第8話「自分たちが一番かわいいからだろう?」

 ぱきんと、氷に罅が入るような乾いた音がした。剣を振り下ろした滝は、真っ二つに割れた光弾を尻目に息を吐く。

 まさかこの剣で斬り伏せることができるとは、正直思わなかった。水色の光が瞬く中、彼は固い雪を踏みつける。体重を支えきれずに崩れた雪塊が、ざくりと音を立てた。

 目眩がしそうな重圧に耐えながら、山間で動くのは骨が折れた。呼吸はすぐに乱れるし、どうしても足が止まりそうになる。それでも自らを叱咤激励し、彼は顔を上げた。

「君たちは面白いね」

 滝が向かう先、雪面の向こうで、ついとイーストがこちらを振り返った。ごく普通の仕草のはずなのに、気圧される何かが感じられる。それでいて空気を含んだように揺れる空色の髪は雅やかだ。

 滝が息を呑むと、イーストはふんわり破顔した。

「私の前で立っていられるのでさえ珍しいのに」

 まるで純粋に喜んでいるような面持ちは、どうしても現実感を狂わせる。それでも目の前の男が敵であることに変わりはなかった。背後から駆け寄ってくるレンカの気配を感じつつ、滝は体勢を立て直す。

「それどころか立ち向かってくるなんて、こんなことは初めてだ。本当に人間かな? すごいね」

 くつくつと笑ったイーストの向こう側に、カルマラの姿が見えた。左の肩を押さえたカルマラは、片膝をついて歯を食いしばっていた。

 本当に一瞬のことだ。つい先ほどまで、彼女は無傷だった。しかしイーストがまるで呼吸するような自然な動作で右手を上げただけ。それだけのことなのに、カルマラは雪の中を転がる羽目になった。

 一体何が起こったのか滝にはわからない。これが五腹心の力なのか。

「私の技にも反応してしまうしね。まさか斬られるとは思わなかったよ」

 高揚感の滲むイーストの声が、鼓膜を揺らす。感心したように笑った彼は、悠然と髪を耳にかけた。

 褒められているようだが、今のは偶然だ。滝が読み切ったわけではない。光弾の気配もろくに捉えられなかったから、ほとんど勘だった。レーナの剣がなければ無理な芸当でもある。それでも対処できたのは幸運だったと言えよう。

 滝が息を詰めていると、追いついてきたレンカが精神を集中させるのが感じ取れる。彼女もまだ冷静だ。その事実が滝に活力を与えた。

 五腹心と呼ばれるような者からすれば、その気になれば自分たちなど一ひねりだろう。それでも誰かが死に行くのを黙って見てなどいられなかった。少しでも彼の興味を引けるなら、それに越したことはない。

「神技隊!」

 と、そこで左方からラウジングの声がした。いや、そう思った次の瞬間には、短剣を構えたラウジングが雪山の陰から飛び出してきた。

「ここは危険だ!」

 焦燥感に溢れたラウジングの声が雪面で跳ね返る。策があるとは思えぬ動きだ。滝は咄嗟に声を張り上げそうになった。しかし、その前にイーストが動く。

 一瞥としか表現できないイーストの動きが、冷たい風を巻き起こした。一気に周囲が白に覆われる。

 そんな中、氷粒を含んだ風がラウジングの体を巻き上げるのが見えた。まるで子どもに翻弄されるおもちゃのように弾み、落ち、跳ねる体。現実味のない光景だったが、そこで滝ははっとする。眺めている場合ではない。

 雪を蹴り上げて跳躍すると、右手で何かが結界にぶつかる音がした。おそらくレンカの技だろう。滝はかまわずそのまま雪面を駆け下りる。

 溶けて凍った後なのか、そこは思っていたよりも固い。勢いを削がれる心配はなかった。足に力を込めれば、ふわりと体が浮く。

 ただ純粋な精神を込めた剣を、滝はイーストへと向けた。しかし振り下ろした切っ先は、何か見えない力に阻まれるようにぶれた。嫌な予感がした滝は、咄嗟に身を捻る。視界の隅で光が瞬いた。

 遠くでかすかに氷を踏み砕くような音がした。そして何が起こったかわからないまま、滝の体は雪面へと叩きつけられた。耳元でぐしゃりと乾いた音がする。同時に、頭上を強い気配が通り過ぎていった。

