第2話 ジフォルゼ=ランザート
―――― … … ―――――――――
誰…。不意に顔を上げた。名前を呼ばれたような、細やかな感覚。だが顔を上げて見回しても、自分の名前を呼ぶ者はどこにも居ない。気の所為と片付けてしまうには、はっきりと心に残る気配だった。
時々ある感覚だった。その気配は近くから遠くから―――きっと必死にこの名前を呼んでいる。想いに応えなければと思うのに、応え方が分からない。一体、誰がわたしの名前を呼んでいるのだろう。姿を見せてほしい。貴方に、会ってみたいのだ。
サッ。青い空を素早く横切る者があった。その者はそこに佇む者を発見すると、小さな身を旋回させてこちらに降りてくる。バサバサッ!と鮮やかな青色の翼を羽ばたかせてから、小鳥は差し出された指先の上に留まった。
娘は問う。
「どうしましたか。」
小鳥は小さな頭をクリッと曲げて恭しく娘を見上げた。
「畏れ入ります。ザオデュエル将軍はおられますか。」
ザオデュエル将軍―――。目を細め、小鳥を見つめ返す。
「いえ。まだ戻っていません。何か、あったんですね?」
すると小鳥は、僅かに逡巡した。その態度が何よりの答えになる。
「わたしが参ります。行きましょう。」
娘は返事を待たずに踵を返した。彼女の長くウェーブのかかった髪が靡く―――色は金色―――この世界を照らし尽くす太陽と同じ輝きを持っていた。
大海原を中心に円状に大陸が広がる世界。世界の名を、天界と云う。
ある民は大地に住まい森を駆け、ある民は海に住まい縦横無尽に泳ぎ、またある民は己の血を残して血族を増やし、またある民は野を拓いて国を築いた。
そこは豊かな世界だった。誰もかも日々繰り返される生命の循環が、永遠に続くものだと微塵にも疑わなかった。考える必要が無かったのだ。何故この世界が豊かなのか―――など。
だから民は、今世界が滅びゆく理由を知らない。
この世界の王たる「神」が、20年前に殺された事実を、知らない。
カツ カツ カツ―――。ブーツが軽快な音を立てて石畳を叩く。一定のリズムを刻む足音は、分厚い石の扉の前で止まった。高さは3m程あるだろうか。娘は花弁に似た文様を刻まれた扉をじっと見つめ、息を吸った。緊張している。吸った倍の時間をかけて息を吐き、扉に手を付けた。
「ジフォルゼ=ランザート。参りました。」
声に呼応したように、重さを感じさせずに扉が上がる。娘は―――ジフォルゼは会議場に踏み込んだ。中に居た者たちの視線が集中する。数名が静かにハッと息を吞んだ。
「ジフォルゼ様。」
中でも身長2mを超える人間の大男が驚きに目を丸くしながら、ジフォルゼの前に来て膝を折った。そうすると目の前にやってくる髪をそり上げた頭が光を反射して眩しい。ジフォルゼはバレないように目を細めてから、彼へ立ち上がるように願った。
「火急の事態が起きたと聞きました。ザオデュエル将軍は不在ですので、わたしが聞きます。」
ジフォルゼは髪と同じ黄金色の目をまっすぐと大男へ向ける。大男は苦虫を嚙み締めた顔で、娘を見下ろした。彼の後ろでは先ほど飛んできた小鳥が茶色の豊かな体毛を持つ狼の頭の上に留まり、ウウウッと呻られてしょげていた。
「マーガン大将。」
ジフォルゼはやや声を強めて、大男に詰め寄る。マーガン大将は眉間の皴を深くしながら、覚悟したように頷いた。
「承知致しました。こちらです。」
会議場の中心には、円形の天板の大きな机が据えられている。ジフォルゼが覗き込むと、天板一杯に地図が広がっていた。大海原の上に円形に浮かぶ大陸。これが天界の世界地図だ。ジフォルゼ達が居るのが世界の中心にある「聖都〈エンディホノム〉」。天界の少し次元がずれた場所に存在する、小大陸だ。
しょげていた小鳥がぴゅっと飛んできて地図に降りる。動きが身軽な伝令兵だ。
「場所は西方シロア領です。」
