x=4 彼は------④

 あれから勉強室で大人しく勉強をしていると時折、原田海が話しかけてきた。僕が机に広げている参考書や教科書を見て、感嘆するような口ぶりで褒めたりしてきたり、特筆することのない会話を二人でした。一度、僕を殴った長髪の男が彼女に連れられ、謝られたことがある。まるで保護者と子供のようで、しかも話に聞くには男の方は年は二十を超えているという。謝られてもただただ怖いだけだった。

 原田海は、単位取得を第一に考えるクラスに属していた。一応ながら、毎日学校に来ているようだが、勉強らしきことはしてないと彼女は言った。

「ま、家にいても暇だし、それならここに来るしかないだろう? 友達と遊べるし、こっちの方が地元より都会だし。雄太郎もよく夜遅くまでここにいるじゃん」

「まあ、そうだな。家にいても勉強に集中できないし、それにどうも気まずいというか……」

 原田海の表情が一瞬、真剣になったように見えた。が、勘違いらしく元の優しげな表情のままだった。

「私と一緒だね。だから、私も勉強もしないのにここに居座ったりしているんだ」

「今日は待ち合わせしているの?」

「いや、ただの暇つぶし。あと少し電車も遅い方が、乗る人数が少ないし」

 彼女は待ち合わせの時、ここを愛用していた。待ち合わせをこの場に指定していない時も決まって留まっていたりする。エアコンがあり、寒い季節は暖かく、暑い季節は涼しいからだろう。人を待っておくには最適な環境だ。

「勉強を雄太郎は楽しいと思う?」

「楽しくなくてもやらなきゃいけない」

「そうだね、私もそうは思う。楽しくなくても、人生においてやらなければならないことの一つだとは思うね」

 けれど、と原田海は言った。

「面倒なことはなるべく避けたいかな。楽しいことを優先してやりたいよね、普通。あ、別に雄太郎の生き方を批判しているわけじゃないから」

「分かっているよ」

「やりたいことをやる、それが私のモットー。勉強を頑張りたいと思う、それが雄太郎のモットーだ。他人は口出しできない」

「カッコいいことを言ってくれる」

「だろう」

 そうやって彼女は会話に一段落付くごとに笑う。

 中学校の頃はもちろんだが、小学校の原田海の記憶も既に廃れていて曖昧な部分が多い。こんないつも楽しげに笑っていただろうか。いや、人生を謳歌しているに違いなかった。笑いに過敏に反応している自分も相まってそう見えるのかもしれない。

「そんじゃあ」

 携帯の時計を彼女は一瞥し、いつものようにさよならを言う。僕は更に時間間際まで勉強をして帰る。だから、彼女だけが先に帰っていく。一度話し始めると集中力が途切れて、この後はまともに勉強できなくなるので、結局は今帰っても勉強の進捗に大して差はない。だが、僕は出来る限り勉強に打ち込まないとならないし、それに同じ電車に乗って帰るなどできやしない。実を言えば、こうやって一対一で話すのにも僅かながらも緊張するのだ。

 原田海は僕と話すときは大抵一人でやってくる。恐らく気を遣っているのだろう。僕が彼女らを畏怖しているのを分かっているのだろう。


 優しい人だと僕は思う。

 とても良い人だと泣きそうになるぐらいに僕は思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る