマーガン大将の声がする。マーガン大将は空中旋回の円陣の中央で、領線を見据えていた。「ザオデュエル様。領境、布陣を完了しました。」

「了解。こちらも首都上空に布陣を完了しました。」ザオデュエルが応える。「マーガン、侵犯を確認したら、合図を下さい。」

「承知致しました。」


 出発前、マーガン大将よりガラドーヤ制裁完了の条件が伝えられていた。


 首都破壊。ガラドーヤ首都アルメシニの人口は8万2千。官庁各所を中心に攻撃し、首相や族長と呼ばれる国主や首脳の殺害及び8割の破壊を持って破壊完了とする。


 またガラドーヤにはオルガ・バタトーン・ブバタという3つの地方都市がある。この3つの都市を首都と同時に攻撃し、同じく8割の破壊を持って破壊完了とする。


 そして侵攻軍殲滅。全員の殺害をもって、殲滅完了とする。


 これらすべての完遂をもって、制裁の完了とする。


「私の第1部隊は殲滅の先陣を切ります。」

 マーガン大将は静かな口調で言っていた。

「正直に申しまして、王師の中には戦闘を恐れる者がいます。第1部隊は先陣を切ることで、戦況を動かし彼らを鼓舞する役割を持っているのです。その分、高い戦闘力と―――判断力を求められます。どうか私の指示を信じ、ついて来てください。」


 スファの背に乗りながら、ジフォルゼは腰の剣の柄に手を置いた。ハッと息を呑んだ。地平線の向こうからガラドーヤ軍が見えた。

「ガラドーヤ軍確認!」鳥の伝令兵が叫ぶ。「確認!」

 王師の気配がざわりと動いた。皆がガラドーヤ軍の進行方向を見据える。

 伝令兵がガラドーヤ軍の位置を刻々と告げる。初め地平線に細く見えていた軍は、もう輪郭がはっきりと見える位置まで近付いている。


「領線まで残り50m!」


 もう―――スファの手綱を引き、マーガン大将の背後へつく。

「残り10!」

 マーガン大将が通信機を口に近づける。

「3―――2―――」

 報告する。


「侵犯確認。」


 ザオデュエルの声が響く。


「制裁開始!」


「攻撃開始―!!」

 将軍の指示に呼応し、マーガン大将が声を上げた。同時に伝令兵が飛び回る。

 刹那。

 地平線の向こうで、蒼い稲妻が天空を割り、首都の方向へ突き刺さるのが見えた。くぐもった轟音が空気を震わせる。―――太師の魔術だ。ジフォルゼは直感した。

 ゴアアァアアアアァアッッ!!

 ゾラザンダーが猛々しい咆哮を上げ、身を捻った。幻影を施し王師達の姿を消していた魔術師が、術を解除する。巨大な竜がガラドーヤ軍へ突き進む。

 ガラドーヤ軍は、突然前方に獣の集団が出現したように思っただろう。咆哮に気付いて顔を上げたガラドーヤ兵達が、青ざめる。目を見開き、口を開き、体を震わせ、引き攣った。感情の動きが見えた。

「参る!」

 マーガン大将が馬を駆る。ジフォルゼも続く。


 ゾラザンダーの鱗が鋭く輝く。膨れ上がった胸郭から吐き出された業火が兵士を飲み込んだ。上がった悲鳴は業火に飲み込まれた者達が上げたものではなかった。一瞬にして塵と化した仲間の姿を目の当たりにしたガラドーヤ兵が、ようやく声を上げるのを思い出したのだった。

「ゾラザンダー!戦車を叩け!」

 走る馬から滑り下りながら、マーガン大将は体勢を崩したガラドーヤ兵に肉薄した。握り締めて引き絞った拳を、ガラドーヤ兵に減り込ませた。胸板に穴を開けた兵を踏み越え、後ろの者を叩き潰す。ばっ。大将の腕が真っ赤に染まる。