伝令兵がぴょんと地図の左に飛び移ると、西方に属している大陸と海に赤い線が走り、10の領域に分割する。この1つ1つが「領」で、それぞれに名前が付けられている。シロア領は西方の中心にある領だ。
「シロア領の現状についてご存知でしょうか。」
「いいえ。」
「シロア領は北東のニレタ山脈より流れる4条のレド・ニレタ川が領土を縦断する、土壌の豊かな地でした。しかしシロア領も天界全土に拡がる大地の枯渇化に襲われ、レド・ニレタ川の水量は極端に減り、かつての豊かな自然は失われてしまいました。この十年余り、飢えに耐えかねた民は次々と武装蜂起し、他国を襲撃し物資を奪い合う戦争が多発しています。」
戦争。ジフォルゼは眉を顰める。
「領の管理者である我々王師にとって、民が起こす戦争は土壌汚染と民の減少を招く事態であり、避けたい事案ではあります。しかし、我々が彼らの戦争に介入することはできません。」
伝令兵は羽毛を立てる。
「問題は、彼らが「理」を犯した時です。」
伝令兵はぴょんと地図上を飛び、シロア領の南際を嘴で突いた。
「ここにガラドーヤという人間の国があります。」
「ガラドーヤ…。」
「ガラドーヤは農業と鉄を主産物とする小国でした。枯渇による影響は大きく、彼らもまた武装蜂起しました。しかし、隣のヒツエ領のコルセトカヤ国を標的にしたのです。」
伝令兵の言葉に、場の空気が冷え切った。それはまるで禁忌の言葉だった。緊張を覚えたのはジフォルゼもまた同じだった。ああ、だからザオデュエル将軍を呼びに来たのだ。吐き出す息に、言葉を乗せる。
「他領を侵犯しようとしているのですね。」
「そうです。」応答を引き継いだのはマーガン大将だった。
「ガラドーヤが蜂起したのは、いつですか?」
「17時間前。ガラドーヤはヒツエ領に近い国だった為、標的を領外にしたのでしょう。あと2日でヒツエ領に接触すると見ています。」
「あと、2日……。」
ジフォルゼはじっとシロア領ガラドーヤ国を見据えた。
ヒツエ領を目指す―――領を超える。よりにもよって。ただの事実に留まらない。ガラドーヤは自分たちが犯してしまった事実の重大さを、知らない。
そしてジフォルゼもまた、ただ事実に戦いていてはいけないのだ。事態を動かさなければならない。その為に、自分は会議場に来たのだ。
なのに
「王師、は―――。」
何をすべきかは知っている。なのに、切り出せない。
ジフォルゼの沈黙に、会議場が吞まれようとしたその時だった。
会議場の扉が再び開いた。振り返ったジフォルゼはハッと息を呑んだ。
人間の男が会議場へ入室した。ゆったりとした橙色のローブを纏い、頭には顔の右半面を覆う布を巻いている。彼の姿を認めた兵士たちは、一斉に礼を取り会議場に迎え入れる。その中で唯一呆然とした顔のまま突っ立っているジフォルゼに向かって、彼は左半面を緩め、困ったように笑ってみせた。
「…ザオデュエル将軍…。」
「ジフォルゼ。」ザオデュエル将軍はひどく柔らかい声で言った。「ガラドーヤの件は、私が引き継ごう。」
「引き継ぐって、あの!」
ジフォルゼの抗議の声をやり過ごし、ザオデュエル将軍はマーガン大将を向いた。マーガン大将はジフォルゼへは見せなかった敬服と安心を滲ませた顔で、彼の長を見つめる。それは他の兵士たちも同じだった。
「状況は聞いています。ガラドーヤの軍の人数は?」
「数は4000名。歩兵が中心となりますが、ほとんどが農村から集めてきた者達です。しかし―――ザオデュエル様。こちらをご覧ください。」
マーガン大将が机をトンと叩くと、地図上に鉄製の戦車の立体映像が浮かび上がった。ザオデュエル将軍は戦車をじっと見つめ、ああ、と声を上げた。
「これはイーヴィリィの戦車じゃないか。」
「その通りです。」
「ガラドーヤはもう随分戦をしていなかった国だから、一体何が彼らを侵犯に向かわせるきっかけになったのか、気になっていたんだ。成程。どこかに眠っていたイーヴィリィの魔術兵器を手に入れていたんだ。イーヴィリィが滅んだのは、確か200年ほど前でしたね。」
