第11話「想定して動く必要はある」
中央制御室のモニターには美しい朝焼けが写し出されている。青いカップを片手に薄桃色の雲を見上げながら、シンはほっと息を吐いた。
どうにか滝を仮眠へと送り出すことに成功し、肩の力が抜けた思いだ。先に自分たちが休息を取っておこうと提案したリンはさすがというべきだ。そうでなければ滝は首を縦に振らなかっただろう。
「パン焼けたわよー」
そこで扉が開くかすかな気配がする。振り返れば、籠を抱えたリンが走り寄ってくるのが見えた。彼女も短時間の睡眠しか取っていないはずだが、案外元気だ。顔色も悪くない。
「お疲れ様。滝先輩は寝た?」
「ああ、部屋に押し込んできた。レンカ先輩も一緒だから、まあ、大丈夫だろう」
「あ……そう、一緒なのね。そうね、そうよね」
足を止めたリンがどこか遠い目をしたのは気のせいではないだろう。しかしそこを追及すると、結果的には墓穴を掘る気がする。だからシンは黙っておくことにした。
「リンの方はどうだった?」
「ぐるっと様子を見てきたわ。梅花は一瞬目覚めたけどまた寝ちゃったって。……青葉を引きはがしたかったのに無理だったわ。これは定期的に見回らないとね」
リンは籠を小さなテーブルへと乗せつつ大仰にため息を吐く。
こんな時に余計な気など起こさないと青葉は主張するかもしれないが、そこは信用の問題だ。その気になればさらりと口づけくらいしかねないというのはシンも懸念している。余裕がないだけに怖かった。追い詰められた青葉というのは危険だ。第一、青葉もろくに休んでいないのも問題だった。
「パン、食べるでしょ?」
気を取り直したように、リンの声が明るくなる。シンが顔を上げると、紙に包まれたパンが差し出された。シンは慌てて受け取る。
また余計なことを思い出しそうになっていた。今はとにかく体力を回復させることに専念しなければならない。薄暗い気持ちになっている場合ではなかった。
「ああ、悪い」
「謝らないでよ。あ、綺麗な朝焼けね。今日は天気がいいのかしら? 万が一の時、吹雪いているのだけはごめんよねぇ」
リンはモニターを見上げつつ、籠の中からもう一つパンを手に取った。よく見るとその手の甲には小さな傷が残ったままだ。そこまで治癒の技で治す暇がなかったということだろう。
シンは思わず口をつぐむ。いくらジュリが治癒の技が得意だとはいえ、大人数を治療するのは不可能なことだった。だからある程度他人に治癒の技が使える者が、その補佐をしていた。リンもその一人だ。
「……そうだな」
「吹雪いていると買い物にも行けないし。ああ、どうせならこのパンにはチーズを挟みたかったわね。ちょうど切らしていたなんて不運」
ぶつぶつと呟きながら、リンはパンをちぎる。その横顔をちらりと見ながら、シンはまず香ばしい匂いを味わった。
彼女があえて軽い話題しか口にしないよう配慮しているのは、何となく察せられた。深く考えれば考えるだけ気持ちが沈む一方だからだろう。彼女でも、自分の心を保つのに必死なのだ。
レーナが倒れた。その事実は、以前に想像していたよりも誰の心にも動揺を与えている。死んだはずなのに戻ってきていたのだから今回も大丈夫だと、シンには決して言えない。少なくともアースの様子を見てしまったら、口にはできなかった。
加えてイダーの町の問題がある。技使いへの反感が高まっていることを、シンも肌で感じてしまった。
昨日の戦いがそれに拍車を掛けるだろう。きっと長や宮殿に対する不満は膨れ上がる一方だ。上はこれをどのように収めるつもりなのか?
「食料、保つかしら」
ぽつりとリンがこぼした言葉が、沈黙を強調するかのように響いた。答えに窮したシンは喉を鳴らす。
ある程度の蓄えはあるが、永遠にというわけにはいかない。切り詰めてうまく調理をするという余裕がないのも問題だった。
動ける者も限られている中で、買い出しにどれだけの人員を割けるのか。そう考えるだけで気持ちがますます薄暗くなる。
「どうにか、保たせるしかないよな」
そうシンが答えた時だった。不意に、また背後の扉が開く気配がした。かつりと響いた靴音には聞き覚えがあった。はっとしたシンは振り返る。
「シリウスさん!?」
扉の向こうから現れたのはシリウスだ。気を隠しているのは何か理由があるのだろうか? シンは瞳を瞬かせる。
泰然と歩いてきたシリウスの顔には、少しだけ疲れが滲んでいた。上の話し合いが難航したのかもしれない。またこっそり下に降りてきたのだろうか。
「今起きているのはお前たちだけか?」
視線を巡らせつつ、シリウスはそう問いかけた。シンは曖昧に頭を傾ける。シリウスは誰かを探しているのだろうか。滝はようやく仮眠に入ったところだから、できれば起こさないでおきたい。
「た、たぶん。他にも起きている人はいるかもしれませんが、部屋か治療室ですね。まだ朝ですし。滝先輩なら、仮眠をとっていますが」
シンが返答に窮していると、パンを両手で抱えたリンが怖々とそう口にした。きっと彼女も彼と同じ心境だろう。シリウスとて上の者だ。睡眠が人間にとってどれだけ大切なのか、感覚では掴めていないのかもしれない。
「そうか。今のところ魔族に大きな動きはなさそうだが、油断はできないからな」
しかしシリウスはそう言って相槌を打っただけだった。特別誰かに用があったというわけではなかったのか? もしかしたら、神技隊の状況を確認しに来ただけなのかもしれない。モニター越しに空を見るシリウスの横顔から、シンはふとそう考える。