 トンゴやエクレーンも戦闘を開始した。トンゴは演武でも舞うように体をくねらせ、兵士に躍りかかり切り裂く。時にエクレーンが地面に干渉して突出させた土の錐に飛び乗って、上からガラドーヤを打つ。

 ジフォルゼが手綱を少し引くと、スファは首を空に向けた。彼女の翼の先が鮮やかな紅に輝き始める。テオガドアールの翼は興奮すると輝き出すのだ。輝きが強まると同時に、周囲の風の流れが速くなる。風を操っている。

 上昇から反転へ。スファは一気にガラドーヤ兵を目指した。呼吸をするのが不可能なほど早い風の流れ。ジフォルゼは息を止め、スファの背にぴったりと張り付いた。帽子が飛びそうだ。

 スファは地面に激突するすれすれの弧を描き、纏った風でガラドーヤ兵を弄った。怪鳥の起こす突風に数十名の兵士が吹き飛ばされる。上昇する途中でもう一度身を翻し、長く伸びた行軍の別の部分を弄る。


先頭を潰され、戦車は竜に、隊列は怪鳥に襲われたガラドーヤ侵攻軍は散り散りになろうとしていた。

 まず行軍をバラバラにする。これがマーガン大将の作戦だった。奇襲され連携が取れない軍隊程、叩き易いものは無い。初撃でどれだけ彼らの士気を萎えさせられるかで、制裁の進行が全く違ってくるという。その中でマーガン大将には懸念があった。

「捕まって!」

 スファが鋭く叫んだ。ジフォルゼは瞬間的に手綱を短く握り直し、身を縮めた。スファは振り落とさん勢いで身を捻った。


 ボォッ!


 赤い軌道が、今まで居た位置を貫いた。纏っていた風の気流が乱れて、スファが翼を唸らせ体勢を立て直す。ジフォルゼも身体が浮きかけながら、なんとか彼女の背に戻った。

 ゾラザンダーの攻撃を受けながら、1両の戦車の砲口に煙が燻っていた。いや、1両だけではない。別の戦車が砲口をゾラザンダーへ向け、砲弾を発射する。砲弾は竜の業火によって相殺された。

「イーヴィリィの戦車が攻撃を開始しました!」ジフォルゼは叫んだ。「発射確認は2両!」

「お怪我は!」

「ありません!」

「イーヴィリィが開発した当初より初動が速くなっているようですね。分析班、威力の詳細を報告しろ。」兵を粉砕する音が聞こえる。「戦車はバラけたか?」

「歩兵は大分バラけているんだが、戦車は中々バラけんな。」通信機を震わせる声量で、それがゾラザンダーの声だとようやく気付いた。「ガラドーヤもそこまで馬鹿じゃないという事だろうが…何より、大将!戦車が案外固い!」

「嚙み砕けないか。」

「歯が折れるわ!こっちに魔法部隊を3つ寄こしてくれ。攻撃重視なのを頼む!」

「了解した。戦車に対魔法装備が施されているのかもしれん。物理兵も向かわせる。ジフォルゼ様。」

「はい!」

「ゾラザンダーには引き続き戦車を叩かせます。物理兵を向かわせますが、如何せん彼らは歩みが遅い。到着までの間、砲弾を消費させるために引き続き攪乱を続けてください。」

「分かりました!」通信を切り、スファを向く。「スファ、行ける?」

「大丈夫。だけどあの砲弾、風の力も孕んでいるの。一々気流を乱されて厄介ね。」

 気流…。空を飛ぶ者には無視できない要素だろう。スファはもう一度風を纏って、戦車の上を飛び回り始めた。


 戦車は次々と砲撃準備を整えていった。攻撃はスファにも向き、彼女を落とそうとする砲弾が戦車から一斉に放たれる。砲弾はスファの速さには届かず、後ろを行き過ぎるだけだったが、5連射を躱した後に彼女は苦し気に唸った。紅の尾羽がバタバタと煽られている。

