第11話「そういうことは何も知らなかったからさ」

 扉を叩いた青葉は、黙って反応を待った。しかし返事がないのは予想できるとしても、罵倒すら飛んでこないのは意外だった。一人廊下にたたずんだまま、彼は眉根を寄せる。

「何だよ」

 彼は気を隠していなかったから、ここにいることは筒抜けのはずだ。つまり誰が来たかのか、あちらもわかっているはず。それなのに無反応というのはどういうことだろう。

「そんなに嫌なのかよ」

 アースの顔を思い浮かべて、青葉は小さく舌打ちする。とはいえ、レーナの様子を見るというのは梅花との約束だ。昨日は「帰れ」とだけすげなく言われて諦めてしまったので、こうして出直してきたのだが。

「大人げない奴」

 ため息を堪えた青葉は、何の気なしに取っ手を握った。すると予想外なことに、すんなり扉が動いた。――鍵がかかっていない。虚を突かれた彼はあんぐりと口を開け、瞠目する。

「あいて……る?」

 昨日は確かに閉まっていたはず。だからずっとそうだと思い込んでいた。怪訝に思いつつ恐る恐る扉を開いてみても、やはり怒号は飛んでこなかった。既に誰か訪問していたのか? それにしては気が感じられなかったが。

 訝しみながらも中をのぞけば、他の者の訪いもなさそうだった。部屋はしんと静まりかえっている。アースは相変わらず腕にレーナを抱えたまま、壁に背をもたせかけていた。

「寝て……る?」

 いや、それだけではない。目を瞑ったまま、この時点でも無反応ということは、つまり、アースも眠っているのだろう。道理で追い返しもされないわけだ。

 さてどうしたものかと青葉は顔をしかめた。レーナの様子をうかがうことはできそうだが。しかし途中でアースが目覚めたら厄介なことになる。今まで以上の強烈な罵声が浴びせられることになるだろう。そんな事態は望んでいない。

 しばしそのまま逡巡していると、レーナが身じろぎするのが見えた。小さく呻いた声の弱々しさに、青葉はどきりとする。どう考えても今までの彼女とは繋がらぬ、辛そうな声だ。

 息を潜めて見守っていると、かすかにその頭が動き――まるで何かを探すようにこちらへと視線が向けられた。かろうじて持ち上げられた目蓋の下は、どこか虚ろな眼差しだった。青葉は強く頭を殴られたような衝撃を受ける。

「レー……ナ?」

「われが、いなければ、いいのだろう?」

 かすかに彼女の唇が動く。しかし何を言われているのか、うまく聞き取れなかった。否、かろうじて聞き取れたものの文意を、理解できなかった。瞬きを繰り返した彼は、唖然と彼女を見つめる。それはどういう意味なのか? 耳で拾いきれなかった前後の文があるのか?

 何故か血の気が引く思いでいると、また彼女はすっと目を瞑った。ぐったりとした様子で眉根を寄せている様は、亡くなる間際の母を連想させる。青葉は手のひらの汗を服にこすりつけた。

 こんな彼女を間近で見ていると、それだけで疲弊してしまう。たとえアースでも。青葉はちらとアースを見遣った。不機嫌な顔のまま固く目を閉じている姿は、まるで殻にでも閉じこもっているかのようだ。

「あれ、青葉どうしたの?」

 と、そこで突然背後から声をかけられた。あっけらかんとした声だった。青葉は心臓が止まりそうな心地で、慌てて振り返る。

「あ、イレイか……」

 廊下で不思議そうに首を捻っているのはイレイだ。気を隠しているせいで気づかなかった。いや、それでも普段なら靴音や気配で察知するだろう。意識が完全に部屋の中に集中していたせいだ。青葉は取り繕うよう顔に笑みを貼り付ける。

「わ、悪い。邪魔だったよな」

「ううん、それは別に。あ、アースに用? 今は寝てると思うけど」

「そう、みたいだな……」

 焦る青葉とは対照的に、イレイはにこにこと笑う。彼がいつも通りであることは、少しばかり青葉を勇気づけた。仲間がこんな状況であることを考えると、実は一番強いのはイレイなのかもしれない。

「休めっていうのに全然休んでなかったから心配してたんだけどさ。ようやく寝てくれてほっとしてるところ」

「……そうか、じゃあ今は止めておいた方がいいよな。本当に悪いな、邪魔して」

「ううん。青葉たちが心配してくれるのは僕も嬉しいからさ」

 イレイの表情がさらに明るくなる。そんな純粋な気持ちを率直に告げられ、青葉の胸の内を罪悪感が満たした。レーナを心配しているのは梅花で。その梅花のために様子をうかがいに来ただけで。青葉は彼らを思って行動したわけではない。

「心配なんだよね。アースったらずっとあのままだしさぁ。たまにベッドには寝かしてるみたいだけど。でもあんまり離れるとレーナが起きちゃうからって。その辺、僕はよくわかんないんだけど」

「そ、そうなのか」

 どう返答したものかとまごついていると、イレイの手の中に濡れた布があることに気がついた。どこから持ってきたのかと思うような、白いふわふわとした布だ。イレイは彼の視線を追いかけて、照れたような声を発する。

「ほら、レーナって汗ばっかり掻いてるでしょう? それに熱もあるみたいなんだ。だからちょっとでもと思って」

「そ、そうか」

「でもこういう時どうしたらいいのかよくわからなくてさ。困ってたら、用意してくれたんだ。ほら、神技隊の女の子。えーっとあの銀色の髪の……」

「ああ、サホか」

「そうそう! そんな名前!」

 わたわたとあちこちを見回したイレイは、ついで大きく首を縦に振った。イレイが一人で戦っているわけではなく、神技隊の中にも手を貸している者がいたのか

 考えてみるとゲットは以前のアースたちのことを知らないから、比較的遠慮なく近づいていくきらいがあった。それがまさかこうしたところでも動いていてくれたとは。なんとはなしに肩の荷が下りる心地がして、青葉は破顔する。

