第2話「確かに厄介だな」
「リン」
眠りながら苦しんでいるのなら、起こしてやった方がよいかもしれない。そう思って呼びかけると、彼女の腕がもぞもぞと動いた。揺れた髪の一房が、頬へとこぼれ落ちる。その眉根がさらにひそめられた。
そして次の瞬間、彼女ははっと気づいたように頭をもたげた。
「リン、起きたのか?」
「あ、シン……」
「大丈夫か?」
「ごめんなさい。いつの間にか寝てたのね」
「いや、実はオレもうたた寝してた。ちょうど今起きたところだ」
混乱した様子で慌てる彼女へと、彼は苦笑を向けつつ頬を掻いた。無世界で以前にもこんなことがあったなと思い出す。あの頃はもっと平穏で。誰かの命の心配をする必要など、全くなかった。
するとこちらを見上げた彼女は困ったように微笑んだ。自分が疲れていたことへの自覚、かつそれがばれたことへの居たたまれなさが、気に表れているかのようだった。その背後にある感情は「もっと強ければ」という一種の後悔だろうか。
彼は不意に、彼女の頭に触れたくなった。それは本当に発作的な衝動で、抑え込むのに苦労した。頭を撫で、髪に触れ、そして抱きしめたい。弱った感情ごと包み込みたい。
急速に湧き上がった衝動のやり場はどこにもなかった。伸びかけた手を握りこんでも、抗いがたい欲求は肌の裏側で渦巻いている。
「シンこそ大丈夫?」
そんな葛藤が表情にでも出ていたのか。彼女は困惑気味にそう問いかけてきた。この衝動をうまく表現できる自信はなかったし、そうすべきとも思えなかった。
彼は苦笑だけでごまかす。こうすればきっと彼女なら、現状への心労のせいと考えるだろう。よくわからぬ欲求と戦っているとは、普通は考えない。
それとも、こんな時だからこそ湧き上がる感情なのだろうか? 失われかけた命や、倒れた仲間たちのことが脳裏をよぎるからこそ、無事を確かめたくなるのだろうか?
「ああ、大丈夫――」
「には見えないけどね」
彼が躊躇っていると、彼女はゆっくり体を起こした。ふわりと跳ねた黒髪が、背をかがめていた彼の目の前で揺れる。慌てて一歩後退ると、テーブルに手をついた彼女はずいと身を乗り出してきた。
「シンの悪い癖ね。すぐ大丈夫って言うの。まあ、大丈夫かって聞かれたら、そう答える人の方が多いか……。なるほど、そうなると悪いのは私ね」
勝手に納得してうんうん頷く彼女を、彼はひやひやしながら見下ろした。このまま抱きしめてしまえば楽になるのだろうかと、半ば投げやりな考えが浮かぶ。
しかし「こんな時に何をやってるのか」という理性が、それらをかろうじて押し込めた。誰もが余裕のない時に、ぎくしゃくするようなことをしでかすだけの勇気はない。生じるだろう事態に責任を持つことを、どうしたって彼は恐れる。
「そりゃあ調子も崩すわよね。レーナのこんな気をずっと感じていたら落ち着かないし。私も、何だかわからないけど心細いのよ」
わずかに声を潜めて、リンは視線を転じた。その双眸が向けられたのは、大きな扉の方だった。彼女が弱音を吐くなど珍しい。彼は固唾を呑んだ。
扉の先、廊下をこのまま真っ直ぐ進んださらに奥が、レーナたちの部屋のある区画だ。
気を隠すような力は、今のレーナにはない。そのせいか不安定な気の波動は、基地のどこにいても感じ取れてしまった。普段の彼女はずいぶん抑えていたのだと、今さらながら気づかされる。
「レーナがね、前に言ってたの。気の不調って、うつるんだって」
何かをうかがうように、彼女はちらと彼の方へ視線を寄越した。彼は再び眼を見開く。そんな話は初耳だ。いつの間にレーナとそうした会話を交わす仲になっていたのか。
「強い気が不安定になったり、負の感情に囚われると、周りにも影響するんだって。厄介よね。宇宙では神風邪とかって呼ばれてるみたい」
そこでリンはくすりと笑い声を漏らした。少しだけ悪戯っぽい口調だった。
ああそうかとシンは理解する。だから不安定な気持ちになるのは仕方がないと言いたいのか。それではこの衝動も、不安から生み出されるものなのだろうか?