 対空砲火の精度が上がっている。戦闘が開始されてそろそろ30分が経とうとしている。闘う意志が残っている兵士は、冷静にこの状況を切り抜ける方法を指示しているのかもしれない。上空から戦車がジリジリと首都の方向へ移動しているのが見える。首都の方向では、チカチカと光が迸り、黒煙が昇っている。

 ガガガッ。

 地上の戦車の砲口が、スファを向いた。ジフォルゼとスファは身構え、速度を上げて滑空する。ボンッ。砲弾が放たれた。大丈夫、速度はスファが勝っている―――通り過ぎようとしている砲弾から、視線を外そうとした。


 キュ。風が鳴いたのが聴こえた。


「スファ!これは違」


 ボン!!


 砲弾が爆ぜた。撒き散らされた爆風がスファを呑み込む。捻じ曲げられた気流に抗えず、怪鳥はグルグルと錐もみしながら落下する。地面が近くなる―――寸前で、スファは両翼を無理矢理開いた。

 ドォッッ 落ちた。寸前で翼を開いたことで垂直落下は免れたが、大きな衝撃にジフォルゼは投げ出された。空中で身を捻って両足から着地し、スファに駆け寄る。

「スファ!」

「ごめんっっ、翼を傷めた…!」

「―――分かった!布陣まで後退して!」

「でも」

「良いから!早く!!」

 スファは逡巡した。だが傷んだ翼を広げ、なんとか戦場を飛び立つ。あの状態では人間を乗せては飛べないだろう。ジフォルゼは戦車との距離を測った。距離おおよそ80m―――近い。ジフォルゼはすぐさま駆け出した。

「マーガン大将。スファが砲弾を受けました。戦場より離脱させます。わたしに怪我はありません。」

 マーガン大将が息を呑む。「今どこに。」

「中央の戦車隊より西に80mの位置。大将、ガラドーヤの砲弾に注意してください。炸裂弾が含まれています。」

「―――承知。ジフォルゼ様。こちらに向かえますか。」

「大丈夫。向かいます。」

 ここに居てはゾラザンダーや魔法部隊が戦車に攻撃できない。戦車自体は空に向かって攻撃を続けており、砲身がこちらを向く様子はまだ無い。

「―――っ!」

 だが、歩兵がいる。既に戦車の周りに固まっていた兵士達が、ジフォルゼに気付いた。それにバラバラに逃げ惑っていた者達も、怪鳥が落ちて希望を見出したのだろう。近くから、遠くから、ジフォルゼを注視している。

 兵士の1人が言う。


「ア ベナマッジ。人間だ」


 兵士達は次々に叫ぶ。人間だ。人間じゃないか。女に見える。

 俺たちと同じ人間だぞ。

 とにかく走った。呆けた彼らが事態を思い出す前に。だが、それほど時間を与えてはくれなかった。

「プレ レベナバ逃がすな!」

 最も近くに居た兵士達が、剣を抜いた。雄叫びを上げ、大きく振り上げて駆けて来る。

 ジフォルゼは踏み込んだ。先頭の兵士と接触する瞬間身を低くし、腰の剣を抜き放つ。彼が腕を下す前に、白刃を翻した。

 首が飛ぶ。勇ましい表情を張り付けたまま。

 返す剣で後ろに居た兵士の脳天を切り裂き、更に後ろに居た者の首を正面から突いた。絶命した彼らの姿を確認する間もなく、ジフォルゼは更に走る。

 ジフォルゼに教えられたのは、確実に命を絶つ為の殺戮剣だ。小柄で男より筋力は少ないが、ジフォルゼの剣には速さがある。この速さを持って、少ない振り数で致命傷を与える術を中心に身に付けてきた。

 剣を持った以上、目的は命を奪う事である―――認識を間違えた事は無い。


「―――ハッ―――。」


 感触が、手に残る。

 訓練では無かったものだ。


 ジフォルゼは進路を阻むガラドーヤ兵を次々切り倒して行った。獣のような速度で迫ってくる娘に、全く太刀打ち出来ていなかった。上空にジフォルゼの援護を命じられた王師の姿が見えた。ジフォルゼはハッと顔を上げ、すぐに地面にへばりついた。

 ボォン!

