第8話「大切な人に何かあった時って、こんなに怖いのね」

 まだ日が昇りきらないという時刻。梅花が自室にいないことに気がついた青葉は、慌てて食堂を目指していた。

 彼女が早起きなのは今に始まったことではないが、なんとはなしに胸騒ぎがした。言い得ぬ違和感があるとでもいうか。彼女の気がどこか不安定なのも引っ掛かる。しかしこれはレーナの気の影響かもしれない。

 人気のない早朝の廊下は、驚くほど静かだ。中央制御室には誰かしらいるはずだが、それ以外は自室にいるか、治療室にいるかのどちらかなのだろう。

 皆が皆、疲れ切っているので仕方がない。パンと保存食程度の食事も続いている。時折誰かが気力を奮い起こすと温かいものが出てくるが、そうでなければ食卓は簡素だった。

 静かに食堂の扉を開け、青葉は恐る恐る中をのぞく。

 煌々とした明かりの下で、梅花はすぐ傍の席に腰掛けていた。テーブルの上にあるのは水の入ったコップだけのようだ。彼は顔をしかめる。

「梅花?」

 勢いづいて告白してしまってからというもの、彼女とはまともに言葉を交わしていない。

 避けられているとか避けているという問題でもなく、そもそも彼女の不調が続いていた。眠っているわけではないが、体を起こしているのも辛いようで、よく伏せっている。

 それに起きている時は大体リンが側にいた。なかなか食事が進まないので、体力が戻らないという話だ。ようやく少し口に物を入れられるようになったと、一昨日リンから聞いたばかりだった。

「大丈夫か?」

 思い切って顔を見に来たはいいが、どうしたらよいのか。呼びかけてはみたものの、梅花は黙したままだ。青葉は静かに扉を閉める。

 逡巡しながらも、彼はそっと食堂の中へ足を進めた。人の気配のない室内は、広々としているだけにやや肌寒かった。彼女が身につけているのも薄い羽織なので、少し心配になる。

 彼は少し迷ってから、通路を挟んで逆側の席に腰掛けた。離れるのも不安なので退室はしたくないが、しかし立ちっぱなしというのも変だ。かといって隣や向かいの席につけば、彼女の逃げ場を封じてしまう気がする。そういう理由での選択だった。

 彼はじっと返答を待つ。それでも目を伏せたままの彼女が、こちらを見る気配はない。その事実がつきりと胸に刺さった。

 やはりこんな時にあんなことを口にしなければよかった。ただ彼は耐えきれなくなって、自分の気持ちを押しつけたようなものだ。

「――あれから、五日経ったけれど」

 沈黙が続くかと思われたが、しばらくもしないうちに、彼女の口がおずおずと開いた。淡々とした声だったが、その瞳は相変わらずテーブルのコップを見つめている。

 無視されているわけではない。たったそれだけのことに、彼はわずかな安堵を覚える。

「まだ、レーナが、目覚めないのよ」

 透明な水面に水滴が一つ落ちるように、彼女の声が波紋を広げていく。静かながらも悲しみと不安で満たされたものが、じわりと辺りに浸透していく。

 彼は顔をしかめつつ相槌を打った。レーナの気が依然として不安定なままであるのは、彼もよくわかっていた。否、誰もが知っていた。

 あの透明感のある、純度の高い、影響力の強い気が、無遠慮に浸食してくる。こうしているこの瞬間もそうなのだ。

「大丈夫だって、信じてはいるけど……」

 何かを確かめるように、ぽつりぽつりと、独りごちるような言葉が続く。消え入りそうな声でかろうじて綴られていく心境を、想像するのは容易かった。

 考えてみると、今の梅花には縋る先もないのか。そのことを彼はようやく思い知る。

 不安だとこぼす先がないのは、じわじわと心を蝕んでいく。その重さは彼も知っていた。それなのに彼があんなことを口にしたものだから、彼女はさらに捌け口を失ってしまったのかもしれない。

