1. 舟の上にて

 緩やかな流れの中、小さな舟が一艘、音もなく川を下っているのか上っているのか、ゆらゆらと揺れている。

 舟には三つの影。

 三十代半ばと思われる男と黒い猿、そして白い着物を着た老女。


「大きな川だねぇ」


 老女は舟の真ん中に身を置き、不安そうにちら、と川面を見る。

 男は舵を取りながら、カカカッと乾いた笑いを響かせた。

 辺りは深い霧に包まれ、川岸どころか行く手さえ見えぬ状態である。


「わしが舵を取っとるんじゃけぇ、落ちゃあせん。この仕事を何百年とやっとるが、落ちた奴なんかおらんし、この川がわしの舟をひっくり返すなんざしゃぁせんのじゃけぇ。安心してお嬢さんはただそこで澄ましとりゃええけぇ」


 男はそう言って楽しそうに笑った。

 方言がキツくて老女には耳慣れなかったが、なんとなく言っていることは分かる。

 人の良さそうな顔が老女に向けられ、その顔に老女も僅かに笑む。

 舟の前に男、真ん中に老女、そして船尾に黒い猿がだらしなく座して空を仰いでいる。


「……この川の下は此岸で、落ちたら生き返るって聞いたことが……」

 ぽつり、と老女が漏らした言葉に、黒い猿が笑った。

 反射的に老女は猿を振り返る。


「すまんのぉ。下品な猿でして。こりゃ、躾を厳しくせにゃあいけんのう」

 男がすぐさま取り繕うように笑み、猿をたしなめるように一つ咳払いして前に向き直る。


 あまりに緩やかで、霧のせいで周囲が見えない為、舟が同じ所で揺れているようにしか感じない。進んでいるのか、止まっているのか。

 老女はただ目の前に立つ男の背を見つめていた。


「花の色は移りにけりないたづらに……って知っとるかいの?」


 ふいに男は前を向いたまま老女に問うた。

 老女は小町でしょう? と訝し気に男の背を見上げる。

 ええ、そうです、そうです、と男は嬉しそうに頷く。


「あれは散りゆく花に重ねて、老いてく我が身を嘆いた歌ですな。見事な歌ですわ」

 老女は俯く。男の意図するところは分からぬが、どこか馬鹿にされた気がしたのだ。


「門まではまだまだあるけぇ、少し不思議な話でもしようかのぉ。門の向こうにも花はあるんじゃが、これがどうにも不思議な花で、美しい花をつけるんじゃが、気に入った者がその花の木を誉めにゃあ咲かんのじゃ。難しい花でねぇ」


 男はそこでちら、と老女の肩越しに猿を見やる。猿は小さく欠伸をした。

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