 砲弾が頭上を掠めて通り過ぎて行った。6m先に着弾し、岩土をばら撒いて爆発する。両耳を塞いでいなかったら、鼓膜が傷付いていたかもしれない。鋭く飛んできた破片が、服に突き刺さった。ジフォルゼはちらりと発射方向を見遣り、眉間にしわを寄せた。

 銃だ。戦車ではない。ガラドーヤは近接攻撃の為に、銃まで持っていたのだ。

 銃はまずい―――っ!ジフォルゼは走りながら、飛んできた銃弾を剣で斬り飛ばした。斬られた砲弾が炸裂弾のように爆発し、爆風に身体が弄られる。手練れの剣闘士なら、銃弾を完全に無効化するほど粉砕するのも可能だ。だがジフォルゼにできるのは精々切り裂き直撃を避ける程度。余波はどうしても身体に受けてしまう。ジフォルゼに近付こうとする王師達も、攻撃を受けてうまく近づけない。早くこの網の中から抜け出さなくちゃ。

 前方に銃を持ったガラドーヤ兵が躍り出た。ジフォルゼは片目を細めて踏み込み、剣を振り上げた。だが踏み込みが浅かった。剣先は彼の腕を飛ばしただけだった。腕を無くしがら空きになった胴へ、剣を突き出す。

「ナエウ ソアイウファ ロバニカルア!!!」

「―――――――――。」


 剣が止まってしまった。両目が彼の顔に張り付いて、動かせない。


 背中に迫る熱源に、振り向いた。

 灼熱が消えた。赤黒い塊が眼前に迫っているのを確かに見た。だが瞬きした後には何もなく、まるで砲弾だけハサミで切り取られたようだった。消滅したのだ、と気付いた。

 砲弾の代わりに現れた、そのヒトに。

「マーガン。空のをちょっと下がらせて。」

 有無を言わさず、ローブから伸びる両手を上げた。手袋を嵌めた長い指が、空中に文様を描く。目の覚めるような鮮やかな青は、首都に落ちたのと同じ輝きだった。上空に居た王師達が退避していく。もう既にその場は、1名の魔術師の舞台だった。

 魔術師は―――太師は、言の葉を紡いだ。


『ドルース・エナーゼ』 


 閃光が迸った。

 戦車が先行の中、宙に浮く。空から射抜かれた衝撃を受け切れず、地面から跳ね上がったのだ。轟音が地中を震わせる。硬い装甲は軋み音を上げながら砕け散り、破片となっていく。閃光が消えた時、殲滅隊が苦戦を強いられたイーヴィリィの戦車34両は跡形も無く消え去っていた。その周囲に居た、兵士も含めて。

 そう、ジフォルゼが剣を止めたあの兵士も、無くなっていた。

「中央に集まってたのは潰しておいた。え?数なんて数えてないよ。部下から聞けば良いじゃないか。残りはキミ達で何とかしなよ。―――ジフォルゼはワタシが回収しておくから。」

