第9話

 占野しめのの越してきたマンションやその近所には、比較的富裕層の人々が多く、大企業の社長も何人か住んでいるという噂があった。


 占野はマンションから少し離れたところにある大豪邸の、入り口から見えないあたりで待ち伏せていた。

 今更ながら緊張してきた。もし失敗したら「なんでもありません」と言って逃げようか? そう簡単に逃げられるだろうか? もうこうなりゃ一か八かだ…


 どれくらい経っただろうか。大豪邸の前に一台の高そうな車が停まった。

 後部座席のドアが開き、運転手に何か声をかけながら、見覚えのある顔の人物が降りてきた。


 間違いない。占野と同い年という若さでありながら某大企業の社長である人物だった。

 物陰から飛び出して駆け寄り、後ろからばんと肩を叩いた。

 驚いて振り返った社長が声を発する前に、耳元でこうささやいた。

「俺、お前のが全部『欲しい』」


 ― 借金という他の人間がしたことが「欲しい」によって自分がしたことになった。

  人間を自分の所有物にはできない。でも、他の人間の行為を自分がしたことにはできる。

 なら、他人の輝かしい経歴を奪って自分のものにすることもできるんじゃないか? ―




 数時間後、占野は先ほどの心配など何事もなかったかのように大浴場のようなだだっ広い風呂でくつろいでいた。

 思ったとおり、人の経歴を自分の物にすることは可能だった。

 これまで社長がしてきたことはすべて占野がしてきたことだということになり、その結果占野は「社長」として堂々と大豪邸の中に帰っていった。

一方で、すべてを奪われた社長だった人は、今までの記憶すら何も残らなかったらしく、呆然とした顔でふらふらとどこかへ歩き去っていった。


 今や占野の家となったその大豪邸には家事を何でもやってくれるお手伝いの人がたくさんいて(みんな当たり前のように占野に「社長、お帰りなさいませ」と話しかけてきて気分が良かった)、それでもまだ広すぎるくらいに広かった。

 家具や壁に飾ってある絵も素人目に見ても高価なものばかりで、いいホテルに泊まっているような気分だった。

 

 社長だった人の今までの人生は記憶として占野の脳内に残っていた。まるで本当に自分の記憶であるかのように「思い出す」ことができるようになっていた。まだ断片的にしか見ていないし、本人が忘れたがっていた記憶はロックでもかかっているかのように見えにくいが、ちょっと見ただけでも占野とは真逆の華やか過ぎる人生だった。一気に見ると混乱しそうな気がしたので、後でゆっくり見て楽しむことにしよう。


 いずれマンションに残してきた物も誰かがこちらに運んできてしまうかもしれないが、この家なら広いし、大きな倉庫もあるからそこに放り込んでおけば邪魔にはならないだろう。

 借金取りに関してはお手伝いの人に追い払ってもらうなり、強力なガードマンを雇うなりしてとにかく近づけさせなければいいだろう。

 これからは自分で働いた金を使って生活していけばいい。その金なら使えるだろうし、それで買ったものなら捨てられるだろう。あれ、それともまさかそれも無理なのかな? いや、もとは自分の経歴じゃないとしても働いて得た金は確実に自分の物であるはずだし…

 まあ、その時はその時でまたなにか考えるとするかな、うん… とりあえず今はくつろごう…

 占野は温かい湯の中で思いっきり手足を伸ばした。


 風呂から上がって寝巻きに着替え、玄関の近くを通りかかった時だった。


 チャイムが押される音がした。占野はドアを開けた。


 気付いている人もいるかもしれないが、占野はチャイムを鳴らされると相手が誰なのかを確認せずにいきなりドアを開けてしまう不注意なところがある。


 外にいた人は、睨むような鋭い目で占野を見て言った。

「警察の者です。少しお伺いしたいことがあるのですが、宜しいですか?」


 途端に、脳裏に蘇る光景があった。

 スーパーの商品や銀行の金を自分の物にしたことではない。能力によってそれらは自分の物となっているのだから、それを犯罪とされることはありえない。


 その光景は数ヶ月前のものだった。

 場所は自室、自分に向かって許容しがたい言葉を投げつけてきた友人。

 頭に血が上った自分は、考えるより先に手近にあった物を投げつけた。

 当てるつもりはなかった。なのに、それは友人の頭に当たり、鈍い音を立てた。

 慌てて駆け寄ったが、もう手遅れだった。

 どうしよう、こんなくだらない原因でとんでもないことをしてしまった―

 流れ出た血液を拭き取り、死体をスーツケースに詰め込む。

 家の者達には趣味の登山に行ってくると告げ、車に友人入りのスーツケースを積んで山奥に運び、そこに埋めた―


 だが、これはの記憶ではない。の記憶だ。

 社長だった人はああして友人を殺し、それを隠蔽した後、何食わぬ顔で日常生活を送っていたのだ。

 自分の罪を忘れようとして、記憶の奥底に仕舞い込んで、自分でも思い出さないようにしていた―


 「俺、お前のが全部『欲しい』」

 自分の台詞が脳内にこだまする。

 殺したのは俺じゃないとどんなに主張しても誰も「事実」として扱ってはくれないだろう。

 あの人の経歴を全部自分の物にしたことで、あの人の今まで経験してきたことやあの人の持ち物だけではなく、あの人の罪までもが自分の物となってしまったから。あの借金と同じように。

 今度は占野が呆然とする番だった。

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