第7話「こういう時だけ存分に甘えるな」

「そうか、それはとても残念だね。アスファルトにはそう伝えておくよ。彼のことだから、ここに来てまた暴れないとも限らないけれど」

「それは困るな。オリジナルたちを危険な目に遭わせたくないんだ」

 肩をすくめたレーナは、ちらとだけこちらを振り返った。口調や気から受ける印象通りに、彼女はいつもと変わらぬ笑みをたたえていた。

 大丈夫だとでも言われているような心境になり、滝は奇妙な感覚にさいなまされる。

 彼女のこの微笑に安堵を抱くようになったのはいつからだろう。彼女が自分たちを見捨てることはないと、思えるようになったのはいつからなのか。自分でも気づかなかった変化につい狼狽えてしまう。

「ここを荒らすと、敵も増えるしね」

 そう口にしたレーナが再びイーストを見上げた時だった。滝の背後に、別種の気配が生まれる。その気には覚えがあった。

「ラウジングさん!?」

 弾かれたように振り返った滝は口を開く。谷の端に突如として現れたのはラウジング、そしてミケルダとカルマラだった。転移を使っての移動だろう。ラウジングの傷はもう癒えていたのか? その気に不安定なところは見受けられない。

「間に合ったようだな」

 硬い表情をした三人は素早く周囲へと視線を走らせていた。戦闘が生じていないことは気でわかっていたはずだが、だからこそ疑問に思っていたのだろうか。まさか表面上は穏やかな挨拶が交わされていたとは予想するまい。

「ほらな?」

「ああ、もう神が来てしまったね。お喋りが過ぎたかな。せっかくだから、もう少しお話できたらよかったのに」

 先ほどよりも、少しだけイーストの声量が大きくなった。吹き荒ぶ風にも負けず響いた声に、ラウジングたちの肩に力が入るのが見て取れる。滝もつい眉間に力を入れた。

 イーストやミスカーテのさらに向こう、薄灰色の空に浮かんでいる魔族らの気に、今までとは比べものにならぬ憎悪の色が広がった。突き刺さる冷風よりも痛い、鋭い気。これに晒される感覚は久しぶりだ。やはり人間に向けられるものとは違う。

 今にも魔族らの一斉攻撃が始まるのではないか。そんな予感さえしたが、まずイーストは後方を制するように右手を掲げた。白い袖から飛び出すほっそりとした手は、強者のものとは思えない優美な動きを見せる。

「どうも神の皆さん、初めまして。私の名はイースト。バルセーナ兄弟の五腹心の一人だ。よろしく頼むよ」

 ふわりと微笑んだイーストの声が、辺りに響く。

 人に紛れていてもおかしくはない服装に、戦闘ができるとは思えぬ体躯。整った顔立ちも表情も温和で、五腹心という名と共に語られた出来事とは結びつかない存在だ。

 それでもびりびりと肌を痺れさせるような気が、裏側に隠された実力をほのめかす。

「今日は挨拶に来たんだ。お手柔らかに頼みたいな」

 柔らかに頭を傾けたイーストは、ついでミスカーテの方へと視線を向けた。先ほどから怪しい微笑をたたえたままだったミスカーテが、かしこまった様子で頭を下げる。たったそれだけのことに滝は愕然とした。――あのミスカーテが。

「それじゃあミスカーテ。私は神にもう少し挨拶しておかないといけないから、後はよろしく頼むよ」

「もちろんです」

「くれぐれも、やり過ぎないようにね」

 不意に、イーストが動いた。まるで階段をおりるように空へと足を踏み出し、そのまますとんと雪積もる地へ着地する。いや、そう思った次の瞬間には、その姿は掻き消えていた。はっとした滝は振り返る。

