第3話「好きだからに決まってるだろ」
「いいんだ。オレが勝手に心配してついてただけだから」
「でも……」
「本当に申し訳ないって思うなら、あんまり無茶しないでくれよ」
俯いた彼女の頬へと、彼は思わず軽く触れた。驚くほど白いのに熱っぽいというのは、やはり奇妙だ。彼は顔をしかめる。不調なのは明白だ。
「それは……」
困ったような彼女の双眸が、ちらとだけこちらへ向けられた。「そんなことを言われても」とでも言いたいのだろうか。
確かにあの時彼女が動かなければ、どうなっていたのかわからない。結果論としては、彼女は正しかったのかもしれない。
だがそれでも、誰かのために無理をして欲しくないというのが、彼の望みだ。自分勝手な思いなのかもしれないが、彼女がいなくなってしまうことを考えると、胸が張り裂けそうになる。
「別に、責めてるわけじゃないんだ」
言葉を選ぼうにも、どうするのが適切なのか。どうしたら届くのか、彼にはわからない。どうすれば彼女が自分を大切にしてくれるのか、その道筋が掴めない。
「オレはただ、お前が傷ついたり苦しんだりする様を、見ていたくないんだ」
白い頬を指先で撫でると、彼女の睫毛がかすかに震えた。伏せられた眼差しがどんな感情を浮かべているのか確かめたいが、彼からでは見えない。彼女の気は、ただただ困惑を伝えてくるのみだ。
「お前がいなくなりそうで怖いんだ」
絞り出すように告げた本音に、彼女は弾かれたように顔を上げた。思わず指を離した彼は、伝え方を間違えただろうかと眉をひそめる。彼女の気は、かすかに揺らいでいた。
「わた……しが?」
何故だか彼女は戦いているように見える。口にしたことのない思いに、それだけの力があったのか? 彼はなんとはなしに居たたまれなさを覚え、目を逸らした。
「お前、ある日突然いなくなりそうなんだよ。お前が倒れると、もう目覚めないんじゃないかって不安になるんだ」
それでも溢れ出したものは戻らない。勢いは止まらない。伝えなければという切迫感が身を焼くように燃え盛っていた。
自らを大切にする重要性をわかってもらわなければ、いつかきっと彼女を失う。そんな気がしてならなかった。そうなってから後悔したのでは遅い。
「どうして?」
戸惑いを露わに、彼女は小首を傾げた。その「どうして」には一体どれだけの意味が込められているのだろう。彼女はどこまでわかっているのだろう。観念した彼は、腹の底から息を吐き出した。真っ直ぐに彼女の目をのぞき込み、意を決する。
「お前に、いなくなって欲しくないんだよ」
「……どうして?」
「好きだからに決まってるだろ」
腹を括ってしまえば話は早かった。するりとよどみなく、口からこぼれ落ちた。あれだけ伝えるのを躊躇っていたのが嘘のようだ。
いつだってこうすることができたし、もしかしたらもっと早くこうすべきだったのかもしれない。こんなに追い詰められる前に。
また視線を逸らしかけた彼は、ちらと横目で彼女の反応をうかがう。大きな瞳を瞬かせた彼女は、彼の言葉を反芻しているようだった。
ここまでしてもまだ伝わらないのか? いや、本当に何も伝わっていないなら、首を捻られるだけで終わっている。
「先に言っておくが、仲間だからだとか、従姉妹だからだとか、そういう理由じゃないからな」
それではここは畳みかけるべきところだと、彼は考えられる限りの先回りする。彼女はまだ瞬きを繰り返していた。その白い指先が毛布をぎゅっと掴む様が、再び視界に入る。
「……聞こえてるか?」
「聞こえては、いるんだけど」
あまりに彼女が黙り込むものだから、彼は念のためと確認の問いを放った。聞こえているからこその反応だとは思うのだが、それでも不安になった。
大体、彼女は目覚めたばかりだ。そんな時に自分は何を言っているのかという後悔が、じわりと湧き上がってくる。
「えっと、それって、つまり……」
彼女は何か言いづらそうに目線を泳がせながら、困惑気味に頭を傾けた。これだけ宣言してもまだ伝わらないのだろうか。それとも理解するのを拒まれているのだろうか? 破れかぶれな気持ちになりながら、彼はどうにかため息を堪える。
「だから、つまり、愛してるってことだよ」
ここまで言ってしまったのだから、何も躊躇することはない。毛布を握る彼女の手を、彼はそっと左手で包み込んだ。熱っぽい拳が震えるのもかまわず、そのまま握りこむように力を入れる。
か細い手だ。こんな体であれだけの敵に立ち向かおうとしたなど信じられない。だからいつも不安になる。彼女は自分が失われることを意にも介さないから、予想もしない方法で思い切ったことをする。それが怖い。
「青葉が? 私を?」
まるで子どもが覚え立ての言葉を繰り返すがごとく、彼女はたどたどしく聞き返してきた。これにはさすがに彼も嘆息した。ここでそんなに驚かれるというのは、つまり今までその可能性を微塵も考えてこなかったという証拠だ。
「そうだよ」
このままいっそ抱きしめてしまおうか。たがが外れたような心境になり、彼は彼女の顔をのぞき込んだ。大きな瞳を揺らした彼女は、何故だか泣きそうに見えた。彼女の気も揺らいでいた。
