夜半に響く蝉の鳴き声に馳せる思いは

syatyo

夜半に響く蝉の鳴き声に馳せる思いは

 私は目覚める、けたたましく交差する蝉の鳴き声で、それはもう唐突に。夢のひとつさえも見ないほど心地よく眠っていたのに、蝉の鳴き声に起こされるのだ。そも、蝉の鳴き声かどうかすら、虫というものに詳しくない私にはわからない。それでも、夏になって、夜半に聴く虫の音は、私にとっては全て蝉の鳴き声だった。おそらく、遠い昔——私が子供の頃に依るのだろう。私の家は自然豊かな土地——悪く言ってしまえば田舎にあった。もちろん、虫という虫が無視できないほど棲息していて、日中であれば、蝉の鳴き声など聴き分けられないほどだった。

 だが、夜になれば——当時の私にとっての夜なのだから、九時ごろだろうか——祖母がいつも教えてくれたものだ。「一番に聞こえる鳴き声が蝉の奴の声なんだよ。鈴虫の鳴き声が綺麗だとか言うけれどね、ばぁばは蝉が一番だと思うんだよ」と。

 私にとっては理解できない感覚だった。蝉など、煩いのみである。そんなことは子供の私でもわかっていたし、事実そうであったに違いない。それでも祖母は言うのだ。「蝉の鳴き声が一番だ」と。

 私にはわからなかった、わからなかったのだ。しかし、年を追うごとに、知らない感性がふつふつと育ち始めてきたのである。否、大人になってやっと、祖母の言葉の意味に気づいたと言うべきだろうか。

 小さい頃には気づけなかったことであり、大人になって気づくことを、私はおおよそ一つしか知らない。風物詩、というものである。

 子供の頃はただ漠然と過ごしていた毎日の裏には、季節の移り変わりが潜んでいて、私にその存在を主張していたのだ。そして、毎日を漠然と過ごせなくなった今、私は風物詩というものに季節を——記憶を思い出すのである。子供の頃の愛らしい失敗だとか、つい最近の取り返しのつかない失敗だとか——先に顔を出すのは、ほとんどが負の記憶だ。

 それでもその裏には——それこそ季節の移り変わりのように、正の記憶が潜んでいるのだ。子供の頃に見つけた珍しい虫のことだとか、つい最近の星座占いが一位だったことだとか——負の記憶に比べれば些細なことで、しかし、心を温かい何かで満たしてくれる記憶だ。

 こうやって、風物詩の良さに気づくには年を重ねなければいけない——と言うが、祖母に比べれば私はまだまだ若輩者であり、正負の記憶の厚みは比べることすらおこがましい。だから今はまだ、祖母と同じとは言えない。

 言えなくとも、私は思うのである。今日のような、夜半に蝉の鳴き声が聞こえる日には思い出し、思うのだ。やはり——。

「どうしたの? お父さん」

 不意に、私の耳元で幼い声が囁かれた。隣で寝息を立てて寝ていたはずであった、次男だった。おそらく私が目を覚ましたことに、聡く気づいたのだろう。私も子供の頃は寝ぼけ眼に、祖母が私の元を離れていくのを見ていた。まさしく今の私と息子は、あの日の私と祖母のようである。

「いぃや」

 似ていたからこそ、私はあの日の祖母を思って言うのだ。まだその意味の全てがわかったわけではない。偉そうに言えるほど、その感性を磨いてはいない。それであっても、私は言うのである。息子がいつか気づく日が来ることを楽しみにしながら。

「やっぱり蝉の鳴き声が一番だと思ってね」

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