第6話「君の顔が見たくて来てしまったよ」
ミケルダは眼を見開く。鼓動が跳ねたと思った途端、 ついで感じたのは強い気だ。もちろん、ここではない。『下』での話だ。
「魔族!?」
弾かれたように顔を上げたラウジングの髪が揺れる。カルマラは何度も口を開閉させている。彼女が言いたいことはミケルダにもわかった。
突如現れたこの気が、魔族のものであることは間違いない。しかしこの強さ、そして鮮烈な冷たい色は、今まで感じ取ったことがないものだった。
「でも、これは、普通のじゃあ……」
戸惑ったようにカルマラが顔をしかめると、今度は不意に右手に気配を感じた。ラウジングの後方だ。縋り付きたい気持ちでミケルダは振り返る。
「アルティード様!」
白い光と共に現れたのはアルティードだった。まるで鼓動が速まるような錯覚に陥りながら、ミケルダは胸に手を当てる。アルティードが転移を使って移動するなど珍しい。つまり、それだけの何かが生じたということだ。
「ちょうど三人揃っていたな」
青い瞳を細めて、アルティードはこちらを見据える。いつもは穏やかなその気に滲む緊張感に、思わずミケルダは固唾を呑んだ。
ぞわぞわと背を這うこの異様な緊迫感は何なのだろう。最悪の事態が生じていないことを願いながらも、その予感に目眩を覚えそうだった。
「魔族ですか?」
「ああ。――イーストが現れた」
一拍間を置いてから、アルティードはそう答えた。一瞬、時が止まったように感じられた。聞き間違いではないだろうか? イーストとは、あの五腹心の名のはずだ。間違いであって欲しいと祈る心とは裏腹に、心が冷えていく。
「イースト……?」
震えるカルマラの声が鼓膜を揺らした。隠しきれなくなった彼女の気も、嘘であって欲しいと訴えている。あの五腹心が、まさか地球に降り立ったというのか? いきなりそんなことが起こり得るのか? 思考が完全に現状の理解を拒んでいる。
「出られるか? 人間たちがもう向かっている」
けれども続くアルティードの言葉が、ミケルダの頭をがつりと殴った。
人間たちというのは、おそらく神技隊のことだ。彼らが、あの技使いの若者たちが、五腹心と対峙している。ひゅっと喉の奥から息がこぼれた。
巻き込んだだけの者たちがとんでもない現実と直面させられているというのに、ミケルダたちがここにいてよいはずがない。
「行きます」
ミケルダの返事に、ラウジングとカルマラの首肯が重なった。
頷いたアルティードは一瞬だけラウジングへと双眸を向ける。そこにある気遣いの色は「最終調整がまだ」であるせいだろうか? しかしそれでもラウジングを休ませているような余裕はない。――相手は五腹心だ。
「わかっています。取り返しのつかない事態にならぬよう気をつけます」
アルティードの一瞥に応えるよう、ラウジングの冷静な声が回廊に響く。「取り返しのつかない事態」が一体何を指しているのか、この場で聞き返す勇気はなかった。ミケルダは一度固く目を瞑り、精神を集中させた。
雪深いナイダ山の麓に辿り着けば、木の上には既にレーナがいた。彼女は転移を使ったのだから当然だろう。風に揺れる彼女の髪を見上げつつ、滝は息を整える。
日が沈む時刻が近づいているせいもあり、辺りは薄暗い。気温もどんどん下がっているようだった。
「長居すると凍えそうだな」
苦笑と共に吐き出された息は白い。ワープゲートを利用したとはいえ、そこから先は自力での移動だ。この寒さに体温が奪われるのも時間の問題だった。手袋があってもじきに指先がかじかんでいくだろう。
滝は木の幹に手を添えた。固い雪を踏みつける音が背後から次々と迫っていたが、それでもレーナの視線は上空へと固定されていた。その先を、滝も真っ直ぐ見据える。
うっすらとかかる雲は、世界を淡い灰色に染め上げている。背の高い木々も雪を被っているせいで、なおのことその印象が強まる。だがその中に、一つ明らかに異なる色があった。
ナイダの谷を走る川の側、ひときわ太い木の上にいたのは、空色の髪の青年だった。本物の空よりも目に眩しいその色合いは、人ならざる者の証だ。