「はい。国は滅んでも技術は200年の時を超えて生きていたのでしょう。戦車の数は50両。新たに術式を加えた可能性が高い為、油断できぬところです。」
「そうですね…。イーヴィリィの魔術は…確か、高速攻撃に特化したものだった。すぐに集められる魔法兵士は何名ですか?」
「約600。物理兵を合わせて1400程度になるかと。」
「そうですか。―――。マーガン。」
「ザオデュエル将軍―――。」
「すまないけれど、王師達を―――」
「ザオデュエル将軍―――。」
「武装させ」
「お父さん!!!」
ついに、ジフォルゼは怒号を上げた。狭い会議場に娘の声が響く。兵士たちが目を見開いてジフォルゼを見る。そして、ザオデュエル将軍は
「……その攻撃は敵わないよ。ジフォルゼ…。」
眉を下げ、弱った顔で娘を振り向いた。
ザオデュエル・レイス=リズカレン司西王師将軍。この場の最高権力者であり、ジフォルゼの父親である。
「お父さんが、あまりにも強引に事を進めるからです。」
父の強引なやり方に、ジフォルゼは腹を立てていた。だからこちらも軍の厳粛な場で、「お父さん」と私情に富んだ呼び方をしなくてはならなかった。このままでは父に仕切られたまま会議が終わってしまう。それは阻止しなければならなかったのだ。
「ちゃんとした理由があるのなら、わたしも引き下がります。でも、無視は駄目です。」
「無視を―――したけど、したけど。」
「衝突しそうならまず話し合いが必要だって、いっつも言ってるのはお父さんじゃないですか。」
「それは、言ってるけど。話し合っても衝突が避けられないと思ったら、こう強引な手段も取らなければならない時があって」
「お父さんが、初めからわたしをこの場から遠ざけようとするからです。」
「今回は、お父さんがやるから。」
「納得できません。」
「駄目だ。絶対に駄目だ。」
「お父さん!」
唐突に始まってしまった言い争いに、マーガンを含め兵士達はオロオロとするばかりだった。軍の領域を超えた父娘戦争にどうしたら介入できようか。身を小さくして背景と化すほかない。誰もがそう覚悟した。
「まあ話し合いが不十分なのは、正論だろうねぇ。」
ザオデュエル将軍の登場に隠れて、その人物が会議場に居た事に誰も気付かなかった。入り口を振り向いた兵士たちは、ヒィッ!と思わず声を漏らしてしまった。ジフォルゼもまた声を上げる。
「太師さま!」
太師と呼ばれた人物は、深い緑色のローブを纏い、フードを目深に被っている。更に目元を覆う仮面を被り、その表情は口元以外窺えない、風変わりな格好をしていた。太師は緊張感を持たず入り口に持たれかかっていたが、太師の登場にジフォルゼは激昂してしまった。
「お父さんがお呼びしたんですか!!」
「親父の名誉の為に言っといてあげるけど、ワタシは自分の判断できたんだよ。」太師は軽く肩を上げる。「ガラドーヤがバカな事をしようとしていると風の噂に聞いて、ザオデュエルはバンデルフ領に向かっていたから、きっとキミが指揮を採ろうとするんじゃないかと思ってね。」
太師は手袋をした手を打ち鳴らす。
「さて、ザオデュエル、ジフォルゼご両人。これ以上言い争いを見せてしまうと、王師の士気に関わるんじゃないかな?」
この指摘には今だ噴火中のジフォルゼも、口を噤まざるを得なかった。ザオデュエルもまた肩を震わせたままの娘と困惑顔の部下達を交互に見つめ、肩を竦めた。
「分かりました。マーガン、それに皆さん。少し時間を貰ってもいいですか?」
背景と化すよりは良いだろう。そう思ったかは定かではないが、部下達は素直に会議場を退席した。残されたのは怒るジフォルゼと困るザオデュエルと眺める太師。3名となった。
「太師は残ってくれるんですか。」
「仲裁役は必要だろうからね。」
「助かります。……。ジフォルゼ。」