 何かの技か? しかし幸いにも、どうやらそれは結界に阻まれたようだ。

「滝! そのままじゃあ川よ!」

 起き上がろうとすれば、固く凍った雪の上を体が滑り落ちていく。慌てて滝は剣を突き立てた。

 やにわにレンカの声がした右方を見遣ると、彼女の姿は存外遠くにあった。氷の風で吹き飛ばされたのか? そうだとしたらとんでもない強風だ。

「イーストは……」

 どうにか立ち上がった滝が周囲を確認するより早く、前方の気が膨れ上がるのが感じられた。剣を雪から引き抜いた滝は、そのまま後ろへ飛び退る。

 間一髪。ほぼ無意識に生み出していた結界に、水色の光がぶつかった。瞳をすがめながら面を上げれば、青い双眸がこちらを見据えているのが目に入る。

 ――弄ばれている。イーストの穏やかで楽しげな眼差しから、滝は直感的にそう悟った。

 あれは絶対的に優位な者だけが持ち得る表情だ。相手がどれだけいても関係ない。何を仕掛けられても揺るがない。ただこちらがもがくのを上から見下ろしているような、そんな眼差しだ。

「まだ人間を殺すつもりなのか!」

 途端、左手で声がした。これはミケルダだ。滝が視線を転じると、飛び出してきたミケルダが青い光弾を生み出すのが見える。あれは精神系だ。

 しかしそれはイーストに届くどころか、途中でぐにゃりと軌道を変えて枝にぶつかり、霧散した。明らかにあり得ない動きだった。ミケルダの気に驚愕の色が滲む。イーストにはこんなことも可能なのか?

 そこでようやく滝は、ミケルダが見慣れぬ剣を携えていることに気がついた。以前ラウジングが使用していた物と似ている。

 上の特殊な武器か? それは彼らがどれだけ本気でこの戦場に赴いてきたのか、端的に示していた。否、どれだけの覚悟を持って挑んできたのかという方が正しいか。

「君たちは勘違いをしているね」

 ふいとイーストが動きを止めた。左手を掲げ茶色い靴の先で雪面を叩くその様は、やはり場違いに優雅だった。心外だと言わんばかりにひそめられた眉さえ、流麗と表現したくなる。

「私たちは別に人間を殺したいわけではない。君たちが利用するから、巻き込む羽目になっているだけだ。そうだろう?」

 至極残念そうなイーストの声音が、ざわりと滝の胸の内を撫でた。ミケルダの気に若干の揺らぎが生じたのもわかった。おそらくそれはイーストにも筒抜けだろう。

「君たちはいつもそうやって私たちのせいにするね。本当に守るつもりならもっとやりようがあるんじゃないのかい? だから偽善者なんて言われるんだ」

 イーストの口ぶりは、穏やかであるだけによく染みた。彼が嘘を吐いていないのは、ミケルダたちの動揺が証明していた。

 滝はちらと、レンカの方へ一瞥をくれる。戦況を見守る彼女も動けずにいた。しかし遠くからでもわかるほど曇った顔色が、この状況の深刻さを物語っている。

 これは、おそらく揺さぶりだ。ミケルダたちを根本から叩きのめすための下準備だ。

 神技隊の扱いについて、神の中で若干の意見の相違があるのは滝たちも薄々気づいていた。ミケルダがどのように思っているのかも、なんとはなしにわかっていた。そうなだけに、イーストのこの指摘は痛い。

「そんな、ことは……!」

「仕方ないって? どうしようもなかったって? そう言って君たちはいつも他の生き物を踏みにじってきたね。自分たちが一番かわいいからだろう? それなのに魔族とは違うとことあるごとに主張する。私には不思議でならないよ」

 わずかな侮蔑が滲むその言葉は、おそらくミケルダたちの最大の弱点を突いている。傷を抉っている。その動揺は精神にも影響するだろう。まずい。

「いっそ堂々と言ったらいいんじゃないかな。利用しているだけだと」

 そう言って微笑んだイーストの手が、再び動き出した。しかし放たれた水色のつぶては、忽然と生み出された結界によって弾かれた。滝ははっとするが、しかしこの気はレンカのものではない。いつの間にか別の気が左手に現れていた。

「梅花ちゃん!?」

 ミケルダの背後、雪の向こうから飛び出してきたのは梅花だ。結わえた髪を翻し、彼女はきつとイーストを見据える。迷い一つないその眼差しはレーナのものを連想させた。

 それはイーストも同様だったようで、感嘆の吐息混じりに興味深げな声が空気を揺らす。

「ああ、あのお嬢さんのオリジナルか」

 ゆっくり梅花へと向き直ったイーストは、やおら口角を上げた。明らかにイーストの興味が梅花へと移ったのが見て取れる。いや、そう見せかけているだけか?