「久しぶりだね」
青年はかろうじて表情がわかる程度の距離にいたが、それでも降り落ちてきた声はよく通った。
穏やかながら理知的なものを感じさせる、凜とした声だ。それでいてどこか威圧的な響きを含んでいるように思えるのは何故だろう。彼が纏う気によるものなのか。滝は奥歯を噛む。
「出迎えてくれて嬉しいよ」
悠然と放たれたのは、表面的には友好的な言葉だ。声音にも敵意は滲んでいない。しかし、それでも滝の足はその場に縫い止められてしまった。
威圧されたせいではない。ただ青年の圧倒的な気が、これ以上近づくのを拒んでいるかのようだった。ざわざわと胃の底を揺さぶられたような不快感がある。
「ああ、久方ぶりだなイースト」
時が止まったような錯覚に襲われていると、ようやく木の上のレーナが口を開いた。彼女がうっすら微笑んだのが、滝の位置からでも見える。
イースト。その名を滝は胸中で繰り返した。何度も会話の中に出てきた、五腹心の名だ。そのイーストが今、目の前にいる。滝は固唾を呑んだ。
この冷たく、清々しく、胸を突くような気は、五腹心のものだからなのか。おそらく抑えているのだろうと予測はできる程度の大きさだが、それでも額に汗が滲む。
言動も穏やか。明らかな悪意が向けられているわけでもない。それでもこれほどの差を感じさせる存在というのは初めてだ。――いや、出会った当初のレーナもそうだったか。滝はそっとレーナの横顔を見上げる。
イーストを前にしても、彼女は普段と変わりがないように見えた。気にも焦りが滲んでいない。それがどれだけ滝を安堵させることか。仲間たちが揃いつつあるのを感じ取りながら、滝は周囲をちらと見回した。
なだらかな斜面には雪が積もっており、明らかに足場が悪い。戦闘には不向きだ。空を飛ぶにしても木々のせいで身動きが取りづらいから、連携をするとしても骨が折れるだろう。今は雪が降っていないだけましといった程度だった。
傍へ駆け寄ってきたレンカと目と目を見交わせると、またレーナの鷹揚な声が空気を震わせた。
「わざわざこんなところまでご苦労なことだな」
尊大とも思える言いぐさには、しかしどこか親しみも感じられた。
イーストとは顔を合わせたことがあると、以前レーナは口にしていた。それがどの程度の顔見知りなのか尋ねる気にもなれなかったが、にわかに気になってくる。
緩やかな風が吹き、細い木々が揺れた。枝からこぼれ落ちた雪が、風に乗って辺りを舞う。頬をかすめる冷たい雪片を避けるよう、滝は左腕を掲げた。と、ふわりとイーストが微笑むのが見える。
「君の顔が見たくて来てしまったよ」
柔らかくそう告げたイーストの背後に、また別の気が現れる。滝は息を呑んだ。
雪を被った太い枝の向こうに見えたのは、ミスカーテだ。揺れる赤い髪、黒い衣服が白い世界の中でいっそう浮き立って見える。そのねっとりとした笑みは相変わらずだった。
「それはどうも。変わりないようで何よりだ」
それでもレーナにはやはり動じる素振りがない。どこか悪戯っぽい響きさえ含んだ彼女の声には、まだ余裕があった。いや、そう見えているだけなのか? 滝には判然としない。
「そちらこそお変わりないようで。相変わらず可愛らしいね、君は」
イーストは、ミスカーテの方は一顧だにしなかった。たおやかに頭を傾けて笑みを深める様は、彼の言葉が本心からのものであると信じたくなる力を持っている。
どんなに気を探ったところで敵愾心は感じられない。その事実に、滝は頭を殴られたような衝撃を受けた。
もし彼が明らかな害意を向けてきたら、まともに立っていられる自信はない。それだけの気だ。しかし今までの魔族と違い、イーストは憎悪といった感情を宿らせてはいなかった。その差にどうしても戸惑ってしまう。
「お褒めの言葉、光栄だな」
答えるレーナの朗らかな声が鼓膜を揺らした。彼女があえて友好的な言動を選んでいるのもそのためなのか? いや、単にこれらは戯れのような挨拶なのか?