ザオデュエルは口を一文字に結び、金色の目で睨み付ける娘を見つめ返した。部下達が出て行ってしまった今、もはや対面を保つ必要は無い。
「どうしてですか。」
「…。」
「お父さん。」
「…、荷が重すぎる。」
「わたしが、聖都の担う役目を理解していないと思っているんですか。」
「…。」
「下界が理を犯さないように管理するのが聖都だって事も、王師がその為の軍隊だって事も。」
「…。」
「将軍が王師を率いる長だって事も、分かってます。」
「…。」
「お父さん。」
「…。」
「わたしだって、将軍です。」
司西王師将軍ジフォルゼ=ランザート。王師の統率者。
「…。分かっているよ。」
ザオデュエルと同じ階級の軍人だ。
「分かっているよ。」ザオデュエルは息を吐く。「お前が将軍だと。…うん。分かっている。」
決然と言う。
「だから、駄目だ。」
「お父さんっ。」
「ガラドーヤは理を侵そうとしている。領を超えて他国を侵略してはいけない。それは、この世界の絶対の理なんだ。」
「分かっています。」
「罪を犯した国は滅ぼさなければならない。」
「……。」
「民を、―――殺さなければいけないんだ。」
「……。」
「行軍を続ける4000の兵だけじゃない。ガラドーヤ本国に住む民150万」
「……。」
「そんな事、させたくない。」
怒る瞳に、頑固とした意志を湛えた左目がぶつかる。ジフォルゼは怯み、顔を背けそうになった。
天界には絶対に犯してはいけない理がある。
他領侵犯。
通常、聖都が下界の民に干渉することは無い。彼らが領を超えて旅をしようが商いをしようが、領内の他国を侵略しようが国土を拡げようが、それらは彼らの営みだと認められ、聖都は記録に残すだけで静観している。
だが他領侵犯だけは大罪とされた。それは天界が誕生した時から幾千万年に渡って守り続けられてきた理で、一度たりとも例外は許されてこなかったという。理に触れた国は滅ぼされ、その後歴史を紡ぐ事は許されない。
これを「制裁」と云う。
「理由の大半は、私の父としての私情に違いない。将軍として言うのなら、ジフォルゼは将軍としての経験が無い。制裁は戦場だ。制裁国も死力を尽くして抵抗するから、武力の高さだけで制圧できるものじゃない。私達将軍の役目は、攻撃命令を出すだけじゃないんだよ。王師を無事に聖都に戻すのも大事な使命なんだ。私はお前が制裁をやり遂げられるとは、思わない。」
ジフォルゼは拳を握り締める。経験を問われれば、反論できない。
「聞き分けなさい。」
「なら、せめて同行させてください。」
「戦場だけが将軍の務めじゃないんだ。」
「それじゃいつまで経っても経験なんて積めないじゃないですか。」
「ジフォルゼ…。」
「わたしは―――わたしだって天界の為に戦いたいんです!」
おもちゃを取り上げられそうになる子どものようだった。叫んだ瞬間に喉がひりつき、両肩から腕が小刻みに震えて猛った。父の言い分は解かる。その気持ちだって、解かっている。だからこそ、いくら経験が不足していても、ジフォルゼは将軍として引き下がれなかったのだ。
「まあ、この辺りが仲裁役の出番だろうねぇ。」
場を成立させて以降ずっと黙って聞いていた太師が、ようやく口を開いた。仮面を被った太師の表情は窺えない。だが僅かに上がった口角と竦められた肩から、僅かな不本意さが表れていた。
「まずはザオデュエル。今回のキミの横やりの入れ方は最低だ。」
「うっ。」
「将軍以前にヒトとしてどうかと思う。」
「…反省しています。」
「ヒトとしてどうかとは思うけど。」太師は肩を上げる。「父親としては及第点だね。」
ザオデュエルはハッと顔を上げ、嬉し気に眉を下げた。そんな父の様子に太師は首を軽く振り、ジフォルゼを向いた。
「ジフォルゼ。」
「…、はい。」
「肩を上げて深呼吸。」
「え?」
「はい、吸って。吐いて。もう1回。吸って、吐いて。」
リズムに合わせて息を吸って吐いた。すると身体から力が抜けて、全身を強く打っていた鼓動も、納まる。
