x=5 彼は------⑤
原田海がいつものように前の席に座りながら、僕の勉強する光景を眺めていた。今日も彼女は夜遅くまで暇だからと言いながら居座り続けた。
帰らなくても大丈夫なのかと僕が聞くと彼女は、一緒に帰る奴を待っていると言った。僕としてはここに原田海の仲間が来るとなれば、同席したくはない。彼女のことだからさっさと出ていくのだろうけれど、あんな圧迫感のある奴らばかりを身近にして心安らぐわけなかった。
「ほら、ここ間違ってんじゃないの?」
だが、原田海本人は気にも留めない様子で僕の誤謬を指摘する。
「そうかな」
「いやいや、ここで代入する式間違っているよ。雄太郎の頭の中では解けた気でいるのかもしれないけど、答えは絶対に違うはずだ」
答えを見てみると確かにその通りだった。
「やっぱりね。私なんかに教えられるなんてまだまだだよ。私なんてこの学校に入ってからまともにシャーペンすら握ったことないのに」
「それは嘘だ」
「本当だってば。課題とかも全く出してない」
それは駄目だろう、と心の中では言うが僕は黙っていた。だが、問題の理解力に関しては谷川先生より上回っているように思える。知らなければ難解であるはずの問題も少し眺めれば、解けるようになるのだ。原田海みたいな人は勉強をしなくとも、ある程度は悠然とこなしていく。以前の学校でもそういう類の奴らは多く見てきた。僕とは違う世界に住んでいるのだろう。
「遅くなって悪い」
声の方を原田海は、見上げた。
「遅かったじゃん。良平」
彼女は手を上げながら、屈託のない笑顔でその男へと近づいていく。僕はその様子を知りながらも、机のノートから目を離さなかった。原田海が帰るのは少し嫌だったが、待ち合わせていた男と共に早くここから出ていって欲しかった。
学習室には他に誰もいないから、三人だけの空気はとても痛く感じる。
「あれ誰?」
「うん? 私の幼稚園からの友達。雄太郎って言うんだ」
「ふうん」
そのやり取りを背中で聞いて、早く帰ってくれと僕は切に願った。知らない人物に友達を仲介して存在を知られるのは、とてもむず痒く感じる。増してや、原田海の友人などには特に。
「え、嘘だろ? お前あんな奴と友達なの?」
良平と呼ばれる男が言った。僕は一層握っているシャーペンに力を込めた。
「あんな奴って言うなよ、良平。私の幼馴染なんだから」
「いや、でもあんな地味な奴とよくいられるな。てか、会話とか続かなそう」
息を吐きだすのにも僕は、意識しながらではないと出来なくなっていく。汗がじんわりと額を伝った。
「出来るさ。良平、あんた相当口悪いよ。そんなんだと女の子にモテないと思うよ。それじゃあ、祐太郎じゃあね!」
原田海の声が一段と強くなった、早く行くよ、と。そして、音からして良平の背中を押しているようだった。僕はそのさようならに、返事はしなかった。いや、できなかった。振り向いて、目を合わせて、声を出すだけのことができなかった。
「でもさ」まだ男の声が廊下を反響して聞こえた。「海があいつと帰らずに俺と帰っているってことは、俺の方が女の子にモテているじゃん。海の言っていること間違ってない?」
続けて原田海の声も聞こえた。
「雄太郎は夜遅くまで勉強するんだよ。それで、私は一人は心細いからあんたと一緒に帰ろうと思ったの。本当についでのついでだから、あんたは」
「そこまで言うなら最後まで待っていればいいだろうが。あんな奴、どうせここに来てまで勉強しているのっていじめられたからだろ?」
勉強に集中しようと僕は思った。何も聞こえずにやり過ごそうと考えた。誰に何を言われようと、もう真に受けないと心では誓っていたが、動じずにはいられない。原田海に直接男が言うことに一番吐き気がした。
彼女も心の底ではそう思っているのだろうか。ただ口に出さないだけで、そう思っているのだろうか。けれど、彼女は優しく、僕の触れて欲しくない過去を口にはした事がない。
違和感があるほどに、僕がここに居ることを追求しないのだ。
二人の荒げた言葉がぴたりと、やんだ。小声で話し合っているみたいだった。それはとても怖く思えた。次に何を言われ、何をやられるのか不安に駆られる。内緒話をしているのかもしれないし、陰口を二人で言い合っていることが僕の身近ではいつもあった。
しかし、次に起こった出来事は僕の予想の範疇を軽く越していた。
「雄太郎! ごめんけど、私と帰ろう!」
