第9話「弱ってると付け入るからな」

「でもオレは、いい奴じゃないから、弱ってると付け入るからな」

 かすかに残る罪悪感を押し込めて、彼はそう宣言した。

 ただ慰め、傍にいるだけでは、きっと彼は耐えられない。これからもそうだろう。そうして欲しくないのなら、はっきり拒絶して欲しいと願いたくもなる。

 否、本当は拒絶などして欲しくない。受け入れて欲しい。だがそこまで自分勝手な感情を、ここで表明する意味はなかった。

 彼女は眉根を寄せ、瞳を揺らした。もしかすると付け入るというのが、どういうことを指しているのかわかっていないのだろうか。恋愛の機微というものを、彼女はきっと学ぼうとしたこともないだろう。

 ふっと微苦笑を浮かべ、彼は彼女の頬から手を離した。いざこうして触れてみれば、案外容易く、呆気なく、拍子抜けしてしまったのも事実だ。

 時間をかけて積み上げてきた信頼をぶちこわすのではないかと怯えていたが、そもそも彼女は『そういう感情』をぶつけられることへの忌避感もないのかもしれない。

「じゃあ行くな。オレが代わりに、レーナの様子を見てくる。……アースに追い出されそうだけど」

 乱れた彼女の髪を梳いてから、彼は椅子から足を下ろした。彼女がはっとしたように見上げてくるのはわかったが、今口にすべき最適な言葉が見つからなかった。彼はそのまま踵を返す。

 嘘を吐くわけにもいかないので、とりあえず一度レーナの様子を見に行かねば。アースの怒声が上がっても、この時間ならまだ他の人間に聞こえることはないだろう。廊下の人通りもない。

「あ、あの、青葉っ」

 食堂の扉へ手をかけたところで、呼び止める声がした。それでも振り返るだけの力が、彼には既になかった。いや、足りないのは彼女の顔を確認する勇気の方だろうか。

「慰めてくれて、ありがとう」

 食堂を出ようとする彼の耳に、切羽詰まった彼女の声がかすかに届く。体ごと揺さぶられたような強い衝撃を受けつつ、彼はそのまま後ろ手に扉を閉めた。

 誰もいない廊下には、先ほどと同じ静寂が横たわっていた。そのまま扉に背をつけて、彼は大きく息を吸う。頭の芯が痺れたような感覚が強まるにつれて、心臓の鼓動が速まっていった。

「……今、礼を、言われた?」

 呆然とした呟きが、ぽつりとこぼれ落ちる。額を押さえ、目を瞑っても、彼女の声が蘇るだけだ。

 混乱した思考と感情をもてあました彼は、そのまま深く長く息を吐いた。それでもどくどくと強く打つ鼓動の気配は、落ち着きそうになかった。




「これは何の会議なんだ? 重要な話なら、滝さんたちも呼んだ方が……」

 夜の中央制御室でのこと。突然リンが一部の人間を集めたと思ったら、真顔で「会議を開く」などと言い出した。それまでぼんやりとモニターを眺めていたシンは、困惑しながらも振り返る。

 夕飯の片付けも一通り終わり、順番に大浴場の利用も終え、就寝までのわずかな隙間。皆それぞれの休息を取るべき時間だろう。とはいえ、待機の代わりを勤めているシンは、戦闘用着衣を身につけてこの部屋にいたのだが。

「滝先輩たちには内緒の会議よ。……正確に言うと、心構えの確認?」

 白いテーブルの上にカップを並べつつ、リンはこちらへと顔を向ける。会議という単語を選んではいるが、くつろいでもらうつもりではいるらしい。シンはちらと、その後ろの顔ぶれを確認した。

 ジュリとよつき、サホとアキセという、いつもと言えばいつもの、こうして呼びつけなければ集まらないと言えばそうである組み合わせではある。

 リンが何を話題に出そうとしているのか想像してみたが、これといったものは浮かばなかった。否、浮かんだものはあったが、できればそれは避けたいという気持ちが勝ったと言うべきか。

「次にもし魔族が攻めてきた時は、それが最後になる可能性があるじゃない」

 嫌な予想は的中した。リンは当たり前のように口にしたが、とんでもなく重い発言だった。実際、ちらと見えたよつきの顔は引き攣っている。シンは首の後ろを掻きつつ、ゆっくりとリンたちの方へ近づいていった。

「リンは怖いことをさらりと言うな……」

 とぽとぽとカップに注がれていく茶を見下ろして、シンは瞳をすがめる。この匂い、赤みの強い色には覚えがある。リンがウィンでよく飲んでいたというものだろうか。

「相手はそのつもりってことよ」

 もう少しぼかすようにという意図は、リンには通じなかった。意に介した様子もなくそう続けられて、シンは顔をしかめる。

 だが彼女の指摘ももっともか。意識したくはないが、現実から目を背けていても漠然とした絶望感しか生まれない。

「そうじゃない?」

「ええ、それはそうでしょうね。相手だって、痛手がないわけではないので。それでも動くということは、そこで決めるつもりでしょう」

 言いよどむシンに代わり、賛同したのはジュリだった。お茶が注がれたカップをよつきやアキセへと手渡しつつ、深々と相槌を打っている。

 治癒の技の疲労も少しずつはとれてきたのか、以前よりは顔色がよくなっていた。それでも彼女は定期的に治療室の様子を見に行っているはずだ。実はなかなか体力がある方なのかもしれない。