「でも、彼女の気の乱れを感じているのが、辛いの。……こんなに辛いとは、思わなかった」

 まるで懺悔のように吐き出された言葉は、おそらくもう耐えられなくなったがためにこぼれだした思いだ。彼は唇を軽く噛む。

 あれから彼女が一体何をどれだけ考えていたのか。推し量ることはできないが、彼には言えないとでも思っていたのかもしれない。

「大切な人に何かあった時って、こんなに怖いのね。私、知らなかった」

 彼女の声がかすかに震えた。彼の胸の奥に、苦い感情が広がった。

 色々なものを諦めていた彼女は、失う恐怖に突然向き合わされたのか。大事な人が奪われそうになっているという現実に、それなのに自分には何もできぬという事実に、直面させられたのか。

 そう考えると、彼はどうしたって奇病の時を思い出す。突然倒れた母はあっと言う間に帰らぬ人となった。あまりに呆気なく旅立たれてしまい、その気持ちのやりどころも見つけられなかった。

 皆余裕がなかった。ただ同じ傷を持った者たちが、傍にいただけだった。そんな中、誰よりも傷ついていた父には、無論縋れなかった。状況がよくわからずに不安がっている弟を、とにかく必死に守りたいとだけ思って耐えた。

 忘れていたと思っていた痛みは、いつだってぶり返す。梅花が倒れる度に、このまま目覚めないのではという思いが、胸の奥底から湧き上がってくる。無理するなとどれだけ言葉を重ねても届かない度に、無力感にさいなまされる。

 ようやく彼女は、彼と同じ痛みを感じ取ってくれている。けれどもそれは、本来なら喜ぶべきものではないだろう。知らなければ知らない方がいい経験だった。可能なら、誰も味わうべきではない。

 彼が黙していると、彼女の膝の上に置かれた拳が固く握られるのが見えた。彼女は何か悔いているのだろうか? また自らを責めているのだろうか?

「レーナのところには、行かなくていいのか?」

 沈黙が居たたまれずに、彼はそう問いかけた。レーナの部屋を訪れている者は、ほとんどいない。アースに近寄りがたいせいだろう。

 時折イレイの気が近づく他は、レンカが様子を見に行っている程度だ。あとはリンが本当にごくたまに訪室しているくらいで、誰もがあの場に近づくのを恐れている。

「……私が行っても仕方ないわ。アースが傍にいた方が、レーナの気は安定するし。それに私が行くと、レーナはきっと無理をするもの」

 しばし躊躇ってから、梅花はゆっくりと頭を振った。その声音にはわずかに、自嘲気味な色が含まれていた。

 レーナは梅花がいると無理をする。それは事実だろう。レーナにとっての梅花は、誰よりも優先すべき存在のように見える。

 大切な者が自分のせいで無理を重ねる際の対処法など、彼にもよくわからない。しかし、顔を見に行くくらいならいいのではないか?

「せめて他に何か、できることがあればいいんだけど」

 梅花はふっと息を吐いた。確かに、やるべきことがあった方が気は紛れるのは間違いなかった。だが今は彼女の体調がそれを許さない。ろくに動けないために、余計なことまで考えてしまうのだろうか。

 強く握られた彼女の拳がかすかに震える。彼は顔をしかめた。痛みに耐えているだけの彼女に、何もしてやれない。なんて息苦しい心痛だろうか。だがきっと彼女も、同じように感じて苦しんでいる。

「本当に、どうしたらいいのかわからないの。こんなこと言っても、青葉だって困るってわかるんだけど……」

 絞り出すような彼女の声に、さらにきつく胸が締め付けられた。耳を塞ぎたくなるし、目を瞑りたくなる。その衝動を耐えきれず視線を逸らしかけたところで、彼は視界の端に映る光景にはっとした。

 ぽたりと一滴、白い拳に落ちるもの。それが何なのか理解すると同時に、彼はやにわに立ち上がっていた。

「――梅花」

 名を呼んで、一歩踏み出して手を伸ばす。余計なことを考える暇もなかった。そのままあいている椅子に片膝を乗せ、彼女の頭を抱き寄せる。かすかな声がこぼれおちるの聞く。彼女は体を強ばらせたが、抵抗する素振りはなかった。