「キミは意固地になり過ぎ。」
「うっ。」
「将軍としての判断は、ザオデュエルの主張が正しいと言わざるを得ないだろうね。ザオデュエルが居なかったとはいえ、今のキミの実力で指揮を採ろうとするのはちょっと無謀が過ぎたんじゃないかな。それはコイツじゃなくても、ワタシでも止めたよ。軍議の場に意固地を持ってきちゃいけない。…わかるね?」
「…はい。」
「今回の制裁の指揮は、ザオデュエルが採るべきだ。…。そしてジフォルゼは近くでそれを学ぶべきさ。」
「太師さま!」
「太師!」
「有事が起こってるのは、シロア領だけじゃないでしょ。ヒツエ領だってそうだし、ネ・ベディカもバンデルフもグリンエデフも―――もう有事が起きていない領を探すほうが困難だ。それをキミ一人で全部賄いきれるのかい?そう思い込んでいるのなら、それこそ無謀だと判断するしかない。」
「…ですが。」
「ザオデュエル。この娘は将軍なんだよ。キミと同じ。キミの一存で籠の鳥にするのは、この娘に無礼さ。そうじゃない?」
「……。」
父は押し黙った。合わせた両手で口を覆い、顔を顰めている。その苦悩が流れ出ているかのようだった。ジフォルゼはじっと父の姿を見つめた。
「…。…………解かり、ました。」
父は言った。ジフォルゼを見る。
「ジフォルゼ。今回の制裁に、マーガン大将の部隊の一員として参加しなさい。将軍の肩書に惑わされる事無く、マーガン大将の命令に従う事。良いね?」
「…はい!」
参加が認められた。嬉しさに声が上擦ってしまった。制裁という事態の重さと、父の苦痛の表情を前に、歓喜にはならない。それでもジフォルゼは天界の為に働ける事が、嬉しいのだ。
「マーガン大将達を呼び戻します。ジフォルゼは退席なさい。…、追って、大将から指示が出るだろう。」
「分かりました。」
ジフォルゼは頷き、踵を返した。すると太師もまた踵を返す。
「あれ。太師も行っちゃうんですか?」
「どうせワタシにも要請が来るんでしょう?堅苦しい会議は嫌いだからね。指示を待ってるよ。」
「助かります。では、また。」
ジフォルゼと太師は会議場を後にした。風が金髪を撫ぜていく。ジフォルゼは太師に促されるまま歩き出した。
小高い丘に登った。ここから先ほどまで居た司西第一軍の会議場が見下ろせる。聖都では、王師達が業務を行う大陸の中央区域を「大聖堂区」と呼ぶが、その様相は軍によって大きく異なる。司西王師軍の領域は緑の自然が多く、その中に会議場や訓練場・武器庫・兵舎が建てられており、見下ろすとさながら庭園のようだ。一見長閑な風景だが、木々の下を武装した王師達が駆け回っている。制裁に向けての準備が進められているのだ。
「ジフォルゼ。」
太師に呼ばれた。ジフォルゼが振り向くと、太師はこちらを見ながら両手をパッと広げてみせた。
「え?…あっ。」
つられる様に両手を開いて、驚いた。まるで水に浸けたように、両手は汗でびっしょりになっていた。両手だけではない。頬も首筋も、そして脇までも汗で湿っていた。ジフォルゼは大慌てで身体をぎゅっと抱き締めてしまった。
「そんな様子で顔は蒼白なんだもの。止めたくもなるよ。」
「蒼、白。」頬に手を当てる。「…気付きませんでした。」
小娘が必死に虚勢を張ろうとしている。そんな姿を見せられたら、マーガン達王師達も気遣い軍議を進めるどころではなかったろう。ジフォルゼは思わず溜息を吐いてしまった。
「これではマーガン大将達も……、戸惑いますよね。」
「それだけじゃないさ。ザオデュエルもマーガン達も、キミを小さな頃からずっと見てきたんだ。そんな娘を、血生臭い戦場なんかに行かせたくないじゃない。」手を翻すと、どこからともなく白いタオルが現れた。それをジフォルゼへ差し出す。「ワタシもね。」
「太師さま。」
「ザオデュエルの最大の失敗は、キミより先に伝令を聞かなかった事さ。」