「ラウジングさん!」

 圧倒的な気がラウジングたちの前に現れたのは、滝が声を上げるのとほぼ同時だった。

 まるで雪そのものを纏ったような冷たくも澄み切った、洗練された気が、心をも凍らせんばかりに強くなる。空気そのものに稲妻が走ったような、そんな錯覚が生じた。

「イースト!」

「君の相手は僕だよ」

 途端、頭上でレーナとミスカーテの声が響く。なるほど、イーストが言う「よろしく」というのは、レーナの相手を任せるという意味だったのか。

 滝はすぐさま腰の剣を引き抜き、隣のレンカと目と目を見交わせた。上空の魔族たちが一挙に動き出せばどうなるのか。考えたくもないことだが、考えているような余裕はない。神技隊にできることは限られている。

 ついで視線を走らせた滝は、この状況でも戦意を失っていない者たちがいることに胸を撫で下ろした。

 ミスカーテのことはレーナに任せるより他ない。となると問題はイーストだ。彼の「挨拶」が何を指しているのか不明だが、ラウジングたちだけで勝てる相手であるとは思えなかった。誰かが、行かなければ。

「リン、そっちの指揮をお願い!」

 レンカにもその意図は伝わっていたらしい。高らかに響く声に、固まっていた仲間たちが弾かれたように動き出す。必要なのは指令だったわけだ。誰かの一声があれば動けるくらいに、戦闘に慣れてきている。

「空への結界も頼む!」

 滝もできる限り大きな声でそう告げ、剣を携えたまま雪道を駆け下りた。固い雪面を削るようなざりざりとした音が、林の中に響く。

 誰かが死ぬかもしれない。そんな予感を振り払うように、滝は奥歯を噛んだ。ひゅんと鳴く風の声が、ひときわ強く鼓膜を揺らした。




「今日はイースト様のご意向なのでね」

 楽しげな声と共に放たれた黒い光弾を、レーナはすかさず結界で弾いた。技と技がぶつかり合う際に特有の歪な音が、冷たい空気を振るわせる。

「ふぅん? 上司がいるって厄介な面もあるんだな」

 黒く瞬く光の残渣を横目に、彼女は軽い調子で答える。先ほどからずっと空に浮かんだままであるミスカーテは、こちらの焦りにどこまで気づいているだろうか? にたりと笑う姿からは容易には推測できない。

 イーストは挨拶と言った。つまり戦力減になるような状況となれば、無理をせず撤退するという意味だ。だがそれは不利にさえならなければ突き進むつもりとも取れる。

 この場でイーストに傷をつけられるような者はいない。となると、ミスカーテに傷を負わせるか、下級魔族たちの数をできる限り減らすしか打開策はなかった。目の前にミスカーテがいる状況では、後者は難しい。

「いいことも悪いこともある。単独行動がお好きなお嬢さんにはわからないかな?」

「レーナ!」

 するとミスカーテの意地悪い声を掻き消すよう、木の下から呼び声が響いた。アースだ。ミスカーテはちらと地上を見下ろしたようだが、レーナは一瞥もくれずに片手だけを上げる。

『ブルー』を使えばミスカーテに勝てるという保証はない。となると、空に浮かぶ魔族たちをアースらに任せるのが、一番早くこの戦闘を切り上げる道となり得る。

 しかしそれを果たしてアースが呑んでくれるかどうか。そもそも、その意図をミスカーテに読まれずに伝えられるかどうか。

「決めつけはよくないな。大体、われの足止めだけで満足するつもりはないんだろう? 稀代の科学者さんは」

 いつものように微笑みながら、彼女は左手に剣を生み出した。まずは純粋な精神系に近い、青白い刃だ。長期戦を覚悟するとなると切り札は使いどころを選ばなければならない。消耗は最小限にだ。

「それはもちろん」

 満足そうに頷いたミスカーテの手が動いた。同時に、レーナは木の枝から飛び上がった。

 こうなったら、ミスカーテとの戦いにあの下級魔族たちを巻き込むのが最良か。そうすればアースに意図を伝える機も得られる。

 神技隊らを援護しづらくなるのが問題だったが、それは地上でも同様だろう。ミスカーテがいる限り、こちらに余裕はない。

 幾つも光弾が放たれたのを契機に、上空で待機していた魔族も動き出す。彼女はそのまま 体に風を纏わせ、向かい来る黒い光弾を両断した。完全な精神系だと思い込んでいたのか、ミスカーテが瞠目するのが見える。