「そうですね。ああ、レーナなら、意識は戻っていないみたいです」
するとわずかに目を逸らしたリンが、遠慮がちにそう付言した。なるほど、シリウスが確認したかったのはレーナの様子か。シンはカップを片手に唇を引き結ぶ。シリウスは端的に「そうか」とだけしか答えなかった。
レーナの不在は、シリウスにとっては相当な痛手だろう。ミスカーテが葬られたとしても、あちらには五腹心が二人残っている。しかもいずれは他の五腹心が蘇る可能性も濃厚だった。先のことを考えれば、絶望的な気分に陥ってしまうのが普通だ。
そんな未来から目を背けるためには、今だけを考えるしかない。ただただレーナが回復することを祈りながら、現時点での最善を目指すより他なかった。もしものことなど考えれば、シンの心なら折れかねない。
「気が相当不安定だからな、そうだろうとは思っていた」
ちらとこちらへ一瞥をくれたシリウスは、軽く息を吐いた。
確かに、今のレーナは気を隠すようなこともできないから、シンたちにも容易に感じ取ることができた。
不安定に揺らいでいるのに透明で、そしてひたすら強い気。それが身近にある影響力はすさまじい。こちらの気持ちも揺さぶられてしまうから、より不安になるのだろうか。
「あいつの様子は、直接見に行ったのか?」
「えっと、それは……アースがいるので。その、一度か二度だけですね。あんまり近づけませんでした」
シリウスは当然の問いを投げかけてきたが、答えるリンは非常に言いづらそうだった。二度目の時はシンも同行していたので、気持ちはよくわかる。心臓が止まりそうな勢いで睨み付けられただけで終わってしまった。
「ああ、そうだろうな」
当然と言わんばかりにシリウスが頷いたのが、シンには意外だった。もっとも、睨まれたのはシンにも納得できる。
アースにとっての神技隊は、レーナの命を奪いかねない存在なのだろう。大切な者を危険に晒す、ある意味では敵だ。
とはいえ、それでもあの睥睨は胸に来た。手負いの獣という表現がしっくりくるかもしれなかった。せめて梅花がいれば違ったのかもしれないが、彼女もまだ眠ったままだ。
「だが、不安定とはいえ、あいつがまだこの世界にいることには大いに意味がある」
と、シリウスの穏やかな声が中央制御室の空気を揺らした。パンを握りつぶしそうになったシンは、つい瞠目する。
「普通は死ぬような真似をされてなお生きているということは、本当に戻ってくる可能性が高いということだ」
「シリウスさんは……信じてるんですか?」
呆然としながらもシンは口を開いた。祈るような気持ちが、声にも滲み出てしまった。肯定して欲しいという、そうであって欲しいという思いを、隠すことなどできない。信じるための情報は、一つでも多い方がよかった。
「そう思いたくはなるな。あんなことをされたら、普通は死ぬ。体を維持しているのも不思議なくらいだ。しかも不安定ではあるが、あいつの気であることも間違いはない。――これはおそらく五腹心も気づいている。あの場にはレシガがいたからな。そのことの方が、私は厄介だと思っている」
淡々としたシリウスの説明に、シンの鼓動はどくりと跳ねた。そうだ、あの場には五腹心がいた。何かとんでもないことをされたのにレーナが無事なことは――少なくともあの時点でいきなり死んでいなかったことは――魔族側も理解している。
「奴らの狙いはわからない。しかし、時間が経てば申し子が復活するかもしれないことは、あちらも認識していると考えるべきだろう。五腹心の誰かが蘇るのが先か、あいつが目覚めるのが先か。問題はそこだ」
シンは愕然とした。今まで自分は、レーナが無事かどうかばかりを気にしていた。しかしシリウスはさらにその先を見据えていた。レーナが戻ってくることを前提とし、ただしその時期が問題なのだと。
「それってすぐに魔族が動くかもしれないってことですか!?」
はっとしたリンの切羽詰まった声が、部屋に響き渡った。シリウスは否定も肯定もしなかったが、今の話を聞けば可能性が皆無ではないことはシンにもわかる。
もしもこんなところに五腹心が攻めてきたら……本当に終わりではないか?
「現時点では不明だが、想定して動く必要はある」
わずかな逡巡の後に放たれた、シリウスの返答が重かった。その青い双眸がまたゆっくりと、モニター越しの空に向けられる。
「もっともあいつらは人間には詳しくないから、どのくらい時間が経てば人間が回復するのかはわかっていないだろう。奴らが決起するとしても、多少は時間を要する。それまでにお前たちは、少しでも準備をしなければならない」
ざくざくと胸に刺さる言葉に、シンは固唾を呑んだ。現実はさらに厳しいと知らしめられた気分だ。パンを持つ手が震えそうになる。
魔族の時間感覚など想像もできない。明日攻めてくるかもしれないし、明後日かもしれないし、一週間後かもしれない。彼らにはあの転移があるから、移動距離という概念もないに違いなかった。これでは買い物の心配どころの話ではない。
「それを見据え、アルティードには早急に人間たちの騒動を鎮めるよう言っておいた」
不意にシリウスの声音が変わった。だが悠然とこちらを見たシリウスの表情には、特段悲痛な色も見受けられなかった。気負った様子もなかった。
それでも何か胸の奥底を見透かされたような心地になるのは、何故だろうか。
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