 滝はもう一度レンカと顔を見合わせた。何かあれば滝たちが動くしかない。その意図は通じただろうか?

「梅花ちゃんは下がって」

「そういうわけにはいきません」

 慌てて前に出ようとするミケルダを、梅花は短く制した。彼女一人で立ち向かえるわけがないが、それでも今のミケルダでは死に急ぐだけであると、即座に読み取ったのだろう。

 滝はイーストを警戒したまま、辺りの気を探る。青葉の気はまだ少し先にある。どうやら他の魔族に阻まれているようだ。

「いいね、その目。私の好きな目だ。強い心、純真な気、なるほどアスファルトのお嬢さんがあれだけの力を持つわけだよ」

 嬉しげなイーストの声音が、ぞくりと滝の背を震わせる。友好的な物言いは、温厚的な気と相まって得も言われぬ威圧感を生む。決してイーストは感情的にはならない。故に、隙も生まれない。まるでそう宣言されているかのようだ。

「でも君がいるとあのお嬢さんがこちらに来てくれないみたいなんだよね。それは困るんだ。どうしようかなぁ」

 イーストはふわりと頭を傾け、左手を顎に添えた。あえてゆっくりと喋るその意図は明白だった。

 ――嬲ろうとしている。恐怖に陥れ、動転させ、じわじわと削り取ろうとしている。それが彼のやり方なのか?

 滝は静かに剣を構えた。青葉がこちらへ駆け寄ってきているのがわかるが、しかし間に合う保証はない。

 そもそもイーストが本気になれば、全員でかかったところで負けるかもしれない。雪を踏みつける音が近づくのを感じながら、滝は呼吸を整えた。

「君をさらってしまえば、あのお嬢さんもこちらに来てくれるかな? 殺してしまうときっと怒るよね。でも人間を殺さずに痛めつけるのって骨が折れるんだよなあ。どう思う? 私としては、大人しく来てくれるとありがたいんだけど」

 一歩、イーストが前へと踏み出す。それだけのことで、周囲の空気が一気に凍り付いた。

 絶対的な者が生み出す圧倒的な存在感に、たじろがない者などいるのだろうか? 肌に張り付くちりちりとした痛みは、真冬の風によるものに似ている。滝は固唾を呑んだ。敵うはずがないと諦めてしまいたくなる。

「やっぱり梅花ちゃんは下がって」

 そこで慌ててミケルダが前に出た。雪を踏みつける音と共に、構えた短剣が淡い光を帯びる。やはりあれは精神を込めることができる武器だ。上が保管する、調整済みの得物だろう。

 しかしミケルダが跳躍するより早く、水色の矢が放たれた。動きに捻りはないが、とにかく数が多い。これだけの矢を短剣だけで防ぐことは困難だ。舌打ちしたミケルダは仕方なく左手を前に突き出す。

「ミケ、後ろ!」

 カルマラが叫んだ。はっとしたミケルダが振り返るのと、そこにイーストが現れるのはほぼ同時だった。――転移だ。剣を携えたまま、滝も一気に走り出す。

 人間相手だから加減が必要だと、イーストは言った。つまり相手が神であればそのつもりはないのかもしれない。転移を使ったのがその証拠だ。

 ぶわりとイーストの気が膨れ上がる。後退ろうと体勢を崩したミケルダに向かって、今度は左方から氷の矢が迫る。

 いつの間に生み出していたのか。まさか、自分という存在を囮に使ったのか? 滝は雪を踏みつけて飛んだ。それでもこの距離では間に合う気がしない。

「ミケルダさん!」

 だが幸いにも、ミケルダの側には梅花がいる。彼女が生み出した広範囲の結界が、迫る水色の矢を次々と弾き返した。攻撃されることがわかっていれば、それを遮ることは可能だ。

 けれども肝心のイーストの動きを阻むことはできなかった。まるで踊るような優雅な一歩と共に、細い腕が振られる。

 優美な手の先から生み出されたのは拳大の青い球だ。――精神系だ。滝がそう悟るや否や、またもやカルマラの声が響いた。

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