第3話「愛されているのね」
いや、彼が直接的な表現を選ばないからこそのやりとりと考えれば、彼にも責任があるのか。まるで決定的な一言を避けているかのようで、時折梅花は不思議な気持ちになる。
「こんなところにレーナが一人でいると心配なんでしょ。ふっとどこかへ行ってしまいそうな顔してるもの」
仕方なく、梅花は代わりにそう答えた。そしてゆっくりと歩き出す。どちらかの味方をするつもりはなかったが、このままでいいとは思えなかった。傍で見ているだけというのも、なかなか困るものだ。
「オリジナルがいるだろ」と言わんばかりにレーナは怪訝な気を放つ。それでも梅花は気づかない振りをした。
レーナがどう思っているのであれ、休息が必要なのは確かだ。とにかく彼女は忙しい。武器の調整依頼はひっきりなしのようだった。アースがいなければ、彼女はおそらくずっと休まないで動き続けてしまう。
「私は先に戻るわね」
そう言い残しながら歩を進めれば、ちらとだけアースの眼差しがこちらへ向けられた。梅花は何も言わずに相槌を一つ打つ。レーナを任せたなどと傲慢なことは言えないが、気持ちとしてはそれが近い。
アースが欄干の方へ駆け寄るのを横目に、梅花はそのまま扉へ向かった。再び冷たい風が吹き込み、髪とスカートをはためかせる。背後で彼がまた叱責という形の文句と懸念をぶつけているのが、かすかに聞こえてきた。
「愛されているのね」
ぽつりと唇からこぼれ落ちたのはそんな言葉で。梅花は自分自身に喫驚した。それと同時に、胸の奥にすとんと何かが落ちた。
誰かを常に気に掛けるというのは、そういうことなのだと。同情や哀れみだけでは説明のつかないものがそこにはある。
後ろ手に扉を閉めると、勝手に吐息がこぼれた。まだかすかに白い息が、ゆっくり空気へと溶け込んでいく。短時間しか外に出ていなかったというのに、体が冷え切ったことを自覚させられた。
こんな時間に屋上にずっといてもレーナが平気そうなのは、やはりおかしい。これが人間ではないということなのか。
複雑な思いで手を摺り合わせ、やおら顔を上げたところで、階段の下に人影があることに気がついた。きょとりと瞬きをした梅花は、ゆっくり一歩を踏み出す。
「青葉?」
人気のない廊下からこちらを見上げているのは青葉だ。何故だか気を隠している。不思議に思って首を傾げれば、彼は何か言いたげに眉根を寄せた。
「どうかしたの? 気なんか隠して」
怪訝に思いつつも彼女はぱたぱたと階段をおりる。わずかに視線を外した彼は、耳の後ろを掻いた。見慣れた仕草だ。何か言いにくいことがある時によく見かける印象がある。
「いや、それはアースがいたから。あいつ、オレが近づくと勢いよく睨み付けてくるから」
彼はぼそぼそと説明した。そうまでしてここに来たというのは、何か特別な用があったのだろうか?