 ハッとしてジフォルゼは振り向いた。太師との距離を縮めて、見上げた。

「―――太師さま。わたし、油断して―――でもまだ、まだ、わたし、戦えます。」

「ダメ。」

「まだ作戦は終わっていません―――マーガン大将達が、戦っているから、わたしも戦わなくちゃ。」

「ダメ。」

「太師さま―――太師さま、わたし、まだ―――」


 大きな両手が、頬を包んだ。


「…ダメ。」


 それで鼻の周りの空気が少し滞ったからだろうか。臭いが鼻を突いた。ジフォルゼはゆっくりと太師から、自分の身体へと視線を落とした。

 戦闘服に、血が飛び散っていた。砂塵の汚れとは違う真っ赤な染みは、消えた彼らの証のように刻み付けられていた。剣は、滴を落す程濡れていた。


 ふっつりと、糸が切れたようだった。もう腕が上がらない。ジフォルゼは呆然と、突っ立っていた。



 侵攻軍の殲滅が完了したのは、それから20分後だった。



 マーガン大将より集合は告げられていた。遅れて向かう旨は、許可を取った。

「…ごめんなさい。」

「うん?」

「ごめんなさい…わたし…。」

 戦車があった場所が見える位置。ジフォルゼは、ぼんやりと眺めながら呟く。

「心が折れたんだ。」

「…。」

「あの状態じゃ闘えない。」

「…。」

「キミに限った事じゃない。」

「…。兵士が。」

「…。」

「兵士が、ね。兵士が……、た、「殺さないでくれ。子どもが、いるんだ」……って……。」

「…。」

 息が震えた。「それが、当たり前なんだって。」

「…。」

「初めて、気付いた―――」

 彼は怯えていた。切り落とされた腕を抱え込んで。カッと見開いた両目は、血走りながらジフォルゼへ懇願していた。そこには敵意も殺意も無い。ただひたすら恐怖が満ちていた。

 このヒトはどうして侵犯を犯したんだろう。疑問が電光石火のように、脳裏を駆け抜けた。そこで集中力が、完全に切れた。

 怒涛のように感情が押し寄せた。砲撃を寸前で搔い潜って飛び回った恐怖―――墜落の衝撃―――ヒトを殺してしまった、事実―――。戦場の興奮に胡麻化されていた生身のジフォルゼが引きずり出された。

「どうしようっ…!」

 視界が歪んだ。口角が激しく震える。

「どうしよう……!嫌だ、わ、たし…!」

 手が行き先を求めてわなつく。両手を差し伸べた太師のローブを握り締めて、汚す。

「なんで、こんなに、震え、て」

 ガラリと視界が崩れた。両膝が地面を叩く。落ちた勢いのまま、喉を込み上げた熱の塊を吐き出した。衝撃に身を縮めたが、堪え切れず続けて吐瀉した。

「ジフォルゼッ」

 太師が背を擦ってくれる。離してしまった腕に、もう一度しがみ付く。

「太師さまっ。」

「え?」

「太師さま―――太師さま!!」

「…、ここに居るよ。」

「太師さま!」

「大丈夫。キミの傍に居る。」

「…………い、怖い…!」

「…それで良いんだよ。」

「怖い…!!」

 怖い。身体がこんなに震えた事は無かった。言う事を利かない。頭の中もバラバラだ。馬鹿みたいにボロボロと涙ばかりが落ちる。

 怖い。怖い。逃げたい逃げたい―――嫌だ、怖い怖い怖い、怖い、コワイ―――!!

