悪夢を泳ぐ金魚

 ずっしりと重たいガラス製の扉を押すと、カラランと頭上でベルが鳴った。足を踏み入れた店内にはところ狭しと水槽が並べられ、それらの透明な箱のなかでは色とりどりの魚たちが鮮やかな水草の合間を縫うように行き交っている。外に負けじと高湿度の空間に水音とともにポンプの発するヴーンという低い音が響く。

 なかを見回すも、一向に店の人間が現れない。一体何のためにドアにベルをつけているのか。

 アクアリウムショップ、AQUA ART GOTOHは駅前の大通りから少し離れた、繁華街のはずれに位置している。午後三時前の平日とあって、通りを行き交う人影はさほど多くなかった。

 特にすることもないので手近な水槽を覗くと赤と青の派手なメダカのような小魚が泳いでいた。プライスカードには「カージナルテトラ゛ネグロ産゛一匹四百円」とあった。このメダカ一匹で(メダカではないのだろうが)昼に食べたコンビニ弁当くらいするのか……。ちょっとしたバスタブくらいはありそうな大きな水槽には数万から数十万の値が当たり前のように踊っているが、わたしにはどれがどの魚の値段かわからないし、なんならスーパーの鮮魚コーナーに並んでいる鯖や鰤との違いすらもわからないのであった。

 そうしているうちにカーテンを引くシャッという音がして振り返ると、カウンターの間仕切りの向こうから長身の男が現れた。男はこちらに一瞥をくれるとレジ脇の合皮っぽい黒い椅子にどかっと腰を下ろした。立派なあご髭とオールバックに撫でつけた髪には白いものが混じっている。細く尖った鼻に載ったシルバーフレームの眼鏡からは、老獪な犬鷲のような瞳がこちらを窺っていた。

 「客が来ないからってサボってんじゃないわよ」

そんな知人のなかでも指折りの近寄り難さを醸し出す男に、わたしは開口一番そう吐き捨てた。

「失敬な。最近はネット通販の客も多くてな、こう見えて結構繁盛してるんだぞ」

「で、今日はは入っているかしら?」

単刀直入に本題に入ったわたしに、彼は早秋の柿を食べたように眉根を寄せた。

「なくはないんだが……、これをお前にやるのは正直あまり気乗りはしない」

「なによ。店が客を選ぼうっていうの?」

 この店の主、後藤辰治郎は「うるせえよ。そもそも客でもねえだろうが」とぼやくと、レジ奥のキャビネットのガラス戸をスライドしてコクヨ製の薄いリングファイルを取り出した。

「え、嘘。鍵かかってないの?」

「鍵なんてかけちまったら、ここに大事なもんが入ってますよーつってアピールしてるのと変わらん」

彼はそう言って保険屋やカード会社でさえ足元に遠く及ばないレベルの個人情報を雑に放った。

「今お前に渡せる仕事はこれだけだ」

「ふーん……………悪くないじゃない。何が問題なのよ」

「ターゲットのプロフィール見てみろ。それお前んとこの大学だろ。歳も同じだし、下手すりゃ同学年かもな。流石のお前さんでも、同級生殺しは寝覚めがよくないんじゃないか?」

「いえ? 別に気にしないわ」

いいか川瀬、仕事は貰えるだけでありがたいんだぞ、とは二年の就活浪人の末にやっと入った会社で過労自殺したサークルの先輩の言。

「ふん。それならいい」


 再びカラランとベルが鳴ってひとりの少年が現れた。高校生くらいだろうか、この店の客層からは随分若い。ドット柄の白いシャツにブラックのデニムというこざっぱりした服装のなかに、斜め掛けしたボディバッグと赤色のナイキのスニーカーが年相応の活発さを覗かせている。すると少年の来訪に気づいた後藤が目線を上げ、「おい、三十六分の遅刻だぞ」と彼に言った。少年はわたしに気づいて小さく頭を下げると作業台の奥に消えていった。

「バイト入れたの?」

「ああ、日下部くさかべのやつ、親父さんが倒れたとかで地元に帰っちまってな。俺は配達やら仕入れやらで店を空けることが多いし、一人じゃどうにもならねえたぐいの力仕事もある。人を雇う余裕なんてねえが、こればっかりは他にどうしようもないわな」

 つってもあんなガキしか来なかったが、と言って後藤は大きく溜息をついた。城の王であるところの彼も人並みに経営者としての苦悩を抱えているようだ。

 しばらくするとぽつりぽつりと他の客が来始めた。流し台では先ほどのバイト君が客から指示を受けて大量の金魚を袋詰めしていた。水槽にはピンク色のマジックで一匹二十円と書かれているのが見える。

「ずいぶん安いのね、金魚って」

「あれは餌用だ。肉食魚の飼育者が買っていく」

「ふうん。金魚って水槽と餌の他になにか要るの?」

「そりゃ室内飼いならフィルターとかライトとか……。なんだ、飼うのか?」


 わたしは後藤が見繕ったいくつかの飼育器具や餌とともに三匹の金魚を買った。生きものを飼うのなんて子供の頃のカメ以来だなぁなんて考えながらビニール袋のなかの紅白の魚と目を合わせようとしてみたり、夜に帰宅してくるであろう妹の驚いた顔を想像してみたりした。






***



 女性が店を出たあと、僕は発送作業に取りかかろうとする店長を「すみません、さっきの女の人って……」と呼び止めた。。

 あ? と向けられた目は猛禽類のそれのように冷たく鋭くて、僕は声をかけたことをすぐに後悔しそうになる。

「えっと………その、あのお客さんはよく来るんですか?」と絞り出すのがやっとだった。

店長は少し驚いたように、なんだ、お前がウチの客に興味を示すなんて珍しいなと言い、

「だがあいつは客じゃねぇよ。いや、今日は珍しく買っていったか。多少違うがまあ、゛業者゛みたいなもんだ」

と言った。

「次いつ来るかとかわかりますか?」

「おいおい、本当にどうしたんだ。なんだ、あいつに惚れたのか? これは親切心から言うが、それだけはやめたほうがいいぞ。そりゃ多少顔はいいかしらんが、あいつは関わった人間が軒並み不幸になるような、そういう女だ」

そういうわけじゃないんですが、と言いかけたところに「ちょっと頼める?」とお客さんから呼ばれた。店長に促された僕は、はいただいま、と接客に戻った。

 誤解なきように強調しておくが、僕は別にあの女性客そのものを気にしているわけではない。確かに彼女は美人と言って差し支えない容姿をしていたが、なにより僕が気にしているのは店長と彼女が見ていた謎のファイル、そこに記されていた「君塚優」という名前だ。

 君塚優は僕の――――――――。



***

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ジャッジ 機織 了 @hataori-desk

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