女友達② -1
ピピピピという不快な電子音が耳に響くと同時に、私は目の前のスマートフォンを指でなぞってそれを黙らせた。
ひどく抽象的な夢を見ていた気がするが、こんな風に蛍光灯が煌々と輝く研究室のデスクに突っ伏して寝ていては眠りが浅くなるのも当然というものだ。
のっそりと顔を上げた先にデスクトップPCがあった。書きかけの実験レポートの上でチカチカと点滅を繰り返すカーソルは、一向に前進することができず苛立っているように見えた。
今回はいつにも増して出来が悪い。そして、具体的な改善策は見つからない。単純に頭が悪いのかもしれない。
立ち上がりざまにすっかり凝り固まった首と肩がバキバキと抗議の声をあげた。分厚い毛布でも頭から被ったように身体が重かった。
「仮眠をとれば集中力が戻ってスラスラ書ける」などと考えた私が馬鹿だった。もともとないものは取り戻しようがない。
……今日はもう帰ろう。
パソコンを閉じ、部屋の明かりを消した。
真っ暗な教室に女学生がひとり。なんて、怪談でも生まれそうなシチュエーションだけれど、パソコンが整然と並んだ大学の研究室では会社のオフィスと言ったほうがイメージに近いかもしれない。
このキャンパスは小高い山に半ば埋もれるようにして鎮座していた。田舎の夜は重い。照明を落とすと、これまで追い出されていた夜が流れ込み、ここは自分の領土なのだと主張した。
もしやかつての級友たちはこんな時間でも明るいオフィスで仕事していたりするのだろうか。彼女たちもなんだかんだ言いながら頑張ってしまう人たちだ。無理してなければいいなと思う。
「おっつー、キミちゃん」
研究棟を抜けてラウンジに出たところで声をかけられた。
夜十時を回った学内はすでにどこも無人のはずだが知合いが残っていたとは意外だった。
私を「キミちゃん」と呼ぶ人間はひとりしかいない。フルネームが「君塚優」であるためだが、他の友人からはもっぱら下の名前で「ユウ」と呼ばれている。
「お疲れ様。久し振りだね。元気だった?」
彼女、「川瀬さん」とは比較的最近になってアルバイト先で出会った。といっても教授の学会に同伴する旅費のために応募した短期のアルバイトだったので、顔を合わせるのはそれ以来となる。同じ学校なのは聞いていたが、学内で会うのは初めてだ。
「そういえば例の学会はうまくいったの?」
彼女とは同じ大学の院生どうしで学年も一緒だった。自然と仕事の空き時間を共に過ごす機会も多く、そんな話もしたのだ。
同伴出席とは言っても実態は教授の雑用係なので、うまくいくもなにもなかったのだが。ちなみに大学からの補助金は経費の半分も出ない。゛勉強料゛というやつだ。
正門から敷地を出ると、申し訳程度の街灯が駅までの道をポツリポツリと照らしていた。
「それはそうとキミちゃんがまだ残っててよかった~。この時間にひとりで帰るのはちょっとさぁ……」
「それは私も同じかな。こんな身近なところであんな事件が起こったなんて未だに信じられないよ」
「犯人は捕まったわけだし、ほんとはもう心配しなくてもいいんだろうけどね。あ、キミちゃん電車どっち方面?」
川瀬さんが私の顔を覗く。無意識に下がっていた私の視線が掬い取られる。彼女の形の良い耳にかかった髪がはらりと一房滑り落ちた。
私はこの近くに下宿してるから電車は乗らないのだと言うと、川瀬さんは「そうなんだ。なんかついてきてもらっちゃってごめんね?」と申し訳なさそうに言った。
「ううん。どのみち駅前は通るし気にしなくていいよ」
「キミちゃんは優しいなー。ね、今度時間が合えばまた一緒に帰ろ」
そこでお互いの連絡先を知らないことに気付いた。
私はポケットから、川瀬さんはハンドバッグからそれぞれの携帯端末を取り出してメールアドレスを交換した。川瀬さんは二つ折りの携帯を使っていた。
手早く「こんばんは、君塚です。よろしくお願いします」と入力したメールを送信する。間をおかず川瀬さんの携帯から音楽が鳴り受信を知らせた。私のスマートフォンにも彼女からの受信の通知が届いた。
部屋についてから、学部を卒業して以来初めて増えたアドレス帳を眺めた。
封筒のマークの隅にちょこんとついた数字が未開封のメールがあることを知らせていた。
アイコンをタップすると一件だけ「non title」と記された未読のメールがあった。
そういえば、川瀬さんがあのとき送ったメールは受信を確認しただけで開いてはいなかった。
彼女からのメールには『テスト』とだけ書いてあった。
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