そうであればいい。影響されているせいだと思えば、耐えられる。今後もこのような衝動が湧き上がるかもしれないと考えると、絶望したくなった。それに抗い続ける日々など考えたくもない。
「人間の風邪みたいに、周囲にうつるんだって」
「……それはまた、確かに厄介だな」
彼はようやく声を発した。影響された結果、弱いところから噴き出しているのだと考えると、本当に安堵してよいのかもわからないが。しかしレーナが元気になれば解決するものであるなら、まだ希望はある。
「本当にね」
彼女はテーブルから手を離し、背筋を伸ばした。彼はなんとはなしに居心地の悪さを覚える。つい視線を逸らすと、再び大きな扉が目に入った。
長いこと中央制御室にいるのが二人という事態も、実は異常だ。皆どこかで動けなくなっているのだろうか。シンたちのようにうたた寝でもしているのか。
レーナの不在という不安に、気の不調への同調という問題が積み重なっているとなると、今の神技隊は相当追い詰められていると思った方がよいのか。自分のことばかり案じている場合ではないのかもしれない。
「さて、そろそろお昼をどうするか、考えなきゃいけない時間ね」
そこで彼女は現実的な問題を口にした。思わず彼は閉口する。そう言われると、突然空腹を実感するのだから不思議だ。
食事の当番制も事実上崩壊していた。誰かが気づいて用意してくれている可能性はあるが、それにしたって慣れない者であれば時間がかかるだろう。
気を探った範囲では何人か食堂にいるようだったが、彼らが元気とも限らない。それに気を隠している者もいるだろう。まずは状況の確認だ。誰かの厚意を期待するよりも、自ら動いた方が早い。
「そうだな。じゃあオレが食堂の様子を見てくる。リンはここに残っていてくれ」
しかし二人揃って中央制御室を出るわけにはいかなかった。有事の際のために、誰かがここでモニターを見張っている必要がある。
「え、いいの?」
彼女は自分が行くつもりだったようで、拍子抜けした声を上げた。だが彼女とて疲れているのは明らかだ。体力に関して言えば、まだ彼の方があるはずだった。微笑んだ彼は首を縦に振る。
「ああ、二人で行くわけにもいかないだろ? どうにもならなさそうだったらまた相談に戻ってくる。だからそれまでここを頼むな」
「はーい、了解。ありがとうね」
彼女はほっとしたように相好を崩した。彼としてはもちろん彼女を休ませたいという思いもあるが、とにかく一旦離れたいという目的もあった。それに一人この中央制御室に取り残されるよりは、誰かと言葉を交わしたり、何かをしていた方が気が紛れる。そうしているうちに、この衝動が消え去るのを願うばかりだ。
大きな扉へと向かいながら、彼は眉間に皺を寄せた。本当ならもっと別のことに心を割かなければならないのに、自分は何をやっているのか。滝が起きてくるまで、ただ何事もなく乗り切るだけでなく、その負担を軽くすべきだろうに。
罪悪感がじわりと胸を焼く。この感情も不調に影響されたせいなのか、それとも自信のなさから来るものなのか。全ての境目が曖昧で、判別がつかなかった。
シンはため息を飲み込み、扉の向こうへと足を踏み出す。ひんやりとした廊下の空気が、わずかに彼の心を慰めてくれた。
梅花のか細い手がかすかに動く感触に、青葉ははっとした。両手で包み込むように握っていた手の先――白い指が、何かを求めるがごとくわずかに曲げられる。
「梅花?」
ベッドに横たわる彼女の顔を、彼は慌ててのぞき込んだ。前のめりになったせいで、腰掛けていた椅子が音を立てて揺れる。