「そうか」

「うん、助かったよー。看病って難しいんだね」

 イレイはいつもよりもお喋りだった。もしかすると会話に飢えていたのかもしれない。

 レーナがこの状態であれば、ネオンたちも口が重くなるだろう。アースは元々無口だ。一番よく喋っていたレーナがこうなってしまうと、実は話し相手もいないのか。

「僕ら、そういうことは何も知らなかったからさ」

 けれども青葉はその代わりを務めてやることはできない。少なくとも今は。それをどこか申し訳なく思いつつ、青葉は一つ相槌を打った。

「そうだな。なんかあったら言ってくれ。皆で力になる。じゃあオレは行くから」

「え? もう?」

「寝てるなら刺激しない方がいいだろう?」

 アースが起きていたとしてもろくに言葉を交わすつもりはなかったのだが、そんな思いをあえて表明する必要はない。

 イレイは名残惜しそうにしたが、微苦笑した青葉はすぐさま踵を返した。これだけ騒ぐとさすがにアースが目を覚ましそうだ。その前に退散するに限る。最低限の用件は既に済んでいた。 

 レーナが一度かすかに目を覚ました。梅花に伝えるべきはそれで十分だった。よくわからないことを口にしていた事実も、今は伝えなくともよいだろう。

「もう、せっかちだなぁ」

 背後から落胆したイレイの声が突き刺さったが、青葉は一顧だにしなかった。ただ胸の奥に妙なわだかまりが生じていることだけが、少しばかり引っ掛かった。




 曇天の下の雪道は、どうしても歩調がゆっくりとなる。積もっていた雪は退けられているのだが、それでも滑らないよう気を遣いながら歩くと急ぎ足にはならない。いや、何より今日は、隣を行く少女の体調が気がかりというのも理由だった。

 滝はちらと右手を見る。宮殿を出て、必要最小限の会話が途絶えてしまうと、それから梅花は無言になった。きっと疲れているのだろう。宮殿の中はどうしたって気が張る。

 沈黙の中に、雪を踏みしめる音だけが染みた。時折吹く風がマフラーやコートをはためかせる程度で、あらゆる気配が雪に吸い込まれていく。

 そんな静寂と共に進んでいくと、門の前に、見知った姿がたたずんでいるのが見えた。瞠目した滝は口を開きかけ、だが何を言うべきかと困惑してちらと横手を見る。

「レンカ先輩、こんなところまで」

 梅花も気がついたようだった。顔を上げた彼女は、襟の合わせに手を掛けながらも困ったように微苦笑している。自分を心配して迎えにきたことを理解しているからだろう。

 レンカが気を隠しているのは、いつからそこにいるのかわからないようにするためか? こちらを振り返ったレンカはふわりと微笑む。コートにマフラー、手袋に帽子と防寒は完璧だ。長いことここで待っている覚悟だったに違いなかった。

「そろそろかなって思って。夕食の準備も大方終わったしね」

 肩をすくめたレンカの髪を、冬の風が揺らした。この時間ともなればますます気温は下がっている。無論、彼女の吐く息は真っ白だ。

 梅花が宮殿から呼び出されたのは昼過ぎのことだった。さすがに彼女を一人で行かせるのは不安だったため、滝が付き添うことにしたのだが。それがまさかこんな時間になってしまうとは。きっとレンカも案じていたのだろう。

 実際は話が長引いたというよりも、待ち時間が長いという、いつもの問題だったのだが。

「すみません」

「だからいいのよ」

 レンカの前まで辿り着くと、滝の頬にちらと冷たい雪片が触れた。止んだと思った雪がまた降ってきたらしい。

 視線を上げた彼は眉をひそめた。数日前からこうした天気が続いている。吹雪くことはないものの、静かに降り続けていると、いつの間にか基地の入り口前が雪で塞がれてしまうので注意が必要だ。今夜はどうだろうか? 除雪にまで人手を割くようなことは避けたいところだ。

 一度足を止めた滝は、視線を前方へと戻す。気を探ってみたところ、青葉はおとなしく基地にいるようだった。彼が心配しないはずもないが、きっとレンカはどうにか言いくるめてあえて置いてきたのだろう。

「で、どうだったの?」

 並んで歩き出したところで、レンカが単刀直入に問うてきた。滝は思わず梅花と顔を見合わせる。

 端的には説明しづらい、何とも言いがたい内容であった。伝えてくれたのは多世界戦局専門長官のリューだったので、本当の『上』の意向を理解しきれていないという恐れもある。

「魔族の件を、少しだけ公表することにしたと」

 柔らかい雪を踏みしめつつ、梅花がどうにか答える。

 舞い上がった粉雪が風に乗って流れていくのを横目に、滝はマフラーを首元から顎先まで上げた。門までは宮殿の人間によってきちんと雪が払われているが、ここからは違う。どんどん雪が深くなっていく。

「魔族のことを?」

「異世界から人とよく似た、技のような力を使う存在が、攻めてきているって話です。それを水面下で防ぐのに……失敗したと」

 苦々しくそう述べた梅花は、少しだけ肩をすくめた。彼女は襟のあるコートを纏っていたのでマフラーをしていない。風が吹くと若干寒そうだ。

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