 太師が薄い唇を噛む。ゆっくり開く。

「ジフォルゼ――繰り返して。「我ら王師は王の刃」。」

「―――え?う…?」

「繰り返して。「我ら王師は王の刃」。」

「…われら、王師は…王の、刃。」

「「この剣、この牙、この言の葉、全てに王の意志が宿る」。」

「この剣…このきば、は―――」

「「王に捧げられたこの身命は誇り高く、何者にも脅かされない」。」

「王に、ささげ―――」

「「何者にも脅かされない」。」

「―――。」

「何者にも、脅かされたりしないんだ。―――だから、ね。泣いていいんだ。」

 太師の腕にしがみ付いて、ジフォルゼは声を上げて泣いた。分厚いローブに覆われて、太師の体温は伝わらない。けれど頭を抱える長い腕は間違いなく温かく優しかった。

 もう戦闘は終わった。もう殺さなくて良い。ようやく事実が実感となって心に積もる。終わったのだ。


 違う。


 これが、王師なのだ。ジフォルゼが、これから身に負っていかなければならない役目。

 役目の重さを、思い知らされただけなのだ。

 ジフォルゼがただの小娘でいるのは、これで最後―――だから、今だけは泣かせてほしい。



 まだ震えそうになる吐息を、無理矢理規則正しく整えながら、ジフォルゼは顔を上げた。まだ太師は心配そうにジフォルゼを見つめている。ジフォルゼは、意識的に口角を上げた。

「合流する?」

「はい。大将達が待ってます。」

「ほっとけばいい。」

「そういう訳には。―――あ、でも。」

「?」

「ちょっとだけ、気合を入れてきます。」

 ジフォルゼは太師から離れて踵を返した。

 きっと泣き腫らした顔をしているだろう。風に当たって、熱を冷やせれば良いのだけど。歩きながら深く被っていた帽子を脱いだ。塵と一緒に、金髪が落ちて背中を打つ。風が髪の間を縫って入り、頭皮を撫ぜる。


「―――ぁ………。」


 声がした。ジフォルゼはすぐに身構え、剣の柄に手を置こうとした。震えて一度は掴み損ねた柄を、二度目で確実に握り締める。ジフォルゼは、ハッと息を呑んだ。

 木陰にガラドーヤ兵が蹲っている。胸部に裂傷を負い、顔は青白い。もう息を引き取ろうとしている。

 年を取った老兵だった。老人は裂傷に似つかわしくない、深くゆっくりとした呼吸を繰り返していた。

 ひたと据えられた洞窟のような両目から、目が離せなかった。老人はわたしを見ている。やがて大きく息を吸い、薄く開いた唇から名を呼んだ。


「ゼカ様神様………。」


 ――――――――――――


 ああ。


 これだ。


 父や太師は、これを見せたくなかったんだ。


 古の向こう―――世界が誕生した時に、大地はその魂を使って御仔を創造した。

 『王』

 王は世界に君臨して均衡を与え、尽きる事の無い生命力を齎した。

 王には唯一無二の色と、名を与えられた。

 色を黄金。

 名を神、と。


「…違います。戦士殿。わたしは神ではないのです。」

 ジフォルゼはぼっかり開いた両眼に、指を伸ばした。

「神は、殺されたのです。」

 瞼を閉じる。

「魔界の、魔王に。」


 唯一無二の存在である王。世界の生命の要である存在には、生死がある。

 死の間際、王はその魂を大地に還し、次代の王に引き継がなければならない。

 だが何らかの原因で大地に還せなかった時、魂は砕け散る。

 王の魂の欠片は世界に墜ち、民の肉体に宿る。

 そうして欠片が宿った民は、王の色を持って生まれ墜ちるのだ。

 堕玉胤ダギョクイン。

 それは王が非業の死を遂げ、世界が滅びに向かった、証だった。


 ジフォルゼ=ランザートは、堕玉胤だった。


 「…。」

 どろりとした感情が、胸の中で蠢いた。



 ザオデュエルと再会したのは、聖都に戻って軍を解散させてからだった。顔を見た時、ジフォルゼは我慢しきれず泣きながら父の胸に飛び込んだ。ホッとしたからだけではない。父がもう泣いていたからだ。

 何があったのか、何を感じたのかジフォルゼは話さなかった。何もかも父は理解していた。だからただ泣いて、何もかもを父に委ねた。


 滅びゆく天界を見つめながら、時を過ごすしかないのだろうか。誰もが諦め、希望を捨てようとしていた。


 だが事態は動き出す。


 その日、招集をかけられたジフォルゼは、耳にした言葉に、全身が粟立った。それは渇望し続けたものだった。

 場に座す羊は、静かに告げた。


「魔王調査作戦を実行する。」

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