泣きたくなるのはこちらだとも言えずに、彼は握った手を引き寄せる。抵抗されることはなかった。体勢が崩れたせいで、彼女の長い髪が揺れる。
「嘘」
「じゃない」
「だって――」
「そういう人間じゃないとか相応しくないとか、そういう言い訳は禁止だからな。これはオレの気持ちだ」
あらゆる逃げ道を塞いでそう断言すれば、彼女は絶句した。
彼女は他者の気持ちを否定したりはしない。自分についてのあらゆるものを拒否したとしても、それを他人に当てはめるようなことはしない。勘違いなどとは言わない。だからこういう言い方が彼女には効く。
「オレが感じてることだ」
間近からじっと瞳を見据えれば、彼女は目を逸らすのを諦めて唇を震わせた。
「でも、私、あなたに、何もしていない」
彼女は顔を歪ませる。それはどういう意味での「何もしていない」なのだろう。好かれるようなことはしていないという主張か? 彼女の観点からすればそうなのかもしれない。
だが厚意の積み重ねだけで誰かを好きになるわけでもない。単純なのに複雑でままならないのが、感情というものだ。
もっとも、既に彼は彼女から多くのことを教えられていたから、そういう意味でも彼女の主張は間違っている。彼は既にたくさんのものをもらっている。
「それはお前がそう認識してるだけだ。オレはそうは思ってない。自分の当たり前が当たり前じゃないことに気づいてるなら、オレの言ってる意味、わかるよな?」
諭すように続けた彼は、戸惑う彼女の体を腕の中へと閉じ込めた。やはりかすかな抵抗さえなかった。しなったか細い体がわずかによじられたが、それだけだった。回した腕の上を長い髪が滑る。
彼女のわかりづらい優しさや気遣いも。父親との確執に踏み込まない配慮も。予想外な事態に一つ一つ現実的に対処する冷静さも。他者の幸運に頬を緩める姿も。全て愛でるべき特質だと思うのに、それはきっと彼女にとっては当たり前のものでしかないのだろう。
側にいればいるだけ、隠された優しさに触れるだけ、気づいたら溶かされているような、見つけにくい情愛だ。
一方、彼女自身は愛情を受け取るのが下手だ。――きっと慣れていないせいだろう。その危うさがずっと心配だったし、歯痒かった。
彼の言葉だけでは到底足りないが、それでもできるなら、本当はもっと早く伝えるべきだったのだろうか。彼女はもっと自分が持っているものに、能力とは別の人を惹きつける力に、意識を向けるべきなのに。
彼はゆっくりと腕の力を緩めた。そして彼女の頬に触れると、そのまま顔をのぞき込む。まるで迷子の子どものような不安げな双眸が、怖々と彼を見上げた。
「普通はこういう時、返事をもらうんだろうけど」
どう言葉を紡ぐべきか逡巡しながらも、彼はそう切り出した。もっと話したいことはあったし、傍にいたかった。だが彼女が目覚めたばかりであることを、また思い出す。これはまるで弱った者に付け入るような行為だ。これ以上、彼女を混乱させてもいけない。
「へん、じ?」
「お前はどう思ってるんだとか、付き合ってくれるのかどうかとか」
そこまで説明しなければならないのかと、彼はわずかに眉根を寄せた。すると彼女は大きく眼を見開き、そして再び瞬きをした。
そういった可能性について、やはり全く考えていなかったらしい。
彼女にとって恋愛だの、恋人同士の付き合いをするだのというのは、自分の外の出来事だと思っていたのだろう。いつか誰かに告白されるという未来も、おそらく彼女は描いたことがない。
「でも今は聞かない。……悪いな。ようやく目を覚ましたばかりの梅花に、する話じゃあなかったよな」
ならば出直しだ。苦笑を浮かべた彼は、そっと彼女から手を離した。つきりと痛んだ胸の奥から、重く濁ったものが染み出してくるような心地がする。
彼はやおら立ち上がった。これ以上言葉を重ねるのは逆効果でしかなかった。ずっと躊躇って押し隠していただけに、口を開けば開くだけ止めどなく溢れそうになる。
「青葉?」
「頭冷やしてくる。梅花は……もう少し休んでろ。誰かに水持ってきてもらうから」
じわりじわりと胸に広がる後悔を押し込めて、彼はそう言い残した。そしてそのまま立ち去ろうとしたところで思い直し、肩越しに振り返る。呆然とこちらを見上げる彼女の眼差しは、依然として泣き出しそうに見えた。
「大事なこと忘れてた。レーナは生きてる。まだ目覚めてないけど……でも梅花が目を覚ましたなら、きっと大丈夫だろう」
自責の念で歪みそうになる顔を、彼はかろうじて笑顔の形に保った。レーナが無事であることは、梅花も気でわかるはずだが。それでもそう口にせずにはいられなかった。――気が不安定なことも、梅花にはわかってしまうだろう。これ以上彼女の心労を増やすわけにはいかない。
「今は、それだけしか言えない」
口を開きかけた彼女を残し、彼はすぐさま踵を返す。急いで扉にかけた手は、いつになく汗ばんでいた。今さらながら緊張を自覚するなど滑稽だ。自嘲気味な笑いがこみ上げる前に、彼は廊下へと足を踏み出した。
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