その時ばかりは僕は、扉の方へと振り向いた。
「早く帰る準備をしてちょうだい。勉強の邪魔をして本当に悪いんだけど、とにかく今日だけでも私に付き合ってくれない?」
「え、ああ、別に良いけど」
本来なら断るべき性格の持ち主の僕でさえも、彼女の勢いには逆らえなかった。僕の机までやってきて、一緒に中身をしまい(と言っても彼女は乱暴に詰め込んだが)、原田海は僕の手を掴んだ。そして、学習室の電気やエアコンの電源を颯爽と消すと、廊下を足早に駆けていった。
廊下には帽子を目許まで被って厚いジャンパーを羽織った男が携帯を見ながら突っ立ていた。三人で帰るわけではなく、原田海は男にそれじゃあ、と言うだけで横を通り過ぎてしまった。僕を見る男の視線が痛く、通り過ぎる際には舌打ちの音が僕の鼓膜を揺らした。
原田海は開口一番、謝罪とお礼を口にした。息を少し切らすも、いつもと変わらない語調でだ。
「ごめんね、本当にごめん。でも、本当にありがとう。助かった。あいつに私が苛立ってしまって、それで雄太郎まで巻き込んでしまったのは本当に悪いと思う」
僕たちはビル街を抜け、点在する街灯の下を何個も通ってきた。駅までの道を誰に追われているわけでもないのに、走ってきたのだ。彼女の金髪は風で乱れ、だらしなく立っていた。僕はといえば彼女よりもない体力のなさを痛感しつつ、ベンチに腰を下ろしていた。
電車の時刻はあと少し。彼女が乗るつもりの電車だった。
「僕は別にーー、大丈夫だよ」
息を切らしながら情けない声で僕は答える。
「本当に悪かった。雄太郎の勉強の時間を無駄にしてしまった」
「大丈夫だよ。それぐらいじゃ変わらないから」
あの後、僕は勉強に手つかずにいただろう。
「それと、良平のこともごめん。嫌な気持ちにさせちゃったよね。私が言うのもあれだけど……」
「僕は大丈夫だよ」
頭を下げている原田海が僕の顔を見上げた。けれども、僕は目を合わせられなかった。それで、彼女が徹底的に触れないでいる事柄を僕は言った。
「彼の言う通りだしね。僕はいじめられて学校をやめ、ここにいるんだから」
「それでも雄太郎は大学に行こうと努力している」
反射的に彼女の口からその言葉は飛び出した。僕は面をくらい、それこそ呼応するように言った。
「一度逃げているんだぜ。それに、今更頑張っても僕が目指す大学には行けない」
沈黙が続いた。原田海が破った。
「そこまで気にする必要あるの?」髪を整えながら言う。「大学に、それにいじめられていたことにそこまで執着する必要はなくない?」
「僕もそう思うよ」次に僕は首を振った。「いや、やっぱり分からない」
僕としては大学なんて本心から行きたくなくて、いじめの事だってもう忘れたかった。でも、どちらも忘れられないし、考えてないと息苦しくなるのだ。大学に行くことで、高校を退学しいじめられたことが帳消しになると思われた。僕は今を頑張って生きていると思いたかったのかもしれない。
原田海が取り乱す様にして謝った。
「ごめん、変な質問をして。もしさ、それならさ、大学に受かったら嬉しいだろうね」
「そりゃあ僕はすごく喜ぶと思う」
「私も大学には行きたかった。こんな馬鹿みたいな成りをしているけど、学校の先生に成れたらなって思う事は度々あったりして」
原田海は金網に隔てられた向こう側に視線を動かした。電車が通り過ぎ、ホームにいた人は消え去っていた。
「か―、かいは」僕は汚い咳ばらいをした。「海は、大学に行かないの?」
「就職すると思うよ。大学に行く金がないんだもの。うちにはお姉ちゃんがいるけど、今はもう働いてるし、お母さんは頑張ってくれているけどやっぱり家計は厳しいし。ほら、前にタバコは嫌いだって言っていたじゃん。タバコの吸いすぎで癌になって父親死んじゃって、色々厳しいんだよねえ」
僕と同じだと、いやしくも思ってしまった。
思い出したように海は言う。
「あ、時間もうすぐじゃん」
「そ、そうだな」
僕はわけもなく取り乱しながらベンチから立ち上がった。
駅の階段を上り、改札を抜け、そしてまた階段を下る最中に彼女は独り言のように呟いた。
「ま、何とかなるもんだと私は思っている。雄太郎もいることだしね。分からないことがあったら、教えてもらえるだろうから」
僕は聞こえないふりをしながら、彼女の言葉にしっかりと耳を傾けていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます