3. 川底にて
「おばあちゃんっ」
心配そうに覗き込む顔。
目を二、三度瞬く。
「あら、どうしたかしらね」
掠れた声で問うと、誰も何も答えずにただよかった、と涙を流した。
「小野ハルはあともう七年生きるって報告しといてくれ」
男は青年に言うと、青年ははいはい、と頭をかくとその姿が透け始め、すぐに消えて見えなくなった。
「花の色はうつりにけりな、か……」
男は一人、舟の中で腰を下ろし、手帳のようなものを懐から取り出した。
「皆いずれは老いていくんじゃが、そう悲観することはないけぇ。花は散るんじゃがそれで終わりじゃないけん。また春になれば花を咲かす。悲観してれば見えるものも見えなくなるけぇのぉ。散る花もまた美しいものじゃし、誰かの為にだけ生きるなんざやめて咲き誇ればええ」
男は小野小町の句を取り出した手帳に達筆な文字で書きつけ、小野ハル、と書いた。
「ハルさん、嫁さんは捕まっちまったよ」
誰もいない昼下がりの病院の談話室。
その一角に、ちょこんと老人と老女が並んで腰掛けている。
老人、
ハルはただ黙って頷いた。
ハルは七年前から体が不自由になり、誰かの介助なしでは生活するのもままならない状態になっていた。
かろうじて寝たきりまでにはなっていないが、下の世話も必要になっていた。
ハルの介護は全て息子の嫁がし、息子は仕事が忙しいと言って家族とまともに話をする時間など全くないに等しくなっていた。
嫁のストレスはハルにぶつけられた。
最初は献身的に世話をしてくれた嫁であったが、それは最初の数年だけで、ここしばらくはハルの食事も粥ばかりであったり、残り物としか思えないようなものばかりになった。ハルは人間ではなくなっていた。
出歩くことも
洗濯物をたたむぐらいは、と思ったりしたこともあったが、まるで汚いものを見るような目で嫁に冷たく当たられたこともある。
言葉ではなく、そういった仕草や視線、そんなものがハルを傷つけていた。
だが、あの日は。
「これからあの人はどうなってしまうの……?」
ハルはとっさに嫁の名が思い出せず、あの人、と訊いた。
「事故だと主張してるし、状況証拠も分かってる。だから、あまり重い罪には問われないよ。でも、世間はそうはいかないだろうなぁ……これからが大変だ。ハルさんはどうするね?」
重三に問われ、ハルはそうだねぇ、と言って膝の上にちょこんと乗せた自分の皺だらけの手を見つめた。
事故だった。
ふらりと部屋を出ると、嫁とぶつかった。
「気をつけてくださいっ」
嫁の口調はいつも冷たい。ぶつかった弾みで落とした洗濯物を拾いながら、まったくいつまで生きるつもりかしら、と小さく言う声が聞こえ、ああ、ごめんなさいねぇ、と言おうとしたハルの言葉がもつれた。
嫁はイライラしながら、拾い上げた洗濯物を手に、そこ邪魔だからどいてくださいっ、とハルにわざと強くぶつかった。
ハルはぐらり、と世界がゆっくりと回るのを見た。
一瞬のことだったが、なぜかとてもはっきりとハルの目には全てがしっかりと映った。
階段を落ちたということは分かった。嫁の口と目が大きく開いて、悲鳴を上げたのかもしれなかった。
けれど、そこから先のことは何も分からない。
次に気づいたら病院のベッドの上で、もうすぐ小学校に上がる孫の顔が覗いていた。
「一番かわいそうなのは私より孫だよ。母親が警察に連れて行かれたんだから。いじめられやしないか、それが心配だよ」
ハルがそう言うと、重三はハルさん、と笑みかけた。
「あんたは人のことばかりだ。少しは自分のことも考えなきゃならん。嫁さんのことも憐れんでる。違うかね?」
「……そうだねぇ……自分の為に咲き誇らなきゃねぇ。それくらいは過ぎた願いじゃないだろうよ」
「なんだね、その過ぎた願いってのは?」
「あら、やだ。あんたが言ったことだろうに。忘れたのかい?」
「いや、わしじゃないよ」
「じゃあ、誰に聞いたのかしら? よく覚えてないよ」
誰だったかしらねぇ、とハルは首を傾げて笑んだ。
なぜだかとても温かい気持ちでいた。
ハルの手には孫が折った不恰好な折鶴があった。
「千年生きなきゃなぁ」
重三がそれを見つけて笑った。
ハルは小さく頷いて、それから再びそうだねぇ、と強く頷いて笑った。
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