彼女は記憶を呼び起こす。しかしこれといって急がなければならない相談事はなかったはずだ。何を考えるにしろ、様子見しなければならないのが現状である。
「何かあった? 今日は待機当番じゃなかったわよね……」
最後の一段をおりると、かつんと靴音が高く鳴った。自分が忘れているという可能性がないなら、突発的な問題でも生じたということなのか。すると彼は嘆息を堪えたような顔で曖昧に首を振る。
「いや、何かってことじゃなく。……当番の日じゃなきゃ会っちゃ駄目なのか?」
「え? そんなことないけど」
思わぬ事を言われて彼女は当惑した。駄目などということはない。が、かつて宮殿では、用がなければ誰も会いになどこなかった。例外はミケルダやリューくらいだろうか。
神技隊に選ばれてからは、会う会わないという問題ではなく仲間たちと行動を共にしていた。何も用事がないのに探す、探されるという状況は、この基地に来てから生じることだ。
そこでふいと彼女は屋上のレーナを思う。こんな早朝にアースが様子を見に行くのも、そういった部類に入るのだろうか。
考えてみると、彼らは今までずっとほとんど一緒にいたはずだ。探す、探されるという関係はこの基地に来て始まったことなのかもしれない。
「私、何か心配かけるようなことしたかしら」
それでは自分が探されていたというのは、何か懸念事項でもあったのか。ぽつりと独りごちた声は、思いのほか廊下によく響いた。
これでは確実に聞こえてしまっただろう。青葉が訝しげに眉をひそめるのが見え、梅花は内心で慌てる。
現時点では心当たりはないが、前科は十分だ。たぶんまたどこかで倒れているのではないかと心配させたのだろう。取り繕うよう歩き出した彼女は、はっとしてちらと振り返る。
「ううん、何でもないの。青葉、朝食は?」
ようやく日が昇ったという時刻だ。きっと彼はまだ食事をとっていないだろう。しかし彼女は既に済ませてしまっていた。余計な心配で、無駄な時間をとらせるのは申し訳がない。
「……え? いや、オレはまだ」
「そうなの。私はリン先輩ともう食べちゃったのよね。今朝、部屋を出たら扉の前にいて」
梅花は苦笑しながら、コートのボタンを外す。理由もなく会いに来るといえばリンも同様だった。
たまにリンは「早く目が覚めちゃったから」と言っては、朝食を簡単に済ませがちな梅花を迎えに来る。リンがいると何故かしっかり食べることになるのは不思議だ。その勢いに呑まれるからだろうか。
「リン先輩が?」
追いかけてきた青葉は片眉を跳ね上げる。気は隠されたままだが、あまり快く思っていないのは声音から察せられた。理由は思い当たらない。青葉とリンはそれなりに仲の良い方だ。
「うん。たまに来るの。……私が栄養不足にでもなると心配してるのかしら」
梅花はついと視線を下げた。リンから誕生日プレゼントとして受け取った靴が視界に入ると、少しだけ複雑な気分に襲われる。幾人もの人間に気を遣われているというこの現状はいかがなものだろうか。それだけ自分は危うく見えているのか。
「まあ、それもあるだろうけど。単純にお前と一緒に飯食いたいだけじゃないか?」
すると、どこか戸惑ったように青葉はそう答えた。単純にという単語が、妙に強く梅花の耳に残る。おもむろに顔を上げると、困惑気味な面持ちをした青葉と目が合った。
自分と食事を共にしたいという希望が、梅花にはぴんとこなかった。楽しい話し相手ではないだろう。しかもわざわざ梅花を選ばなくとも、リンには知り合いが大勢いる。
「もっと仲良くなりたいってことだろ」
梅花の困惑が伝わったらしく、青葉は苦笑交じりにそう付け加えた。彼女は思わず目を丸くする。食事を共にするというのは仲良くなるための行為の一つらしい。そういった発想は彼女の中にはなかった。
振り返ってみても、宮殿で誰かと食事を共にした記憶がほとんどない。自分から誘うという概念はなかったし、大人数がひしめき合っている食堂で誰かと偶然会うということもほとんどなかった。そもそも誰もが忙しい。特に大人は。
――もちろん例外はいた。定期的に暇を作り出しては、梅花をお茶に呼び出してくる女性が一人だけいた。母の知り合いだから気に掛けてくれているのだろうと思っていたが、少なからずそういう意図もあったのだろうか?