 精神系と破壊系の混合というのは、実のところあまり使い手がいない。配分を微調整する者となるとますます希有だ。それを利用すれば、こうして意表を突くこともできる。

 彼女は剣を振るいつつ、右手で空へと青い光弾を放つ。こちらは本当に純粋な精神系だ。ミスカーテは難なくそれを避けたが、後ろの魔族を巻き込むのが狙いだからそれでもかまわない。牽制にもなる。

 これは空に味方がいないために使える手だ。誰が食らってもいい。食らわなくても、動きを遮ることができればいい。地上に降りる数を減らさないと、神技隊が対処しきれなくなる。最低限そこを抑えるのが目的だ。

「ずいぶんな真似をしてくれますね」

 だが、無論こちらの意図などミスカーテには筒抜けだろう。その双眸に宿ったのは明らかなる憤怒だった。舐められていると受け取ったに違いない。実際は、必要に迫られているだけのことだが。

「さすがは彼のお嬢さんだ!」

 ミスカーテの指先から、幾つもの黒い筋が生まれる。揺らめくように迫るその動きは、こちらを絡め取ろうとする鞭のようだ。

 彼女は瞳をすがめつつ、刃を横凪ぎにした。そしてその反動に逆らわずに反転する。

 空を切る音に混じって下から声が聞こえる。頬のすぐ横を、何かが通り過ぎた。それでも彼女は躊躇しなかった。結界を右手に纏わせ、そして鞭の一端を掴む。そのままぐいと引き寄せれば、ミスカーテが絶句する気配がした。

「アース!」

 そして一声。あえて名を呼ぶ必要などなさそうだったが、これは「わかっている」という合図だ。同時に、黒い鞭を銀の一閃が切り裂く。――アースの剣だ。

「お前はまたそうやって無茶をするっ」

 そのままもう一本の鞭を切り払ったアースは、こちらには一瞥もくれずにそう吐き捨てた。彼女は苦笑する。

 怒られるのは覚悟の上だった。しかしこの状況では空中戦を選ばざるを得ない。ならばアースに来てもらうしかない。そのための選択だ。

 地上でカイキたちが騒いでいる声がするが、彼らにはそこから援護してもらうしかないだろう。地上へ近づく魔族の相手をして欲しいところだが、その狙いまで伝わるかどうか。

「だって空ならアースも得意だろう?」

 彼女はさらに、上空に向かって光弾を複数放った。そのうちの一つが、地上へ降りようとしていた一人に直撃する。が、これだけでは足りない。ミスカーテの黒い鞭を結界で弾きつつ、彼女は口の端を上げた。

「それに巻き込む心配も不要だ」

「こういう時だけ存分に甘えるな、お前は」

 アースが舌打ちするのも、彼女は聞こえない振りをした。甘えているというよりも利用しているといった方が正しいだろう。それでも優先すべき事柄を間違えていない限り、彼女は躊躇ったりしない。

「まあいい」

 体を捻ったアースの剣が、再び黒い鞭を切り裂く。その向こう側にいるミスカーテの双眸には、明らかに苛立ちが宿っていた。いつものように戦えないのがもどかしいのだろう。

 イーストがいるということは、この場ではミスカーテは大技が使いにくい。仲間を巻き込む可能性が高いからだ。魔族の数が減ってしまっては、イーストは撤退を選択してしまう。それはきっとミスカーテの望むところではない。

「どうやら申し子たちには一度痛い目を見てもらった方がよさそうだね」

 赤い髪を風に揺らして、ミスカーテは歪な笑みを浮かべた。その声音に滲む嗜虐の色を、隠すつもりなどなさそうだった。

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