タオルを頬に当てながら、ジフォルゼはじっと太師を見上げた。ジフォルゼより頭一つ分背の高いのっぽな太師。小さい頃からずっと見上げてきて、いつかは追いつくものだと信じていたが、ジフォルゼの身長は160cmを手前に止まってしまった。
「…太師さま。ありがとうございました。中立役をしてくれて…。」
「魔術師はね、意志と言葉には従順な生き物なんだ。父親に立ち向かうキミの強い意志を無下にしたくないと思ってしまった。キミの意志がもっと弱かったら、良かったんだけど。」
「いえ、引き下がれませんでした。」
ジフォルゼははっきりと首を横に振った。
「どうして?」
「太師さまが言ってた通りです。…お父さんはもう半年以上、家に戻ってきていません。わたしにはほとんど下界の事や王師の事を話さなかったけど、きっと下界はわたしの想像以上に荒れていて混乱しているんだろうなって。」
「…。」
「何かしたかった。疲れ切っているお父さんを見て、何もせず家の中に閉じこもってるなんてできなかった。王師が足りないなら、わたしが王師になって下界に向かえば良いんだって思ってました。その為に剣術も習いました。…だから将軍に選ばれて、わたしはとても光栄なんです。やっと力になれるんだって、思ったから。」
「…。」
「わたし、今とても嬉しいんです。」
「…。そう。」
太師はジフォルゼの意志を否定しなかった。それが有難かった。太師はいつもこうしてジフォルゼの話を最後まで聞いてくれる。小さな頃は遊び相手だったが、今では良き相談役だ。ジフォルゼは太師の隣に居ると、とてもホッとする。
ジフォルゼは会議場から視線を上げ、遥か彼方の空へ向けた。大聖堂区のずっと向こう―――聖都の大陸が途切れ海に続くその先に、天まで届く白い門が伸びている。一見は空に描かれたただの文様だ。「聖門」。ここ聖都と下界を繋ぐ門だ。
「あの門の向こうに、下界があるんですね。」
「そうだよ。」
「…どんなところなんですか?」
聖都で育ったジフォルゼは、下界を知らない。あるとは知っていたが見たことは無い、別世界だ。
「大体は聖都と変わらないよ。一番大きな違いは、国があるってところかな。聖都は自然の中に住処を作るけど、下界は森を切り開いて大きな一国を築くんだ。ここから見える一望が全部建物っていうのも、珍しくないんだよ。」
「へぇ…。そうなんですか…。」
見たことが無い世界に興味をくすぐられる。矢継ぎ早に質問をしようとするジフォルゼを、太師は軽く制す。
「制裁は、キミの想像以上にキツい筈だよ。」
「…。」
経験については既に問われている。これまで話題に出てきておらず、新たに問われる要素。あるとすれば1つだ。
「…この髪の色ですか?」
「…そう。」
煌びやかに輝く黄金。誰もが目に留め、心がざわつかぬ者は居ない。高貴にして、自然界には存在しえない唯一無二の色。
ジフォルゼ=ランザートが生まれながらにして持ち、同時にこの世界に深い悲しみと絶望を齎した、色だった。
ジフォルゼはウェーブ髪をくるくると束ねて頭の後ろに1つに纏める。片手で帽子を被る仕草をした。
「帽子を目深に被ってしまえば、見えないと思います。瞳も髪も。大丈夫です。太師さま。」
「忘れないで、ジフォルゼ。例え下界の奴らが何を言っても、キミ自身の存在を脅かすものじゃない。キミはキミ。ジフォルゼ=ランザートっていう女の子なんだからね。」
「はい。無論です!」
拳を握り締めてドンと胸を叩くジフォルゼに、多分太師は困ったように笑顔を向けた。手を伸ばし頭を優しく、金色の髪を慈しむように撫ぜる。ジフォルゼは目を細めて太師の手を受け容れた。
「決して忘れないで。キミはワタシが護るから。」
「はい。」
温かい太陽の光が降り注ぎ、静かに時を紡ぐ聖都〈エンディホノム〉。
制裁開始は、刻一刻と迫っていた。
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