 彼の内に幾つも浮かび上がる言葉は、どれも声にはならなかった。吐き出してくれて嬉しいと伝えることも、頼ってくれる方が嬉しいということも、音になっては出てこない。掻き抱く腕に力が入るばかりだ。

 ただ彼女をこのまま一人きりにはしておけなかった。これは彼の勝手な我が儘だ。ただただ離れがたい。一人で苦しんでいるのを見たくない。いや、見えないところで苦しんでいるのを、想像することの方が辛いか。

 抱き寄せたつむじに、彼はそっと頬を寄せる。長い髪が揺れて、服の上を滑った。それでも彼女は何も言わなかった。ぽつりと、膝に冷たい滴の感触がしただけだ。

 息を吸った彼は、視線を彷徨わせながら再び言葉を探した。余計な話ならいくらでも浮かぶのに、肝心な思いがどうしても形とならない。無力な自分への歯痒さばかりが募っていく。先ほどわずかに喜びを覚えた自分を、殴りたい心境だった。

「どうしたら、お前が楽になるのかは、わからないけど」

 どうにかこうにか音となった言葉が、研ぎ澄まされた静寂を強調した。

 誰かに縋ることをよしとしたことがない彼女は、頼っても頼らなくても今は辛いだろう。しかし彼が今こうしているのは、彼女のためではない。

「でもお前に一人で、苦しんでいて欲しくないんだ。これはオレの勝手な思いだ」

 咄嗟に抱きしめてしまったのも、彼女を慰めたいからじゃない。そう思う前に体が動いていた。これは彼の欲望で、願望で。たとえ彼女は一人きりにしておいて欲しいのだったとしても、彼はきっとそうすることができない。

 傷心している女性に付け入るような男のやりかたを、彼はずっと小狡いと思ってきた。傷を癒やすような振りをしながら懐に入り込むそのやり口を、卑怯だと思ってきた。

 だが違ったのかもしれない。好きな人が傷ついているのを目の前にして、何もせずにいるという方が拷問だ。彼らは単に、自らの衝動に打ち勝てなかっただけなのだろう。

「あお、ば」

 体を直接振動させるような、彼女の訥々とした声がする。彼はわずかに腕の力を緩めた。そして怖々と確かめるよう彼女の頬に触れ、その顔をのぞき込む。

「そうやって」

「……え?」

「あなたはいつも、私を甘やかすのね」

 涙に濡れた黒い瞳が、揺れながらも彼を捉えた。震えそうな唇がたどたどしく紡ぎ出したのは、いつか聞いたような言葉で。

「当たり前だろ」

 彼はきつく眉をひそめた。この期に及んで、彼女はまだこれが過剰な甘やかしだとでも思っているらしい。親を含め、家族に甘やかされるという経験がないからだろうか。大切な者が傍にいて、傷ついているなら、そうしてしまうだけなのに。

「好きなんだから、当然だ」 

 今度は躊躇わなかった。後悔もしなかった。断言した彼はその瞳をのぞき込む。こちらをぼんやりと見つめる彼女の眼差しからは、これといった感情が読み取れなかった。彼女の気からも、はっきりとした好悪はうかがえない。

「大切なんだから、当然だろ」

 彼女の大きな瞳から、また一粒涙がこぼれ落ちた。頬を伝うそれを、彼は指の腹で拭う。そしてそのまま、静かに口づけを落とした。震えていた柔らかな唇をそっと塞げば、案の定涙の味がする。

 そうやって触れていたのは、わずかな間だった。少しばかり顔を離せば、一度瞬きをした彼女がじっとこちらを見上げてくる。その表情にも気にも、やはり拒絶の色はなかった。

 ただどこまで何を理解しているのかは杳として知れない。もはや何か考えられる状況にないだけかもしれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る