x=2 彼は------②

「それじゃあ、駄目だね。川原君」

 と、谷川先生は数学の問題の訂正を促す。

 薄汚れた黒板に書かれた公式を谷川先生は指さし、「これを使えばいいんだ」と言った。

「いや、公式はあっているんですよ。ただ、途中式を間違えただけなんです」

「本当だ。じゃあ、そこを修正しないと」

 谷川先生の指摘する部分は間違っている箇所が多い。それこそ、初老の教師のボケ並みに抜けた回答を黒板に記し、生徒に注意されることだって少なくはない。

「因数分解とかは高校生でやる範囲じゃないですよ。僕は早く勉強を進ませたいんですよ」

 それでも、そのどこか抜けた人柄の良さのせいからか、話しやすいのには違いない。教師と生徒というより、兄弟の関係に近かった。最初は僕も喋るのには、苦手な部類に入ると斜に構えていたが、そんな事はなかった。

「ほら、八幡君や田畑君は既に全問解いて、しかも一つも間違っていない。君だけだぜ、出遅れてなお、問題にミスがあるのは」

「……分かってます」

 ここに編入してから一ヵ月が過ぎた。僕は大学進学を目標とする進学コースに籍を置く。単位制高校とあってか、進学を第一に考えるよりもとにかく卒業を目指す生徒が多いこの学校は、僕の所属するクラスはやけに人が少ない。人付き合いの苦手な僕としては大変ありがたく、クラスを構成する生徒たちも過去に自分のような境遇を味わってきた人が多いので、話しやすくはあった。けれど、だからこそ生徒間には壁とまでは行かなくとも、薄い膜のようなものがある。

 元より、僕から人に話しかけるのが苦手なのに、相手方も似たような部類だ。その為、中々友好的な関係にはなりにくかった。

 僕が隣の席の八幡君に凄いね、と言うと彼に簡単だよ、と返す。それ以降は会話は続かないし、どこへ進むのか見当もつかない。そもそも、僕は目の前に提示された課題をこなさなければならないのだ。このレベルの問題で足止めされている自分に苛立ちを覚える。

 授業が終わると、僕は学習室へと向かう。この学校はビルを強引に改築した痕跡があちこち残されており、道なりが複雑化している。一階にある学習室までの道を毎日通っていても覚えられる気がしない程だ。横目で漫画研究部や、美術部や、文芸部を眺めながら薄暗くぼんやりとした廊下を歩いていくとそこへたどり着いた。


 学習室に入ると廊下よりも寒く感じた。隣のビルとここのビルを通る吹き抜け風が窓を開けているために、何の障害もなしに入ってくるのだ。季節は冬だから、寒いに決まっている。けれど、その窓を閉める勇気はない。その付近には、いかにも柄の悪そうなスキンヘッドに、金髪の少し露出過度な女子に加え、長髪の目つきの鋭い男が居座っているからだった。そして、手には女子以外たばこを口に咥えている。窓を開けているのはその為だった。

 教室には長机が横に三つ付随しており、それが五列並べられている。前列を占領するガラの悪い人たち以外にも口を閉ざして勉強に励んでいるので、その隅に僕も泣く泣く勉強道具を広げた。

 別に彼らは無為に絡んでくるわけでもないので、そこまで気にはしなかった。ただタバコ臭いのだけは勘弁してほしい。一応ながら、ここはこの高校は禁煙指定されている。

 僕は別段、彼らとは関わりたいわけではなかった。ただ、運が悪すぎただけだと推察される。

 勉強してから二時間ぐらい経過した頃だ。

 隣の席に誰かが座った。誰かは分からない。純粋に見知らぬ誰かだ。僕は気にせず、勉強を続けていたが、隣のその誰かが、一言苦言を漏らしたのだった。

「タバコ臭すぎるだろ、どうして周りの迷惑を考えないんだろうね」

 その声から察するに、男だった。顔を見ると似たような年頃でもあった。しかも、その男は僕が訝しげに見つめると睨み返してきた。

 だが、不安視するべき事柄は他にもあった。その声が濛々と煙をくゆらせている彼らの耳に着実に届いていたのだ。僕は知らぬふりを貫きそうと俯いていたが、何故か彼らは僕に声をかけてきたのだった。

「何か文句でもあんの?」

 視界の端で見るに、長髪の男だった。きっと何か大きな勘違いをしている。僕はそう言いたかったが、声が出なかった。黙って気がつかないふりを続けるが、男は僕の肩を叩いた。

「無視するなよ。お前に言ってんだけど」

 心臓が喉から出る思いだった。隣の席の奴の発言だというのに、どうして僕が責められる筋合いなのだろうか。しかし、僕は反論をしない。恐怖からもあるが、事当然に僕だと認めたくなかった。

「やめなよ、あんた」

 その声を聞く頃には、襟元をびっしょり汗で濡らすぐらいには時間が過ぎていた。

「隆二、あんたここでむやみに絡みでもしたら、教師にまた睨まれるよ。それに、彼の言う通りでもある。私だってあまりタバコの臭いは好きじゃない」

「ああ、だけど面と向かって言われるならまだしも、こうやって陰口のように言われるのが俺は我慢ならないんだ」

 僕は祈ったと思う。

 その声の持ち主に、短パンにこの季節には似合わないノースリーブの金髪女に、このまま話を逸らしてもらえるようにと。

 しかし、そうはならない。

「それには同感。せめて面と向かって話すべき」

 そう言って彼女は僕の胸ぐらを強引に掴み上げた。そうして、直接彼らの顔を拝んだわけだ。彼女の顔は金髪のわりには化粧をしていなかった。偏見だろうが、口調や態度からは思いもしない童顔だった。加えて、彼女の顔はどこか遠い記憶にぼんやりと残っていた。

 先に気がついたのは、僕ではなく彼女だった。

「あんたどっかで見た顔だな」

「そんな事どうでもいいだろうが」

 隣の長髪の男は俯いていたから知らなかったが、身長が高く、僕を高い場所から見下ろしていた。


 そうして、つぎの瞬間には僕の顔面に拳が振り下ろされていた。

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