混乱しながらも、滝は今まで聞いたイーストという者の評価を思い出した。悪い奴のようには思えないと感じたのは正しかったのかもしれない。だが、敵であることは確かだ。彼らの目的は、滝たちの平穏を脅かすものだ。
「ところで今日は何用で?」
まるでただの旧友に問いかけるよう、レーナは口を開く。ミスカーテが興味深そうに笑うのが、滝の視界に飛び込んできた。この反応は予想外だったのか。
するとミスカーテの背後、彼方の空に、ぽつぽつと魔族の姿が現れ出す。
息を詰めた滝は拳を握った。手袋越しにも感じられる冷たい風が、ますます体温を奪っていくように思える。後ろで足を止める仲間たちの気配、息づかいも、寒さと緊張のためか強ばっている。
「ああ、せっかくだから君のオリジナルや仲間たちにも挨拶しておこうと思ってね」
イーストはなんてことないと言わんばかりに、首をすくめた。揺れる空色の髪を耳にかける仕草は、場違いなほどに優美だ。
その様を見上げながら、滝はまるで小劇場でも見せられているような心地になる。とにかく現実感が乏しい。ミスカーテの妖艶な笑みが視界をちらつかなければ、夢だと思いたくなったかもしれない。
「ほら、顔がわからないというのはなかなか不便だろう? こちらも、そちらも」
「なるほどな。お気遣い感謝する」
そうしている間にも、一人また一人と魔族が増えている。話をしているイーストからは依然として敵意は読み取れなかったが、背後にいる魔族たちは違った。彼らの気は明らかにこちらを害しようという意思を纏っていた。
挨拶だからといって、本当に何もせずに帰るつもりはないのだろう。滝は奥歯を噛んだ。イーストの思惑に不明な点は多いが、このままあっさり撤退という展開は望めない。
「滝……」
小さく呼びかけてくるレンカの声も、かすれていた。滝は振り向くことなく相槌を打つ。神技隊はほぼ揃いつつあるが、この五腹心を前にどれだけの者が動けるのか不明だ。滝とて同様だった。
「いいんだよ、別に。私は君のことが気に入っているんだから。そちらはどう? またこちらに来ないかい? アスファルトも寂しがっているよ」
頭を振ったイーストは、ついで優雅にくすりと笑った。滝は背中がぞくりと粟立つのを自覚する。
今、この魔族は何を言ったのか? 一瞬頭が理解するのを拒んだ。イーストの背後にいる魔族たちでさえ、にわかにざわついていた。滝の後ろから、誰の声ともつかない当惑の吐息が聞こえてくる。
その誘いには一体どんな意図があるのだろう? こちらを揺さぶるつもりなのか? いや、部下まで揺さぶってしまっても、イーストに利点はないだろう。動じたままあれこれと考えつつ、滝はレーナの動向をうかがう。彼女は一体どのように答えるつもりなのか?
「お誘いありがとう」
まず当たり障りのない柔らかな返答が雪上に染みた。上っ面だけのようにも聞こえる、それでいて悪意の滲まぬ彼女の声は、なるほどイーストのものと似ているのかもしれない。少なくともやり口は同じだ。
「けれども残念なことに、愛しいオリジナルたちがこちらにいるのでな。それはできないんだ。できればこちらに来て欲しいなと、そう伝えておいてくれないか?」
小首を傾げたレーナはついでそう言い放った。あくまで敵意はないのだと告げるような内容の、それでいて確実な拒絶。滝は顔をしかめた。
これはまさか、戯れのように見せかけた交渉の決裂だったのか? 不意に脳裏をよぎったのは、シリウスとレーナのやりとりだ。
二人は軽口を叩きながらも互いの利害が――少なくとも現時点では――一致していることを確かめたようだったが、今回はそれとは真逆だった。悪意も敵意もないが、利害が一致しない。そういう確認だ。
シリウスが彼女を引き入れようとしたように、魔族の中にも、彼女を内に取り込もうと考えている者がいるのか。単純なことのはずなのに、今までその可能性に気づかされなかったことを、滝は自覚する。
それはある意味、彼女が神技隊を裏切ることなどないという確信があったからこその考えとも言える。
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