「そうそう、そういうこと。それがもうすぐのことなのか、たとえば春のことなのかはわからないんだけどね」

 最後のカップに茶を注ぎ終えたリンは、鷹揚と顔を上げた。どんな表情をしているのかと思えば、いつも通りの笑顔だった。ジュリからカップを受け取ったシンは、液面へと視線を落としながら考える。

 相手が「ここで決める」つもりならば、彼らはどうしたらよいのか。総力戦になるということだろう。

 その時、何も知らぬ一般人はどうなるのか。たとえばまた街中が戦場になったら? 思考を巡らせると、嫌な考えばかりが浮かび上がる。やらなければならないという、精神論だけではどうにもならない問題だ。

「まず、考えなきゃいけないのは、五腹心の相手を、誰がするかって話なのよ」

 しかしリンの指摘はさらにもっと重たい部分を示してきた。カップに唇を寄せながらも、シンは眉をひそめる。――レーナがいない。その事実がますます肩にずしりとのしかかってくる。

「今まで五腹心と向き合ったのって滝先輩や青葉たちくらい? 五腹心だけでなく、直属級の魔族の相手も、誰もしてないわよね?」

 あいた手で指折り数えるリンの横顔は、至極冷静に見えた。彼女はそんなことまで把握していたのか。おそらくその通りだろう。あれだけの気の持ち主を前にすると、対峙するだけでも疲弊する。動けなくなるのが普通だ。

「はい、いないと思います」

 すぐにサホも首肯する。考えてみると、アキセやサホは神技隊に加わったばかりではあるが、かなり主戦場にも首を突っ込んでいた。それでも五腹心やその直属は、さすがに相手はしていないはずだ。

 次第に部屋の空気が張り詰めていく。そんな中でもカップから暖かな湯気が立ち上るのが、なんとはなしに不思議な心地を生み出していた。そのために持ってきたのだろうか。

「でも今の梅花はあんな感じだし。レーナの気の不調もそのまま影響受けてるし。そうなると……まあ順当に考えれば、私やシンは五腹心か直属級の誰かを相手することになるのよね」

 カップを持ち上げたリンは、そこで深々と相槌を打った。周囲の視線を感じながらも、シンはため息を飲み込む。

 現時点で蘇っている五腹心の数は二。直属級がどのくらいいるのかは知らないが、少なく見積もってもそれぞれに一人ずつはいると思っておいた方がよいだろう。

 そして相手が全力で来るのなら、直属までとはいかなくとも、それに近い魔族が攻めてくるはずだ。

「そういうことになりますかね。あ、上の方たちは……?」

 頷きかけたよつきが、ふと思い出したようにそう問いかけてくる。上――神はどうだろうか。戦場に来ていた者たちの顔ぶれを思い出すと、シンの心はさらに沈んだ。

「うーん、よつきも今までの戦いでよくわかってると思うけど、たぶんあの五腹心を相手にできるのって、シリウスさんくらいなんだと思うのよ。ミケルダさんも、あのイースト相手だと歯が立たない感じだったみたいだし」

 リンは何か言いづらそうな調子で、それでも否定の意思を込めてきっぱり首を横に振った。

 シンも同意だ。もし上にもっと戦力があるなら、今までの戦闘でも動いていたことだろう。それに確か、例の説明会の時に、そのような話を耳にしている。

 無論、もしかしたら切り札のような者が別にいるのかもしれないが、それをあの上が簡単に出してくるとも思えなかった。いたとしても、ぎりぎりまでは粘る。そうなると、それまでは神技隊が相手取ることになる。

「一般人の避難とかは、上や宮殿が考えてくれるかもしれないけど。でも戦力って点では期待しないでおいた方がいいでしょうね。動き出しも遅いし」

 リンは苦笑を飲み込むような面持ちをしながら、そっとカップに唇を寄せた。アキセの顔が強ばるのが、シンの視界の端に映る。本当に絶望的だ。この状況で何かを諦めずにいられる方法があるなら教えて欲しい。

「まあでも、正直、私とシンだけで五腹心や直属級と渡り合える自信なんてないのよ。だから、お願いしたいの」

 ますます痛々しい沈黙が広まりそうになる中で、リンはそう切り出した。「お願い」という珍しい響きに、ジュリが瞠目するのが見える。それだけ滅多にない事態なのだろう。こんな話の後に、一体何を頼むのか?

「お願い?」

「そうね。まずはサホとアキセに援護を」

 首を捻るジュリを横目に、リンは頷いた。アキセは背を正し、サホはこくこくと首を縦に振る。素直な後輩たちだ。

「ほら、シンは接近戦主体だし。私は広範囲の技が得意だけど、戦場の地形によっては結構手が限られちゃうのよね。だから遠距離からの援護も欲しいのよ」

「なるほど……」

「ただ、援護っていっても、息を合わせるのが難しいっていうのが厄介なのよね。その点、サホは私の癖がわかってるし。私もサホの動きなら予測しやすいから」

 リンはそう続けた。戦場の地形まで考えているとは思わず、シンは口をつぐむ。

 なるほど、足場が悪いとシンは不利だ。傍に仲間がいる状況だと、リンが使える技というのも限られてしまう。障害物が多い場所もできれば避けたいところだった。そう考えていくと、遠距離からの援護があるのはだいぶ心強い。

 滝も足場が悪い場所は不得手だったが、レンカは遠方からの一点狙いも得意だった。その点がシンたちとは違う。あの二人なら、比較的地形に左右されない戦い方ができる。

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