そのままじっと見守っていると、長い睫毛が細かく震え、そしてうっすら目蓋が持ち上げられた。黒く深い瞳が、視点が定まらない様子でぼんやりと天井を見上げる。
「起きたのか? 大丈夫か?」
そっと手を離した彼は、ともすれば語気が強まりそうになるのをどうにか抑えて問いかけた。まだ思考がはっきりしていない彼女に、間近から大きな声を浴びせるわけにもいかない。
すると彼女の眼差しがおもむろにこちらを捉えた。絞られた明かりを反射した双眸は、普段よりもわずかに明るく見える。
「あお、ば?」
辿々しく名前を呼ばれ、彼は安堵した。彼女が目覚めない可能性を考えていたわけではないが、それでも心配だった。特に今はレーナの気が不安定な状態だ。気がこれだけ似ているのなら、梅花にも何らかの影響が出ていても不思議ではない。
「もしかして私、ずっと、寝てた?」
彼女はぎこちない動きで、それでもどうにか体を起こそうとする。その拍子にずり落ちた毛布が、かすかな音を立てた。
柔らかな白いワンピースが露わになると、華奢な肩がかすかに震えているのが目につく。寒いのだろうか。このまま勢いに任せて抱きしめたくなる。が、その衝動を堪えて、彼はその背に手を添えるだけに留めた。薄い布越しに、彼女の体が少し熱っぽいことに気がつく。
「ごめんなさい、大変な時に」
「いや、心配するな。大丈夫だから。滝にいたちも交代で休んでるし、あれから何も起きていない」
顔をしかめた彼女へと、彼は捲し立てるようにそう説明した。レーナのことなら、きっと気からわかるはずだ。しかしそれ以上のことは判断できないため、不安になったのだろう。彼女はいつだって誰かに迷惑をかけることを気にする。
「そう……」
「どこか痛まないか?」
「平気。少し、体が重いだけね」
そう答えながら、彼女は自分の体を見下ろした。体勢が変わり、するりと肩から滑り落ちた髪が、彼女の胸元へとこぼれ落ちる。
そこを凝視するわけにもいかずに、彼はさらに視線を下げた。すると彼女の白い指が強く毛布を握るのが目に飛び込んでくる。
彼女の心境を想像することはできないが、決してよいものでないのは確かだろう。それなのに彼女の気は、不思議と凪いだままだ。
「まずは、そうだな、水でも飲むか?」
かけるべき言葉を探した彼の頭に、浮かんだのはそんな一言だった。戦闘が終わって基地に戻ってきてから、彼女はほとんど飲み食いしていない。食べられる体調かどうかは不明だが、喉は渇いているだろう。熱があるならなおさら水分は必要だ。
「ちょっと待ってろよ」
彼が急いで立ち上がろうとすると、その腕を慌てたように彼女は掴んだ。
「青葉」
「ん?」
「もしかして、ずっとついていてくれたの?」
至極申し訳なさそうな眼差しが向けられ、彼は椅子に座り直す羽目になった。
以前の彼女なら心配されるという感覚がぴんとこなかっただろうが、今の彼女には想像できるのだろう。それ故の罪悪感というわけだ。彼は答えに詰まる。ずっと側にいたのは事実だが、それを申し訳なく思って欲しいわけではない。
「それは、いや、まあ」
「ごめんなさい。青葉だって疲れてるのに」
消え入りそうな声での謝罪に、彼はますます閉口した。はっとしたように手を離した彼女の横顔は、いつもより青白い。今は余計なことを考えずに休んで欲しいところなのだが、そのためにはどうすればよいのだろう。
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