「……そういう、ものなのね」
「食事に限らず大体そうだろ。一緒の時間を過ごすだとか、何かやりとりをするとか、そういう行為は仲良くしたいって意思表示みたいなもんだ」
「まあ、そういう知識はあったんだけど」
断言されて、梅花は言葉を濁した。あれこれと過去を思い返せば返すだけ、気分が沈む。徐々に歩調が落ちていく。
今まで自分が気づかずに通り過ぎてきた縁というものは、実は多いのかもしれない。
どんなに気が感じ取れたとしても、その感情の裏にある思いが読み取れなければ、そこに応えようとしなければ、ささやかな繋がりなどいとも簡単に切れてしまう。伸ばされていた手に気づかなかったことが何度あっただろうか。
そこまで考えたところでふと気づく。それでは、今の自分はそうした繋がりを維持しようと思っているのかと。かつては、ただ誰の迷惑にもならずに、消え行くことだけを考えていたのに。
「梅花が書いてた手紙だってそうだろ」
ぶっきらぼうに青葉はそう続けた。その指摘に、梅花はふっと頬を緩めた。
そうだ。手紙のやりとりだって、きっと繋がっていたいという表明の一つだ。母がそれを受け入れたのも、そういうことだ。今まで数々の縁を引き剥がし続けてきたけれど、ここにきて梅花はそれを止めたのだ。
「そう、ね」
「もう出したのか?」
「うん、この間リューさんに預けてきた。いつ届けてもらえるのかはわからないけどね」
コートの襟を指先で掴み、足を止めた梅花は頷いた。神技隊は無世界から撤退という形になったが、無世界の様子見は現在も継続されている。リュー経由なら手渡しも可能だった。
本来そうした行為は受け付けてもらえないのだが、ほぼ特例扱いだ。母の件についてはリューも罪悪感を覚えているせいだろう。
以前ならそこに付けいるような行為は気が咎めたが、今はそれはそれでよいのかもしれないと思えるようになった。
何か力になれることがあった方が、リューにとってもいくらかは気が楽になるのではないか。そんな風に自分にも言い聞かせてみる。
「梅花」
不意に、頬に何かが触れた。はっとした梅花は視線を上げる。一歩先で立ち止まっていた青葉は、神妙な顔をしていた。戸惑った彼女が何も言えずにいると、彼の指先が頬から顎先へとなぞるように下りていく。
「ど、どうかしたの?」
「……お前、ずいぶん優しく笑うようになったな」
困惑して尋ねれば、しみじみとそう告げられた。思わぬ言葉に彼女は眼を見開き、逆の頬へと自分でも触れてみる。笑っているつもりなどなかった。自覚はなかった。それでも彼がそう言うのだから微笑んでいたのだろう。
「私、笑ってた?」
自然に笑うことなど無理だと信じ込んでいた。『営業』のための微笑みを、ようやく会得したと思っていたところだ。それなのに、まさか知らぬ間に笑っているなんてことがあるのか。手を下ろしながら、彼女はおずおずと彼を見上げる。
「本当に?」
「ああ。息が止まるかと思うくらい可愛かった」
静かに頷いた彼は、そのままふいと視線を逸らす。彼女はその言葉を脳内で反芻し、瞳を瞬かせた。
「え……かわい、い?」
声に出したものと、その単語の意味がすぐには結びつかない。どうにか意味は手繰り寄せられても、前後の文脈と照らし合わせて、文意を見いだすまでに至らなかった。
可愛いというのが一体何のことを指しているのか飲み込めず、ただただ瞬きを繰り返す。
「わかんねーならいい」
彼女が当惑し続けていると、ふてくされた声と共に彼の手が離れた。重たげなため息が廊下に染みこむ。気が感じられないのに、彼が不機嫌になったことだけは明白だった。
立ち尽くしている彼女を置き去りに、彼はそのまま廊下を歩き出した。その背中を見送りながらも、やはり彼女の足はその場に縫い止められたまま。何か言うべきだと思うのに、適切な言葉が導き出せなかった。
「じゃあアサキたちと朝食とってくるから」
とってつけたように残された言葉から、彼女は突として察した。青葉は彼女を朝食に誘うつもりだったのだろう。――もっと仲良くなるために。よく思い出せば、以前にも彼はそういった内容を口にしていた。
響く靴音が小さくなるのを耳にしつつ、彼女は無性に鏡を探したくなった。自分がどんな顔をしているのかわからない。今すぐにでも確かめたい。
『息が止まるかと思うくらい可愛かった』
脳裏をよぎる彼の言葉に、にわかに頬が熱くなる。突然の気恥ずかしさに、胸の奥がもぞもぞとむずがゆくなり、いたたまれなくなった。冷静になるための術を探したいのに、思考が空回りする。
どうすれば誰にも会わずに部屋に戻れるだろうか。限りなく不可能な難題を突きつけられたような心地になり、彼女は途方に暮れた。まずは動かなくなったこの足を、どうにかするところから始めなければならなかった。
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