2. 名前と箱の外
吐いても吐いても、それは途切れることがない。
永遠に吐き続けるだけ。
「つまんなぁい」
ふいに名を吐くのをやめて、バンは床に座り込んだ。
「まだ半分もできてない。もうすぐ二回目が来ますよ?」
「シーは書き写すの好きなの?」
「そんなこと考えたことありません」
「じゃ、考えてよ。楽しい?」
「仕事ですから、やるしかないでしょう? やめてしまったらここにいられません」
「じゃあやめてもここにいてよかったら?」
「そんなことありえませんから、早く続きをお願いします」
淡々と事務的な返答に、バンは子供のように頬を膨らませ、勢いよく立ち上がった。
「もういいっ」
バン? とシーがうろたえた声を出したが、バンは走って部屋を出て行ってしまった。
初めて部屋を飛び出して、バンは知らない廊下を迷いながらも駆け抜け、なんとか建物の外に出ることに成功した。
初めて見る外。
その景色に思わず立ち止まった。
辺りをゆっくりと見回す。
全てが不思議で新しかった。
このさらに外は?
人が、生きている人がいる場所は?
そこへ至る道は?
バンは走り回った。
でも、どの道がどこへ続いているのかさえさっぱり分からなかった。
名前と日付以外、バンには文字が読めなかった。
何が書いてあるの?
知っているのは死ぬ人の名と日付だけ。
それ以外の文字は、例え同じ文字でも読めなかった。
意味も分からなかった。
その事実に気づいて、バンは愕然とした。
本当に自分はそれだけを吐くためだけに存在しているのだと。
「どうかされましたか?」
ふいに声をかけられ、顔を上げると男が立っていた。
「み、道に迷った」
そう言うと、男は広いですからねぇ、と笑った。
「見たところ、死神の新人さんですか? 半身とはぐれてしまったのですね。下に降りる道はあちらですよ。ご案内致しましょう」
何も説明しなくても、男の方から勝手に勘違いして、行きたい場所へ連れて行ってくれるようだ。
バンはなぁんだ、簡単じゃん、とさっきまでの絶望感は吹き飛び、外へ出たばかりの時の高揚感を取り戻していた。
「手のひらを貸して下さい」
小さな扉の前で立ち止まるなり、そう言って男はバンの手をとった。
どこからか筆を取り出し、手のひらに何か文字を書くと、扉を開けてバンを促した。
「お気をつけて。帰りは橋を渡れば戻れますよ」
促されるまま、バンが扉を潜ると、さっと扉は閉ざされた。
その音に振り返ると、景色は一転して、喧騒の中にいた。
見渡すと、生きた人が行き交っている。
途端にバンの頭の中に文字が溢れ出した。
行き交う人の名前と日付が頭の中に巡る。
いやだ。
皆死んでしまう。
やだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだ。
溢れる名前を止めようと、バンは頭を押さえた。押さえたところで、溢れるものを止められやしないことは分かりきっていたが、それでも反射的にそうしてしまう。
その場に座り込んだ瞬間、バンはあることを思いついた。
そうだ、まだここの人達は死んでない。
なら、溢れる名前を止める方法があるじゃん。
それに気づいて、バンはすっくと立ち上がり、信号待ちをしている子供の手を引いた。
数秒後、信号が青になった途端、飛び出して轢かれるところを救うと、名前は頭から消えた。
手を引かれた子供は一瞬ぽかん、とバンを見上げたが、直後、猛スピードで目の前を走り去る車を見て、今度は驚いてその場に固まった。
そのまま信号を渡り、渡り切った瞬間走り出した。
辿り着いたのは踏み切り。
下りた遮断機を潜ろうとする人を思い切り引っ張る。
一緒に勢いよく尻餅をついて、バンは頭から名前が消えたことを喜んだが、ホッとした瞬間、その人は起き上がってどこかへと走り去った。
その人の背を満足そうに見つめていたが、すぐにその表情は一変する。
消えた名前が再び頭を巡り始めたからだ。
後を追おうとしたが、別の名前の存在を見つけて足が竦んだ。
どうして、こうも人は簡単に死んでしまうんだろ。
ふらふらと歩いた先で誰かが誰かを殺し、誰かは病気で死に、誰かは自ら命を絶ち、誰かは事故に巻き込まれ。
名前がぐるぐる巡る。
助けてもまたすぐに死んでしまう。
いつかは死んでしまう。
なんで死ぬんだろう。
「お前は今日死んでしまうよ。ここにいたら死んでしまうよ」
バンは道端を歩く野良猫にそう話しかけた。
猫はバンを無視して細い路地の隙間へ飛び込んで行ってしまった。
疲れた。
そう思った。
何をしても無意味なんだろうか。
そう思った。
「誰か待ってるの?」
ふいに声をかけられ、俯いていた顔を上げると、人が立っていた。
まだ若いけど、ああ、この人も明日死んでしまう。
バンは黙ってその人の顔を見つめた。
「さては、ドタキャン? こんな時間まで待ってたの?」
何を言ってるのか分からなかったから、バンは黙っていた。
「……残念だけど、もう来ないと思うよ? そろそろおうちに帰った方がいいんじゃない? こんな時間だし、最近物騒だからさ、この辺」
バンは言おうか迷った。
言ってもきっと無駄だ。
明日死ななくてもすぐに死んでしまう。
生きてるものはそんなに丈夫じゃない。
でも。
「……明日は近道せずにいつもの道を帰るんだよ」
バンの言葉にその人は瞬いた。
「どういうこと?」
「近道したら死んでしまうよ」
言ってバンは走った。
何か変わる?
名前はまだ消えない。
毎日吐いてた名前はこんなにも生々しい。
顔を見てたら名前を吐けなくなってしまう。
ああ。
もしかしたら。
私が名前を吐くから死んでしまうんじゃないかな。
そんな風にさえ思えてきた。
戻ればまた名前を吐かなくちゃいけない。
なら、ずっとここで口を閉じて生きていようか。
そう思ったけど。
バンは気づいたら橋の前で立ち止まっていた。
シーならどうするだろう?
きっと戻って淡々と仕事をする。
自分が何を書いているか知っても?
多分、シーなら何を見ても仕事をする。
なぜ?
なぜ淡々とできる?
シー。
自分のことなのに、シーの答えが分からなかった。
二つに分かれて、たくさんの時間が経ったせいだろうか。
シー。
シーの答えがどうしても聞きたかった。
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